鳥になりたかった
永瀬鞠
ふと目が覚めた。
辺りはまだ薄暗かった。枕元の時計に目をやって時刻を確認すると同時に、日がだんだんと短くなってきていることを感じる。気がつかないうちに、季節はもう秋になっていたらしい。
いつもの休日よりもずいぶんと早い目覚めなのに、不思議と頭はすっきりとしていた。上半身をゆっくりと起こす。
隣ではまだ妻が安らかな顔で眠っていた。その寝顔を何気なく見つめてから、天井近くにある小さな窓に目を向けた。窓を通して薄明るい空がよく見える。
静かで、穏やかな朝だった。ぼんやりと空を眺めているうちにぼくは、ひさしぶりにきみのことを思い出していた。
きみは天使だった。日の光に透ける明るい髪をもっていて、背中には真っ白な翼が生えていて、そうして、くるりと空中を舞った。
天使の羽が抜けないことは、きみから教わった。いわゆる天使の輪は髪のキューティクルのことなんだというきみの話を、ぼくはけっこう信じている。天使の寿命が人間の寿命の何倍も長いことも、きみから聞いた。
ぼくは、きみのことを憧れのように見つめていた。ぼくはずっと、生まれ変わったら鳥になりたいと思っていたから。
高い空を飛ぶ鳥がうらやましかった。町を、世界を、見通す視界の広さは、どんなに気持ちがいいだろうと思っていた。ふわりと空を飛ぶきみがうらやましかった。なんて軽やかで自由なんだろうと思っていた。
ぼくときみが毎日のように顔を合わせていたころ、ぼくたちは同じ年頃だった。おとなとこどもの間の、ずっとこどもに近いところ。
きみはぼくよりも少しだけ大人びていて、けれど同じくらいこどもでもあった。きみもぼくも、まだ幼かった。
不思議なことにぼくは、きみに初めて会ったはずのだいたいの時期は覚えていても、初めて会った日のことは、いまでも思い出せない。
どんなふうに出会ったのか、どんなふうに仲良くなったのか、まるで記憶が消えてしまったかのようになにひとつ思い出せなかった。
気がついたら、一緒にいた。
だからぼくときみは、知らないうちに、ずっと昔から一緒にいたのかもしれなかった。そんな幻を見ていた。
無邪気な日々。たくさん笑った。それなりに悩んだり、泣いたりもした。
きみといろんな話をした。いろんな景色を一緒に見た。思い返せば、やさしい思い出ばかりだ。
きみと会わなくなってから、十数年が経つ。もう、そんなに経った。
それでもきみの表情、きみのまとう空気、それらはつい最近のことのように、鮮やかに覚えている。
窓の向こう側で、空が徐々に明るくなってきた。徐々に青みを帯びてきた。雲ひとつ見えない。今日は晴天らしい。
一羽の鳥が空を横切った。遠くで犬が鳴いていた。
いつからだったか。きみと会う回数が少しずつ減っていって、きみのことが少しずつ見えなくなっていって、ぼくはきみがいなくても、生きていくようになった。
寂しさはあった。焦りもあった。けれど、すがる気持ちはなかった。
ぼくはいつまでもきみといられないことを、心のどこかでわかっていたのかもしれなかった。離れても、それが別れではないことも、心のどこかで知っていた。
またいつか会えると、信じていた。きみもきっと信じていたから、ぼくも信じていた。
悲しい夜には、ベッドのふちに座って気まぐれに子守唄を歌ってくれたなつかしいきみのことを思い出す。幸せな時間にはふと、きみのおかげだと思いを馳せることもある。
きみを思い出すといまでも元気が出て、勇気が出て、あたたかい気持ちになる。きみはそういうひとだった。
きみは知っているかもしれないけれど、もしかしたら知らないかもしれないけれど、ぼくはきみのことを、あのころも、今も、変わらず、大好きで、大切なともだちだと思っている。
きみと過ごした時間はいつでも、ぼくの人生の中で大切な時間だった。そういうふうに、きみはぼくを支えている。きっと、これからもずっとだ。
衣擦れの音がしてふりむくと、半分まぶたを開けた妻と目が合った。
もう起きてたの?とかすれた声で言った彼女に、うん、と小さく返すと、ぼくのうしろ、窓から差し込んだ明るい光を見て、いいてんきだね、と小さく笑った。
ぼんやりとした輪郭をなぞるように、ぼくはいろんなことを思い出したり、忘れたり、また思い出したりしながら全部を抱えたまま、少しずつあの日々から遠ざかっていく。
いつかきみは、年老いたぼくに会うだろうか。年老いたぼくはいつか、大人になったきみに会うだろうか。
あのころと変わらない調子で、ぼくたちは話すのだろうか。お互いを見つめて、軽やかに笑うのだろう。
生まれ変わるなら、鳥になりたいと思っていた。いつかきみが見ていた世界を、ぼくも見てみたかった。
そういうふうにきみは、ぼくを支えている。支えているんだよ。元気かい。
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