第3話 光は掴めるか

 駅からほど近い十字路で、俺と炯人はいつも別の道を行く。彼の家は琥珀亭からちょっと離れていた。炯人が十字路の手前で、俺に言う。


「今日もお凛さんのところに行くんだろ?」


「あぁ」


 炯人がにやっとした。


「お前さ、年上の女がいるんじゃないかって噂になってるぞ」


「え?」


 思わず足を止めると、炯人がにやにやした。


「すんごい年上に惚れ込んでて、毎日通ってるって話。まぁ、確かにすんごい年上ってのは当たってるな」


「ばぁか」


 俺はふっと笑って、炯人の尻に鞄を軽く叩き付けてやった。


「ひどいわ、澪ちゃん! 暴力反対よ!」


 オネエ言葉でふざける炯人に、俺は笑う。


「お前、余計なこと言うなよ。そう思わせておけばいいさ」


「はいはい、わかってるよ。お凛さんによろしくな」


「おう。また明日な」


 俺たちは十字路で軽く手を振って別れた。そのうち、一軒の白い洋風の家が見えて来た。赤い三角屋根で、玄関に続く道には両脇に花が咲いている。俺が玄関のチャイムを押すと、インターホンから「はい」と声がした。


「俺」


 短く言うと、扉が開いた。そこに立っていたのは、文音だった。


「いらっしゃい、澪」


 文音は母親の千里さんそっくりの声で俺を出迎えてくれた。彼女は三つ下で、綺麗に伸ばした黒髪が自慢だった。目が大きいのは父親の大地君譲りで、日本人形みたいだ。


「よう。凛々子さんはどうしてる?」


「ひいばあちゃんなら、窓辺でうたた寝してるよ」


 俺は家の中に入ると、凛々子さんの部屋の扉を開けた。西日が射す窓辺に安楽椅子が置かれ、逆光の向こうに小さな人影があった。


 俺はそっと歩み寄る。顔を覗き込むと、そこにはすやすやと寝息をたてる凛々子さんがいた。俺が小さかった頃は名前の通り凛々しい人だった。しゃんと背筋を伸ばし、いつも口の端をつり上げて強気だった。その凛々子さんも、もう九十を越えていた。変な言い方だけど、数えきれない皺が刻まれた顔はアクが抜けたよう。すっかり背も丸くなってこぢんまりとした彼女は、なんだか可愛らしい印象さえあった。さすが音楽家というか、耳は達者だ。目もそこそこ見える。その瞳はいつもキラキラしているが、俺の知っている力強い煌めきではなかった。


 ふと、眠りの浅い凛々子さんが俺に気づいて目を開けた。


「おや、澪。いらっしゃい」


 彼女はゆっくりと静かなしゃがれ声でそう言った。昔はハキハキしていた口調も、今では噛み締めるようにのんびりしたものだ。


「今日の調子はどう?」


「あぁ、いいよ」


「じゃあ、早速弾いていいかい?」


 彼女は右眉だけを上げる返事をした。それは凛々子さんが機嫌の良いときによくやる仕草であり、肯定の印でもある。俺は壁際に置かれたバイオリンケースをテーブルに乗せ、深い色の楽器を取り出した。


 凛々子さんの愛器はイタリア製のオールド・バイオリンだ。バイオリンってのは鳴らさないと音が曇ってしまう。弾けば弾くほど、高らかに喜んで歌い上げる。俺は彼女に頼まれて、週に一度はこいつを弾きにくる。もう体が思うように動かない凛々子さんのたっての願いだった。


 『年上の女のところに通ってる』って噂は当たらずも遠からず。年上ってのは響歌とのことがあったからかな。炯人は面白おかしく対岸の火事を見物しているんだろう。いや、むしろ火に油を注いでそうだな。どのみち俺にとって凛々子さんは特別な人なんだから別に構わない。もちろん恋愛感情なんてないけど、確かに特別なんだよ。


 弓を張り、そこに松やにを擦り付けた。肩当てをつけてバイオリンの準備を整えると、今度は楽譜でいっぱいの本棚の前へ立つ。


「凛々子さん、今日の気分は?」


「......月の光」


「了解」


 俺はドビュッシーの楽譜を、出されたままの譜面台に上げた。最初の一曲は必ず凛々子さんのリクエストで始まる。その後は俺の練習を兼ねて好きなように弾いていいという取り決めだった。

 部屋にあるアップライトピアノでラの音を出し、A線を鳴らした。それから、和音

を何度か部屋に木霊させた。調弦が終わると、俺は『月の光』を弾いた。ゆったりと流れる旋律は、どこまでも優しい。満月の光のように、穏やかだ。ビブラートをかけながら、俺の気持ちまで丸くなった。弾き終わると、彼女は目を閉じながら小さく呟く。


「弓の返しが、荒いね」


「はい。すみません。気をつけます」


 彼女は幾つになっても俺の師匠だ。こういうときは思わず敬語になってしまう自分に苦笑しつつ、今度は音階教本とモーツァルトにとりかかった。一時間ほどが過ぎると、俺はバイオリンについた松やにを拭き取る。


「凛々子さん、また明日来るからね」


「なんだい。最近は、よく来てくれるんだね」


 凛々子さんの顔が嬉しそうにくしゃっと崩れる。


「うん」


 俺はそっと頷き、バイオリンケースに蓋をした。彼女に歩み寄ると、乾いた手を握る。


「そろそろ晩飯だろ? 今日のご飯は何だろうね?」


「お前は?」


 俺がちゃんと飯を食べてるか心配なんだろう。彼女はそういう目をした。


「うん。俺、お袋より料理上手だよ」


 彼女がくく、と笑う。他のお婆さんがすれば魔女みたいになりそうな笑い声も、凛々子さんだといたずらっ子のようだった。


「おやすみ。また明日ね」


 俺は祈りをこめて必ずそう言う。凛々子さんも、そんな俺を見透かしたように笑うんだ。何度も頷いて『またおいでね』と、彼女は無言でそう言ってくれる。俺は手を振って部屋を出た。


「あら、澪君。いつもありがとうね」


 リビングまで行くと、文音の母親の千里さんが俺を見つけて笑顔を向けてくれた。司書として働いている千里さんは、緩やかなパーマを結い上げて食事の支度をしていたらしい。辺りには白米の炊ける匂いがたちこめていた。向こうからオーブンが動いている音がする。


「千里さん、こんばんは。俺、帰りますね」


「夕飯食べていかない?」


「いえ、昨日の作り置きがあるんで」


「まぁ、しっかり者ね」


 千里さんがそう笑っていると、奥から文音が出て来た。


「あ、澪! もう帰っちゃうの?」


「おう」


 文音はぷくっと頬を膨らませた。


「なんだ。わからないところがあるから、教えて欲しかったのに」


 文音は勉強の最中だったらしく、その手にペンを握ったままだった。なんでも、俺と同じ高校を目指しているらしい。


「今度、ゆっくり見てやるよ」


 俺は彼女の小さい頭をくしゃっとして、玄関を出た。


「お邪魔しました」


「気をつけてね」


 文音と千里さんに送り出され、俺はすっかり暗くなった住宅街を行く。どこからか煮魚の匂いがする。外灯を照らし出す家やカーテンを閉めている窓に夜の気配を感じながら空を見上げると、そこにはぽっかりと丸い月があった。


 思わず、ふっと目を細める。凛々子さんを思い出したからだ。その夜の月に彼女を重ねたのは、『月の光』を弾いたせいかもしれない。


 俺が幼い頃、彼女はまるで太陽の光のように強く見えた。だけど、ギラギラするほどではなく、快い強さだった。それは、彼女が心の中に月の光のような穏やかなものを隠していたからだと思う。年齢を重ねるごとに、彼女の中の月は満ちていった。今ではそれが誰にでもわかるくらい表に出ている。火花を散らした後に、ジジジ......と丸くなる線香花火の緋色の火の玉にも似ていた。


 同じ火でも、響歌は火影だ。ゆらゆら燃えて、うねる炎のような情熱を胸に人生を駆け出してる。真っ赤な光を放ちながら。二人とも、俺が持ち合わせていない火の光を持っているんだ。だからこそ魅かれたのかもしれない。


 俺の胸は冷えたままだ。進路だって、無難に行ける範囲で一番ランクの高い大学を受験するとだけ決めている。将来の光なんて、出口のないトンネルにいる俺には見えさえしない。


 凛々子さんは昔、俺に「選ぶ自由が増えると責任も増える」と言った。琥珀亭というレールが準備されていながら、他にも出来る事はあるのかと模索する俺には重い言葉だ。


 響歌は俺の醒めた目が惨めにさせるって言ってたけど、お互い様だ。あいつの燃える瞳は、何もない俺を惨めにさせる。


 まったく敵わないよ、女には。俺はそっとため息を漏らした。そして先週、凛々子さんの孫の大地君が言った言葉を思い出す。


「澪、頼まれてくれるかな?」


 俺を弟のように可愛がってくれる大地君は、珍しく真面目な声で言った。


「なるべく、学校帰りにばあちゃんに会いにきてくれないかな?」


「それはいいけど、どうしたの? あんまりお邪魔すると悪くない?」


「いや、むしろ来て欲しいんだ。文音も俺や千里が帰るまで一人だから危ないし」


 大地君は子煩悩だからね。そう言いかけたとき、彼はぐっと声を低くして呟いた。


「最近ね、ばあちゃんの食欲がないんだ。この前、病院の先生に誤嚥には注意して、もしものことがあったら覚悟してもいいかもしれませんって言われた」


「......それ、どういう意味だよ?」


「ばあちゃんの体力が落ちてるってことさ。わかるだろ?」


 冷や水を浴びたようだった。頭ではわかっているさ。とっくに九十を越えてるんだ。だけどさ、いざそう言われると何も言えないじゃないか。


「文音は知らないから、黙ってて欲しい。今までも週に一度はバイオリンを弾きに来てただろ? 毎日とは言わないから」


「わかったよ」


 俺はそう答えることしかできなかった。月の光が、いつの間にか滲んでいた。慌てて目を擦る。


 頼むよ、凛々子さん。もう少しだけ、見守ってて。どんな光でもいい。

月の光でも、火影でも、なんでもいい。トンネルを出て、この手に光を掴むまで。俺が胸を張って、歩き出せるまで。頼むから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る