遊牧民の朝


 遊牧民の朝は早い。

 彼らは太陽が地平線から顔を覗かせるよりも前に起きだして、働き始める。

 ぬくい寝床から最も早く起きだしたモージが寝起きのだるさを感じないかくしゃくとした様子で身支度を整える。するとそのざわめきに釣られるようにジュチとツェツェクも起きだし、養母に倣った。


「ジュチ、ツェツェク。羊たちの搾乳を始めるよ。手伝っておくれ」

「はいよー」

「うん。分かった」


身支度を整えた三人は天幕ゲルの入り口から外に出ると、まだ薄暗い高原の空気に身を震わせる。季節は夏だが、山嶺の中腹に位置するだけあってこの一帯の気候はかなり寒冷だ。

 肌寒さに襲われて漏れでそうになる欠伸が引っ込み、代わりにくしゃみが飛びだした。


「さて、乳搾り……って言っても」

「みんなを集めるところからだね」


 ツェツェクの言う通り、家畜を搾乳するにはまず天幕ゲルの周囲に放牧していた羊の畜群を見つけるところから始めなければならない。基本的に畜群は囲いに入れたりせず、天幕の周囲に放し飼いにしているからだ。これは部族のどの天幕でも同じである。

 なのであまり長期間目を離していると餌となる牧草を求めて天幕からバラバラに散っていってしまう。だがそうした事態を避けるための知恵を遊牧の民は昔から心得ている。羊の類縁である山羊を羊群に対して2~3割ほど混ぜておくと彼らが群れのまとめ役の務めを果たし、全体の統制が保たれるのだ。

 賢くリーダーシップの強い山羊は狼などの外敵が襲い掛かって来た時も真っ先に騒いでその存在を知らせ、時には果敢に立ち向かっていく。そうした性質から遊牧民が暮らす大草原のほとんど全ての地域で山羊は飼育されていた。


「特に部族ウチじゃあ土地が貧しい分余計に山羊の数が多いからなぁ」

「こら、ジュチ。貧しいは余計だよ」


 貧しいシャンバル山脈の一角に居を構えるジュチの部族では特に重宝されている。山羊は痩せた土地の草でも構わずに摂食し、乳も良く出すからだ。それ故に山羊は貧者の雌牛とも呼ばれる。


「事実じゃないか」

「事実でも聞けば怒り出す奴らはそれなりにいるだろう。口は禍の元だよ」


 軽口を窘めるモージに素直に頷いた。部族の皆は気のいい連中だが、血で血を洗う部族間の抗争を日常とする修羅の巷を生き抜いてきただけあって血の気が多く荒っぽい。相手が同胞でも腹が立てば大人げなく拳骨でゴツンとやるだろう。

 気を取り直すと三人は手に持った棒きれを振り回したり、ホーイホーイと声をかけながら三方から羊たちを天幕の前にまで誘導していく。


「あ、大角エウェルだ」

「本当か。ごめん、ちょっと様子を見てくる」


 そんな中ツェツェクがモージとジュチが共用で騎乗しているお気に入りの大山羊を見つけると、それに反応したジュチが昨日酷使した相棒の様子を見に駆け寄っていく。

 モージも遠目にそれを見ていたが、大声をあげて叱責することはしなかった。老女自身エウェルの体調を気にかけており、機会があれば一度様子を見に行くつもりだったからだ。

 山羊は元々高山帯に住む獣であり、例外なく山や崖を登るのが得意だが、その中でもエウェルは群を抜いていた。その背に人を乗せて断崖絶壁の山肌を登っていけるのはエウェルだけだ。モージやジュチはそんな特技を持ったエウェルを主に薬草や鉱石の採取に役立てていた。

 部族の薬師も兼ねるモージにとっては欠かすことのできない相棒であり、だからこそ畜獣に名前を滅多につけない遊牧民であるモージから巨大な双角になぞらえて大角エウェルの名を与えられたのだ。


「おーい、エウェル」

「メエェェッ…」


 周囲の山羊たちと比較してひと際立派な大角を備えたエウェルはむしゃむしゃと草を食んでいたが、駆け寄ってくるジュチを認めると顔を上げた。名前を呼びかけると親愛を示すように鳴き声を上げる。

 そのままジュチと合わせるように自身も距離を詰め―――三日月のように反り返った角を容赦なくぶつけてきた。決して嫌われているわけではなく悪戯好きな性格をしたエウェルのちょっと過激な愛情表現なのだが、ぶつけられている側としては結構洒落にならないくらいに痛い。


「待て、待って。痛い、元気なのはわかったから痛い!」


 ちなみにモージは奴に背を向けていたところ腰を強打され、かなり容赦なくエウェルの横っ面を引っぱたいたことがある。その後しばらく機嫌の悪かったモージは幾度となくエウェルをこともあって、この悪たれもモージにだけは逆らわない。

 一応齢こそ一二歳を数えているものの、あまり栄養状態の良くないジュチは痩せて小柄で、年齢よりも二、三歳は幼く見える。山羊らの中で体格のいいエウェルの顔がジュチの胸のあたりに来ると言えばその小柄さが分かるだろう。さらに体重で言えばエウェルの方がジュチの倍近くある。

 そんな巨体から固い角をガシガシと容赦なくぶつけられると考えればその恐ろしさも分かるのではないだろうか。


「お前なー、いい加減にしろよ。終いにはその鼻面引きずり回すぞ」


 とはいえこっちはこっちで中々酷いことをこともなげに口に出すあたりジュチもエウェルのことを責められないだろう。


「落ち着け、落ち着け。ちょーっと診るからなー、動くなよー」


 なおも元気に突進してくるエウェルを苦心して押さえつけながら、素早く全身の状態をチェックする。一応昨日の時点でも確認していたが、時間をおいて出てくる症状だってあるのだ。


「……大丈夫、かな。あとで一応モージにも診てもらおう」


 幸いなことにエウェルに目立った異変はない。心配するジュチを他所にメェメェ、ベェベェと鳴く相棒は元気いっぱいな様子である。もっと構えという風に双角を突き付けてくるのだから間違いはない。


「うっし。それじゃまた後でな。族長の天幕までよろしく」


 エウェルよりもずっと大人しく気のいい牝馬も天幕の近くに繋いでいるのだが、どうにも元気が有り余っている様子だ。それを発散させる意味でも今日の足はエウェルを使うことに決める。

一旦エウェルに別れを告げたジュチは雌山羊たちの乳を搾る手伝いに戻った。


「ねえ、エウェルはどうだった?」

「大丈夫だと思う。元気だったよ」


 少なくとも弱った様子など微塵も見せずに突撃してくるくらいには。若干の苦笑から義兄が抱いた微妙な感情を感じ取ったのか、ツェツェクはおかしそうに笑った。

 そんな会話を交わしながらようよう追い込んだ羊群が天幕の近くまで戻ると、付近の石垣に羊群とは別に隔離していた子羊たちを1頭ずつ解放し、母山羊たちのもとへと向かわせる。

 これは母羊は自分を生んだ子羊をしっかり認知しており、自分以外の子羊に乳を飲ませることはない習性を搾乳に利用するためだ。

 ツェツェクが連れてきた仔羊のペアとなる母羊をジュチが見つけ出し、2頭を引き合わせる。最初だけちょっと仔羊に母羊の乳を吸わせると、あとは母羊の死角でこっそり仔羊と交代して乳を搾るのだ。いうなればこっそり仔羊が飲む乳の上前を撥ねているわけである。

 同じことを山羊の母子でも繰り返し、十分な量の乳を確保していく。

 かれこれ一〇頭ほどの母羊や母山羊の乳を搾り、鍋や容器いっぱいに受けたそれは今日の内に加工され、乾酪チーズ牛酪バター醗酵乳ヨーグルトといった『白い食べ物』に変わるだろう。

 仕事がひと段落付き、周囲を見渡すと起きた時は薄暗かった高原もしっかりと太陽が顔を覗かせていた。露が落ちた牧草が日に照らされてきらきらと輝き、なんとも気持ちのいい朝を演出していた。

 いい朝だな、と伸びをして気を抜くと途端に育ち盛りの肉体が空腹を主張するようにきゅうきゅうと腹が鳴った。


「……」

「ジュチ、お腹空いたの?」

「まあ絞った乳くらいは出してやろう」


 ばつの悪い思いをして視線を逸らすとそこには無邪気に問うツェツェクとやや意地悪い顔をしたモージがいたのだった。

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