エリュシオン
春嵐
エリュシオン
誰かが、自分の縄張りを荒らしている。
それも、普通の半端者のやりかたではない。その、真逆の方法で。
どんどん、治安が良くなっていた。縄張りを他の組や外国のマフィアが荒らしに来れば、治安は悪くなる。それに乗じて警察と協力し、勢力は伸ばせる。ただ、今回は、治安が良くなっていた。
治安が良くなれば、自分のような人間は要らなくなる。警察の外側にいる、外付けの治安維持装置みたいなものだから。
「神炉町も、変わりましたね」
警察のカウンターパート。のんびりコーヒーを飲んでいる。
「治安が良くなれば、警察は腐敗する」
「それが、そうでもないんです。どうやら官邸から内偵が入ったらしくて、素行が悪いやつや平和が性に合わないやつはみんな飛ばされました」
「そう」
「神茄さんは、どうするんですか」
「何も」
「もう、他の組は全滅ですよ。あなたが神炉町最後のはぐれ者だ」
闘う相手がいない。誰かを守る必要もない。味気ないだけの日々。
「どうしようかな」
答えは出ないままだった。いや、答えそのものを出したくないのかもしれない。自分の望む結果に、ならないから。
カウンターパートは、コーヒーを飲み終えてから帰っていった。
彼のことが、好きだった。はぐれ者のわたしにも、彼はやさしく接してくれる。ただ、一匹狼が気軽に尻尾を降るわけにもいかなかった。何度か一緒にいるが、告白は全て断っている。いつ背中を刺されるか分からないのが、半端者の人生。安定と幸福は存在しない。ただただ、硝煙と索漠の支配する生活。
そんな
いつの間にか、眠ってしまっていた。部屋の外。夜が来ている。
部屋を出て、夜の見回り。町は平和そのものだった。ただひとつ、エリュシオンという薬物の横行を除いて。
この薬物が、とにかく厄介だった。この薬ひとつで、自分以外の半端者は全員いなくなった。
液体の薬で、飲むと気分が安らぐ。脳内がすっきりし、まるで映画を見た後のような満足感が得られる。そこまではいい。普通の薬にすぎない。問題は、依存性がまったく無いことだった。この薬は、身体ではなく心に作用する。だからこそ、無害、無毒。依存しない。甘みが入っていない分、自動販売機のコーラよりも身体にやさしい。
夜になると、エリュシオンがそこかしこで取引される。仕事に疲れた人間や家事ひと休みの主婦、果ては勉強の合間の学生に至るまで。エリュシオンを買っていく。そして、いっときの精神の安寧を得る。それがこの町の仕組みを変えていった。過剰な飲み食いも違法な何かも要らない。エリュシオンを買って飲めば、それだけで満たされる。明日を生きる気力が湧く。
路上で、エリュシオンをひとつ買った。飲む。何も感じない。自分は、一度もエリュシオンが効いた試しがなかった。残るのは、満たされない気持ちだけ。はぐれ者に、精神の安寧など必要ない。面と向かってそう言われているような気分だった。
エリュシオンの
考えだけが、とりとめもなく流れた。町を一周し、平和な状態を目に焼きつけ、部屋に戻る。追加で買ったエリュシオンを、飲む。何も感じなかった。
眠り、そして、起きる。
警察のカウンターパート。来ていなかった。
彼に、会いたい。そう思う。そして、次に会ったら、もう、終わりにしようとも思う。自分が、自分でないような感覚。町が、自分を必要としていない。エリュシオンの流行の中で、自分だけが、取り残される。
外に出たい気分を抑え、暗くなるまで部屋にいた。今日は、エリュシオン流通の元締めに会う。
また、少しだけ眠った。夜。
部屋を出て、警察に向かう。
エリュシオンは、警察が横流しした薬物だった。だから、
裏口から入り、上層階へのエレベータを使って、いちばん上へ。
おそらく、署でいちばん景色が良いであろう場所。最上階の、ガラス張りの部屋。
ノック。
「どうぞ」
男の声。
入った。
「おっ。神茄さん。どうしました?」
カウンターパート。彼が、エリュシオンの元締め。
「エリュシオンについて、聞きに来た」
彼の顔から、笑顔が消える。
「なぜ、町にエリュシオンを流した」
彼。ウォーターサーバから、水を出して飲んでいる。
「あなたのためですよ」
「わたしのため、か」
紙コップ。目の前に置かれる。水。
「あんたが元締めじゃなければいいのにと、思ってた。ずっと。叩き潰して終わりだから」
「僕なら、簡単に叩き潰せるじゃないですか。あなたのほうが強い」
あなたじゃなければよかったのに。そう、思う。彼以外なら、何の感情もなく排除できる。でも、目の前にいるエリュシオンの元締めは、自分が好きな人間。自分が求め、一緒にいたいと思う人間。
「エリュシオンを飲むと、気分が良くなるんです」
「わたしには、効かなかった」
出された水を、少しだけ口に含む。毒も薬物も入っていない、ただの水。
「まるで壮大なドラマが頭の中を駆け抜けて星になりました。エリュシオンを飲んだひとは、みんな、そんな感じの充足感を得られます」
「わたしには分からない。効いたことがないから」
「ええ。そういうものなので」
「そういうもの?」
「あなたが飲んでいる、その水」
指差された。紙コップ。
「それが、エリュシオンです」
ウォーターサーバ。もうひとつ、紙コップの水。
「エリュシオンは、ただの水です。いちおう、とても日持ちの良い特別な水ではありますが、結局のところ水は水です」
「水」
エリュシオンが。水。
「その水を飲むひとに、暗示をかけるんです。これを飲むと、まるで壮大なドラマが頭の中を駆け抜けてお星さまになりますよ、って」
「ばかみたいな話だな」
「ええ。ばかです。あなた以外は。みんな騙されて、ただの水に満足感を得ています」
この水が。エリュシオン。
「そんなことをして、何になる」
いちばん聞きたいのは、それだった。
「あなたのためです」
「だから、なぜ。市民にただの水を配って、町を平和にして。わたしは闘う相手がいなくなって孤立している。はぐれ者なのに、ひとりだ。わけがわからない」
「そう。あなたを町から切り離すためのエリュシオンです。町は平和になって、もうあなたの存在を必要としない」
紙コップの水を、彼に投げ掛けた。綺麗に、彼が濡れる。
「いらいらしてますね」
「いい気分ではないからな」
「じゃあ、いい気分にしてあげます」
彼が、小さな箱を取り出す。
「指輪が入っています。あなたへ」
指輪。
「あなたは、生きている限りずっと、町を守り続ける。僕のことを見ないふりして、ずっと。だから、町を平和にして、あなたが町から見放されるのを、待ってたんです」
「わたしが」
「ええ。あなたのためです。そして、俺のために。指輪。受け取ってもらえますか?」
エリュシオンまみれの、彼。笑顔。
「恋した相手が、あなたじゃなければよかったのに。そう、何度も思いました。あなたの恋人は町で、そして相思相愛だった」
「だから、町を平和に」
「ええ。町とあなたの仲が、引き裂かれればいいと思って。最低ですね」
彼。笑顔。
「でも、あなたのことが、好きだったので」
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