第46話

 なんてボケた考えが浮かんだのは、一種の現実逃避だった。


「逃げっ……」


 ルツがあげた声を、男が手で口を塞いで封じる。

 男の数は全部で四人。一人がルツを羽交い締めにし、もう一人は彼女の口に手を押し当てている。

 私は尻餅をつきながら、じりじりと後退った。

 扉までは五歩ほど距離がある。尻餅をついた体勢の私と、万全の状態の二人の男。逃げるのは無理だ。

 彼らの目的が暴行でないのは、その目に欲情の色が見えないことからも明らかだった。殺害目的ならルツも私もとっくにあの世に旅立っている。となれば考えられるのは一つだけ。拉致だ。

 けれど、私たちを抱えてどこかに連れ出そうとするなら、キーランたちのいる風呂場の前を通らなければならない。ここは城の一階の西の端。扉はないし、窓は頭上高くに設けられてはいるものの、小さい上に鉄格子がついており、人が通り抜けるのは不可能だ。

 大人しく従うふりをして、廊下に出たときに大声で叫べば助かる。その一瞬にかける!

 と、混乱しながらもたてた作戦は次の瞬間に瓦解した。

 ルツを羽交い締めにしていた男が、彼女を肩に担ぎ、浴室へと引き返したのだ。

 ――隠し通路!?

 男の肩越しに、浴室内が見えた。石壁だったはずの箇所に穴が開いている。

 ――なんつー場所に抜け道を作ってるの。

 ここは客人用の、それも女性向けの風呂場である。抜け道をわざわざこの場所につなげた理由が想像通りだとしたら、この城を建てた数代前の領主はこの上なく下衆な人だったということになる。

 ルツはぐったりとしていた。先ほど彼女の口を塞いだ男の手に赤い布が見えた。魔獣獏虎の血を染み込ませた布に違いない。赤い布切れを隠し持つ人間をみかけたら、考えて行動しろ、然もなくば二度と戻れなくなる、と兄に脅された覚えがある。一呼吸で意識を失う、誘拐犯御用達の一品だそうだ。

 兄の忠告は「叫び声をあげて逃げろ」ではなく「考えて行動しろ」だった。

 だから私は考えた。考えに考えて、くるりと体を反転させると、四つん這いで扉に向かう。とみせかけてその場で盛大に滑ってみせた。すべりながら体を脱いだ服を入れた籠にぶつける。籠がひっくり返り中のものがあたりに散乱した。その上に覆いかぶさるようにして、小さな布切れを、袖口の中に押し込んだ。


「腰を抜かしたか」


 誘拐犯その一が嘲笑う。


「無駄口を叩くな。女を抑えつけろ」


 獏虎の血を持った男が指示をだすと、二人がかりで私の両腕をがっちり押さえ込む。


「はっ、放して……」


 私は震える声で懇願した。

 男はそんな私を冷たく一瞥し、じっとりと湿った布で口と鼻を塞いだ。

 ――一、二、三、

 息を止めながら数を数える。

 ――四、五、

 私は目を閉じて体の力を抜いた。


「いいぞ」


 体が宙に浮き、腹に肩が食い込む感触がする。ルツと同じように担がれたのだ。

 男が歩くたびに力を抜いた手足がゆらゆらと揺れる。むわっとした湯気が素肌に触れたかと思うと、冷たい風が吹いた。抜け道を通る風だ。

 四人の足音に耳を傾け、最後尾であることを確かめると、そっと目を開ける。

 前方からガコンッと重たげな音がして、通路を照らす光が陰っていく。隠し扉が閉まり始めたのだ。

 男たちは扉が閉まりきる前に歩き始めた。顔を上げることができないから、扉は見えない。袖口からさきほど詰めた布を一枚取り出すと、光に向かって滑らすように投げた。

 ――どうか扉の向こうに届いていますように。

 私は複雑な気持ちで願った。


 キーランたちが気づいてくれると信じて、男の歩数を数えるのに注力する。

 城の中にあるどこかの部屋に連れていかれると思っていたのに、もうかなりの距離を歩いている。酔いそうだ。

 しかも最初は人工的だった抜け道はすぐに自然の洞窟に変わった。

 城を建てて、抜け道を掘ってみたら、たまたま洞窟に当たった、というよりはこの洞窟があったから、丘の上に城を建てたと言われたほうがしっくりくる。

 枝分かれしていたらお手上げだったが、幸いにして洞窟は一本道だった。

 前方から、男たちが掲げる松明以外の灯りが差し込む。

 私は再び目を閉じ、耳を澄ました。

 男の足音が変わった。ぐっぐっと、これまでに増して腹に肩が食い込む。おそらく、木の階段を上がっている。

 きぃと蝶番の軋む音。

 湿っぽい空気が花の香りに取って代わった。

 良い匂いと思ったのは最初だけだ。甘い香りはどんどん強くなる。

 カツカツという石の床を歩く音に混じって、女の声が聞こえた。

 ――悲鳴?

 背筋にひやりと冷たいものが走る。恐ろしさに震えそうになる体を懸命に抑え込んだ。

 目を開けて、今すぐ周囲の様子を確かめたい。思い切り暴れて逃げ出したい。けど我慢だ。わざわざ長い洞窟を運んで、連れ去ったのだ。命までは取られないはず。

 声はだんだんと近くなり、悲鳴ではないと気づいた。

 これは嬌声だ。しかも声の主は複数。

 ああ、なんとなく場所がわかった。

 ここはヘリフォトの南街にある、娼館や連れ込み宿の類だ。

 なんて場所から、これまたなんて場所に繋がるのか。

 領主さん、下衆すぎやしませんか?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る