《狩人》のアゼル
ツェツェクに一声かけた後ジュチとモージは天幕を出て、柱を二本立てて綱を張った
なお心配していたエウェルの体調は朝餉の前に様子を診たモージのお墨付きが出るくらいには陰りが見えない。今もお互いの体格差を考えずグイグイと体を押し付けてくるから間違いはないだろう。エウェルにとってはじゃれ合いのつもりだろうが、小柄なジュチにとってはボディプレスをかけられているに等しい。四苦八苦してのしかかってくるエウェルを押しのけていた。
遅れて天幕から出てきたモージもそんな一人と一匹のやり取りを見てカラカラと笑いつつ、綱に繋いである大人しい牝馬に馬具を装着していた。
「遊んでいないでそろそろ出るよ」
「……遊んでいるように見えるならとっかえてくれよ。こいつ、隙があれば全体重をかけてのしかかってくるんだぜ」
「その悪たれに乗るのは山に登る時だけで十分さね。普段使いにするには鼻っ柱がだいぶ強いからねぇ」
なおその鼻っ柱が強い悪たれに心底からおっかながられているのが当のモージである。視線を向けられただけでそそくさとジュチの後ろに隠れようとする辺りにその心の機微が読み取れる。ところでお前自分より小さい騎手の後ろに逃げるとか恥ずかしくないのか?
非難の目を向けるも山羊に羞恥の感情が持ち合わせているはずがないので、平然とした顔でメェェと鳴きながら見返してきた。
そのとぼけた顔になんとも言えず脱力してしまい、何も言わず相棒の背に乗り込もうとする。鞍を付けた背中をトントンと二度叩くと心得たように四肢を追って座り込む。素早くその背を跨いで鞍に腰かけ、再度同じ間隔で叩くと遅滞なくエウェルは立ち上がった。
準備は出来たかと目で問うモージに頷きで応える。
「行くよ」
「ああ」
短く応じ、それぞれの乗騎に出発の合図を入れると、牝馬と山羊はゆっくりと歩きだした。
族長とその家族がすむ天幕までモージの天幕から馬を使って半時間、距離に合わせれば五キロメートルと言ったところか。
モージの天幕は比較的族長の天幕から近い方で、遠い方になればその何倍も離れている同胞もいる。天空から俯瞰すれば天幕三~四戸ほどが一塊になり、さらにその塊が一〇~二〇ほどの数で族長の大天幕を中心に点在しているように見えるだろう。
そして各小規模集落間の距離はかなりバラバラで、近いものならばそれこそ族長とモージの天幕ほど。遠い集落間ならばその何倍も距離が離れている。
国土が狭苦しい島国だった前世と比較すれば
というよりも逆にこれくらい各戸の距離が離れていないと、各々の家族が所有している家畜群に十分な量の草を食べさせることが出来ない。健やかに暮らしていくために遊牧生活は農耕生活よりもはるかに広い土地を必要とするのだ。
あまり天幕が密集していてはあっという間に周囲の牧草は家畜たちに食い尽くされ、却って天幕の移動に手間暇がかかるばかりだ。そのため部族はある程度まとまって行動しつつも基本的に距離をとって家族単位で生活していた。
モージの天幕もその例に漏れないが、呪術師であるモージは族長の相談役でもある。そのため族長の天幕付近に居を構えつつ、人手や食料を割合頻繁にやり取りすることが多い。男手もない老婆と子供二人だけの一家がまともに暮らしていくには有力者の庇護が必要不可欠なのだった。
閑話休題。
このように各戸の距離が離れているものの一年を通じて頻繁に情報や人手のやりとりを発生するし、男たちは協力して大きな家畜の群れを作り、遠くまで放牧に出かけていく。物理的な距離は離れているが、心理的な距離はむしろ密接だ。
こうした生活が成り立つのはひとえに遊牧部族にとってひと際重要な位置づけにある馬がいるからこそであった。逆に言えば馬がいなければ遊牧生活は成り立たない。それほどに馬は遊牧民にとって重要な家畜なのだ。
この大地では馬とは人間の兄弟であり、第一の友であった。
「んー。やっぱり夏はいいよな、風が気持ちいいよ。このまま昼寝でも出来れば本当に最高なんだけどな」
「そりゃそうだろうよ。冬なら鼻水が凍るし、春先でも油断できるような寒さじゃない。昼寝なぞしようものなら身体を冷やして風邪をひくだろうさ」
山嶺の中腹にある豊かな緑の絨毯の中を緩やかにエウェルに駆けさせながら、天に向かって体を伸ばす。青空に輝く太陽の日差しが燦々と降り注ぎ、貴重な活力の元を山脈の草木に贈っていた。
何とも心安らぐ気持ちの良い日差しだった。叶うことなら大地を布団に牧草を枕にして昼寝の一つも決め込みたいところだ。
海抜八〇〇〇メートル級の峰すらいくつも備える竜骨山脈。その中腹から麓の辺りに居を構えるジュチらの部族も相応に厳しい環境で暮らしている。気候は寒冷、土地は痩せて家畜の糧である草の育ちは悪い。
故にジュチの漏らす呑気な発言にもそうした切実な背景がある。のんびりと太陽に身を晒しながらの昼寝など、寝食に余裕がある者が出来る贅沢なのだ。
そもそもジュチらが言う『草原』、竜骨山脈を下った比較的低い位置にある大高原ですら海抜一〇〇〇メートル以上の高度に位置する。普通に高山植物が生育している気候風土だ。肥沃な土地はほんの一握り、その一握りの土地を巡って遊牧民たちは部族に分かれて争い合う。
竜骨山脈の雪峰を屋根に暮らす遊牧の民は総じて厳しい生活を強いられているが、逆に『草原』……ウンドヴルク高原に住む遊牧民らが極楽浄土で暮らしているかと言えばそうでもない。敢えて言うならば草原と言う地形そのものが決して人間に優しくないのだった。
二人はそんな風に雑談を交わしながら牝馬と山羊を駆って進んでいく。そして族長の天幕までもう半分といったところで、視界の先で動く者が目に留まった。
「……誰かいる」
「うちの男衆だ。一騎か」
互いの距離はキロ単位で離れていたが、視線の先で騎馬が立ち止まり、視線をこちらに向けたのが分かった。挨拶のために手を振ると、なにを思ったかこちらへと馬を駆けさせてくる。
「……アゼルだね。なにか変わったことでもあったか」
「本当だ。族長の天幕から来たのかな」
族長の甥にあたる男の名をモージが呟くと、遅れてジュチも同意を示す。自慢にならないが、ジュチはこの距離からでもアゼルの人相は勿論表情もはっきりと見えていた。視力で言えば余裕で2.0以上はあるだろう。
それが自慢にならないのは部族の誰もがこれくらいの視力は標準装備しているからだった。山脈に居を構えるとは言え部族の行動範囲はもっぱら見晴らしのいい高原であり、家畜を見張るため日常的に遠くを眺めているので、自然と視力が鍛えられているのだ。
その鍛えられた視力で馬にまたがって駆け寄ってくる青年の表情を観察する。相も変わらず口元を引き結んだ仏頂面で在り、平素と変わりが無いようだった。
「アゼル、久しぶりだね。壮健そうで何よりさ」
「モージ、ジュチ。貴方たちも」
近づくにつれて駆け寄る勢いを緩め、やがて適当な距離を置いて対峙した精悍な顔立ちの青年はモージの挨拶に言葉少なに答えた。顔立ちは男前と評していいほどに整っているが、弁舌の才とは無縁だった。
だがそれを補って余りある
アゼルはその中でも部族一の腕利き、《狩人》の位を戴く一流である。夏から秋にかけて部族の男が総出で取り掛かる巻き狩りの指揮を執り、いくさになればその発言は相応の重みを持つ。若年ながら己の腕一つで部族の実力者と認められる青年なのだ。
尤も当の本人は周囲の評判にも女達から送られる秋波にも気をとられることなく淡々と己の仕事をこなしている。周囲から一歩離れて我関せずと過ごしているような、そんな些か風変わりなところがある男だった。
「どこから来たんだい。何かあったのかね?」
「……つい先日のことだ。うちの馬が他所の群れと混じったので、分けた。その場では揉め事にはならなかったが、族長に伝えるべきと考えた」
「ほう。今の時期、ここらでとなると……
「然り」
その問いにアゼルは短く答えを返した。ジュチもなるほどと頷いた。
馬は家畜たちの中でも最も足が速く、最も遠くまで放牧に出る。行動範囲が広い以上近隣の部族とも接触する可能性も上がる。
此処は天険竜骨山脈。楽園ならざる枯れた土地だが、その険しい地勢は逃げるに易く攻めるに難い地の利を生み出す。故に草原の縄張り争いに敗れた部族が逃げ込む最後の住処でもあった。
ジュチらカザル族が知るだけでも十数以上の部族が竜骨山脈の各地に点在しているはずだった。ボルジモル族の縄張りはカザル族と隣接しており、これまでもニアミスすることはそれなりにあった。今回は偶然から、それもあまり良くない形で接触を持ってしまったようだ。
「やれやれだ…。揉め事にならなきゃいいんだがね。混ざった馬はきちんと分けたのかい」
「我らも馬の目利きが出来ないほど節穴ではない。一頭余さず、過たず分けた。だが……奴らが難癖を付けてくるかまでは、予想がつかない。私見で言えば、奴ら自身や奴らの馬は痩せていた。今年、奴らの縄張りは草の育ちが良くなかったようだ」
「なぁるほど。流石にいくさを吹っかけてくるとまでは思いたくないが、ちいと用心が必要な状況だね」
折々の機会を通じて多少は付き合いのある部族だったが、友好的かと問われれば首を傾げる程度の関係である。それに貧しいシャンバルの山々では足りない物資を求めて部族間の略奪合戦が
カザル族はこの辺りではそれなりに大きくまとまった勢力だからわざわざ喧嘩を吹っかけてくるとは思えないが、油断は出来ない状況だ。
草の実りが良いこの時期は家畜らに食わせるための牧草を求めて男たちは集団となって遠方まで放牧に出かけている。その隙を突いて女子供たちばかりの集落を襲われれば一巻の終わりだ。そう滅多にあることではないが用心するに越したことはない。
なるほど、確かにわざわざアゼルが放牧に出ている集団から一人戻ってきてまでしても族長に報告するべき事件であった。
「奴らは
「俺もそう思う。この一帯は草の育ちに恵まれていたが、あまり長居し過ぎて明くる年の育ちに差し支えては困るのは我らだ」
同意とばかりに首を振るモージ。
事なかれ主義と言えばそこまでだが、彼ら遊牧民にはもめ事が起きそうならさっさと逃げるという選択肢がある。いや、むしろ面倒事に成ると思えば躊躇せずに逃げにかかる気質であった。身も蓋もなく言えば逞しく、図太いのだ。
「既に族長にはこの考えは伝えてあるが、良ければモージからも進言して欲しい。部族の知恵袋からの言葉とあれば族長も無下にはすまい」
「高き目のソルカン・シラならば道を誤ることは無かろうがね…。まあ、覚えておくよ」
「ありがたい。詰まらぬ諍いから血を見るのも馬鹿らしいことだ」
終始変わらぬ淡々とした口調であったが、その言葉尻にジュチは僅かな安堵が混ざったように見えた。
「しかし戦を厭うのは血の気の多い男衆には珍しいね」
「決して臆病風に吹かれたわけではない」
ジロリとモージを睨みつけるアゼルは中々の迫力だった。己の勇気を疑われるのは騎馬の民にとって名誉を傷つけられるのに等しい。例え身内の発言であってもそのまま流すことは出来ないのだ。
「もちろん分かっているとも、アゼル。あんたは《狩人》、部族一の勇者だ。何より私もあんたの意見に同意する。戦など、必要に駆られでもしなければしないに越したことはないからね」
「……その
「頼まれたとも。ソルカン・シラには私からも言っておく」
アゼルはもう一度頼んだ、と繰り返すと。
「では仲間達のところに戻る」
言うが早いか馬首を翻して草洋を駆け始める。人馬一体の身のこなしは風のような軽やかさ。彼の乗騎が駿馬であり、見事に馬と呼吸を一致させたからこそ可能な動きだった。
「アゼルか。対面で話すのは久しぶりだが、良い男になっていたねぇ」
その背中を見送りながら、モージは誰に聞かせるつもりもなく思ったことをそのまま呟く。
「アゼルが戦嫌いなのは意外だったな…。《狩人》に選ばれる勇者なら、もっと荒事を歓迎すると思ってた」
相槌を打つようにジュチも呟いた。その呟きには意外さを感じさせる響きがある
草原の男達にとっていくさとは決して忌むべきものではない。己が武勇を示し、敗者から財産を略奪する絶好の機会だ。部族間の戦争が珍しくない、この騎馬巡る大地では腕っぷしは甲斐性の一部に含まれる。狩りが上手く、戦の強い男はそれだけ財産を得やすい立場にあり、周囲の女達も放っておかないのだった。
「いいかい、ジュチよ。男どもは戦の華々しくて都合のいいところばかりを取り上げて持て囃す。けれどね、人間同士の殺し合いなぞ一時は良くても長い目で見れば互いに損をするばかりなのさ。もちろん食い扶持に困って生きるためにやむなく戦を吹っかけるならばまだしも、好き好んで戦などするものじゃあないよ」
しかしそんな草原の気風を真っ向から否定するようにモージは鼻を鳴らしながら憤然と吐き捨てるのだった。
「
「面倒事に決まっているだろう。戦うってことは、恨みを買うってことだ。恨みを買えばいずれ必ず報復が来る。それを避けるには
そしてそれだけのことが分からん間抜けな男がどれほど多いことか、と多分一番の本音で在ろう呟きを漏らすモージであった。厭う様子もなく血なまぐさい発言が飛び出す辺りモージも長年草原の掟にどっぷりと身を浸した騎馬の民だった。
対するジュチはそんなものかと曖昧に頷くほかはない。今世はもちろん前世の記憶においても
「幸いなのは族長のソルカン・シラがうちの腕っぷししか自慢がない阿呆共と違ってきちんとした知恵を持った男だってことさね」
やれやれと肩をすくめて男衆をこき下ろすモージ。
「案外アゼルが族長を継ぐかもしれないね。奴は寡黙だが信頼がおける男だ。族長からの信頼も厚い。どうも本人はそれを望んでいないようだが……ジュチ、あんたも困ったら奴に頼るんだよ。私もいるが…男どもには男どもの流儀があるからね」
遊牧や狩り、戦など外の仕事は男が、搾乳や乳の加工、織物など内の仕事は女が。遊牧部族の分担は男女によってかなりきっぱりと別れる。そして互いの職分を超えて口を挟むことは好まれない空気があった。
そんな一幕を挟みながら、二人は再び族長の天幕へ向かって乗騎を駆けさせ始めた。
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