第2話 ヤキモチの輪

「ただいま」


 チェロケースを手に帰って来た大地が、荷物を置いて私の頬にキスをした。


「おかえり」


 最初の頃はこのやりとりが嬉しいやら恥ずかしいやらで戸惑っていたけど、自然にできる今は誇らしくもある。

 ひき肉をこねる私を見ながら、大地が大きい目を輝かせた。


「もしかして、ハンバーグ?」


「当たり」


「よっし!」


 力一杯ガッツポーズをして、にこやかに笑う。......やっぱり目玉焼き乗せてあげよう。


 大地が置いたままの荷物を片付けていると、私にこう声をかけた。


「千里の鞄も片付けるよ」


 そういえば床に出しっぱなしだった。大地は意外と几帳面で、バッグもちゃんとクローゼットに入れておかないと気が済まない質だ。


「お願い」


 ひき肉まみれの手で答える。


「あれ、なんか手紙いっぱい入ってるよ」


「あぁ、それね」と言いかけて、慌てて声を上げた。


「やっぱり自分で片付けるよ!」


 だが、遅かった。大地が一通の封筒を手にして、苦笑いしている。


「これ、また?」


「......うん」


 彼はため息をついて「そっか」と背を向けた。それは、図書館の利用者からもらったラブレターだった。

 その日の閉館間際だった。カウンターに座って作業していると、一人の利用者がやって来た。私よりも若そうな男の人だった。何度か見かけたことがある。手には本ではなく、一通の封筒を持っている。

 問い合わせかなと思って「こんにちは」と笑顔を向ける。すると、彼は「読んでください!」と封筒を押しつけ走って出て行った。ぽかんとしたけど、すぐにポケットにねじこんだ。

 自意識過剰って訳じゃないけど、こういうのは初めてではない。けど、何度あっても気まずい。せめて他の利用者がいないところで渡してくれればありがたいんですけど......。同僚の好奇の目を見ない振りして、仕事を終えて実家に手紙を取りに行ったんだった。


 実家に残されている私の部屋で、そっと手紙を開けてみると、そこには『ずっと見てました』とか『指輪をしてるけど構いません』とか誤字脱字だらけの文字で書いてあり、最後には携帯番号と『電話ください』の一文がある。私は母親から受け取った手紙の束と一緒に鞄にしまいながら、ため息を漏らしてしまった。悪筆と誤字はしょうがないにしても、脱字くらい読み返さないのだろうか? こんなことを考えて、我ながら嫌な女だと思う。可愛くないよね。

 少なくとも、私が好きな人にラブレターを書くなら、何度でも読み直す。誤字脱字がないか、必死で気にする。もしその気があったとしても『電話ください』なんて言われたら、結構プレッシャーだよ。


 大地はきちんと自分の口で『好きです』って言ってくれたなぁ。天井を仰いで、私はあの日の大地を思い出した。随分と外で待っていたらしく、鼻と耳を真っ赤にさせていたっけ。震える声で「図書館で見かけてから、ずっと好きでした。付き合ってください」って言ってくれた。


 私もやたら目が合うのは気づいてた。同時に魅かれてもいた。彼が友達と交わす笑顔が眩しくて、そんな風に笑える彼が羨ましかった。私にはないものを持ってる気がしたんだ。だから嬉しくて「ありがとう」って言ったんだけど。


 私みたいな地味な子、どうして気に入ったのかな? 大地もラブレターをくれた人も、話したことのない私を好きだと言った。けど、自分でも不思議なんだ。特に大地が自分を気に入ってくれたのが。


 だって、大地と付き合う前は本当に内気で暗かったから。元々、あまり話すのが得意じゃなかった。クラスの女子にも気後れしちゃって、男子と話すなんてとんでもなかった。


 小学生の頃、トイレで立ち聞きしちゃったことがある。


「千里ちゃんて暗いよね」


「うん。ずっと黙ったままで何を考えてるのか気持ち悪くない?」


「そうそう、だんまりして傍に立たれてもね。背後霊みたいで怖いよ」


「あはは、背後霊ってひどくない?」


 私はそこから動けなかった。胸が深くえぐられたような感覚、今でも覚えてる。

その日から、皆が私を陰で『背後霊』って呼んでるのもすぐに気づいた。すっかりトラウマになって、それから大地に出逢うまでは物静かなイメージだったと思う。


 だけど、本を読むときだけ自分が生き生きしてることは知ってた。私は本の世界に逃げていた。小説の登場人物たちは、私が黙っていても何も言わない。分け隔てなく、私を世界に迎え入れてくれたから。


 そんな私を見て、先生が司書って仕事があるって教えてくれた。それ以来、私の夢は司書だった。本好きのおかげで大地とも出逢えた訳だけど、どうしても理解できないのは、そのコンプレックスのせいかもしれない。


 大地が私を好きになった理由を一度だけ、訊いてみたことがある。そしたら、大地は笑ってこう言った。


「さぁ、わかんない」


 本人にもわからないのに、私にわかる訳もないんだけど、ただ、こういうとき、やっぱり知りたいなって思うんだ。自分に自信が持てないままだから。そんなことをぼんやり考えながら、ハンバーグを焼く。お味噌汁を仕上げて、サラダをテーブルに乗せた。


 大地は何枚ものプリントに鉛筆を走らせて、難しい顔をしていた。彼が勤務する音楽教室の発表会があるらしい。その準備でここのところ忙しそうだった。大地も講師演奏でステージに上がるらしい。


「大地、何の曲を弾くの?」


「あぁ、バッハの無伴奏だよ」


「あれ、私も好き」


 焼き上がったハンバーグを置くと、大地が目を細めて私を見た。


「俺も。千里のハンバーグも好きだけど」


 私は笑って、お味噌汁をお盆からテーブルに移した。


「さ、食べよう」


「うん。いただきます」


 大地がプリントを脇に置いて、お箸を手にした。「うめぇ」と言いながら頬張る姿に笑みが漏れる。

 けど、すぐに不安が襲っていた。私、知ってるんだ。大地は私にヤキモチをやくけど、本当は大地のほうがモテる。音楽教室の父兄に人気があるだけじゃなくて、同僚の講師や生徒から告白されてるのも知ってた。なにせ、大地が勤める音楽教室のピアノ講師が私の友達だから。それを教えてくれるのは『ちゃんと手を離すな』ってことなんだろうけど。

 大地は知らない。実は私のほうがヤキモチやきってこと。だからかな? どうして好きになったのか知りたいなんて。この笑顔を見ていれば満足できるはずなのに、たまらなく不安になるんだ。

 私と大地がお互いに嫉妬して、でも信じようとして、メビウスの輪の上を追いかけっこしてるみたいだった。


 翌日のことだった。返却カウンターにいると、見知った顔が近づいて来た。


「千里ちゃん、こんにちは」


 にこやかに言う彼女は大地の同僚で、ピアノ講師の美穂さんだった。初めて音楽教室に忘れ物を届けに行ったとき、彼女に見覚えがあった。しょっちゅう本を借りにくる利用者の一人だったから。美穂さんも私を覚えていて、すっかり意気投合したんだ。たまに大地の音楽教室での様子も教えてくれる。彼がモテるのも、美穂さんが教えてくれたんだっけ。


「こんにちは。今日はお休みですか?」


「ううん。今、お昼休みなの」


 彼女が微笑み、バッグから数冊の本を取り出した。ちょっと屈んだ拍子に香水の良い匂いがふわりと漂う。彼女に似合う、ユニセックスな香りだった。


「これ、お願いします」


 出された本はチャールズ・ブコウスキーの本ばかり。『詩人と女たち』の表紙を見て、彼女らしいなと思った。彼女は強くて、自由を何より尊重するタイプだった。カモシカのような綺麗な足で、年は私と同じか一つ上くらいだったと思う。


「ねぇ、千里ちゃん。『半七捕物帳』ある?」


「ブコウスキーの次は岡本綺堂?」


 ジャンルを飛び越えた選択にびっくりすると、彼女は白い歯を見せる。


「思い出したら読みたくなっちゃって」


 彼女は何にも囚われない。本のジャンルだけでなく、仕事もそうらしい。突拍子もないことを言ったり、しでかしたりするんだ。

 だからかな。驚かされるけど、羨ましくもある。自分の気持ちに素直な人っていいな。彼女だったら、大地に『どうして結婚しないの?』とかあっけなく訊けちゃうんだろう。まるでカモシカが山肌を軽快に飛び越えて行くように。

 私は美穂さんを文庫の棚に案内しながら、ため息をついた。無い物ねだりなんだね、私って。


「はい、これ」


 『半七捕物帳』全巻を差し出すと、美穂さんが顔を明るくする。


「良かった。時間がないから、千里ちゃんに案内してもらえて助かったわ。ありがとう」


 サバサバした口調でそう言うと、彼女は微笑んだ。物言いは男前なのに、微笑みは艶っぽい。長いまつ毛と艶やかな唇が色気たっぷり。見蕩れていると、彼女とふっと視線があった。


「そうそう、千里ちゃん、今回の発表会来るんだって?」


「あ、はい。お休みとれたんで......」


 美穂さんは眉を下げて、ピアニストらしい細く綺麗な指で髪をかきあげた。


「大地がねぇ、惚気てうるさいのよ。彼女の前で失敗できないとか言って。彼女の前だからとかそういう問題じゃなくて、講師として失敗なんかできないって言ってんだけどさ」


 冗談めいた口調に、思わず笑う。なんだか、職場でも私の話をしていると思うと嬉しかった。だって、同僚の講師からも告白されたなんて聞いたら、正直不安になっていたから。すると、美穂さんがにやりとして私の顔を覗き込むように見ている。


「......ねぇ」


「なんですか?」


「千里ちゃん、ラブレターもらったんだって?」


「......え?」


 顔が赤くなるのが自分でもわかった。美穂さんは鬼の首をとったようにニヤニヤしてる。


「大地がねぇ、落ち込んでたわよ。俺と付き合ってるのに、それでも言い寄られるのが心配だとか、それとも俺からなら奪えるとでも思われてるのかって煩いんだけど」


「......すみません」


 俯きながらも、ほっとした自分がいた。心配かけて申し訳ないって気持ちもあるけど、それよりも大地が妬いてくれて安心するって、意地が悪いのかな?

 そんな私を見抜いたように、彼女は笑った。


「まぁ、ほっとした顔しちゃって。皆は大地のほうがヤキモチやいて、千里ちゃんがしっかりしてるように見てるけど、実は逆でしょ?」


「えっと、あの......」


 そんなことないです。そう言いたいのに、言葉が出ない。だって現に、大地に気がある人がいる音楽教室で、そういう姿を見れば諦めてくれるかなって思ってしまったから。


「まぁ、当日は覚悟して来たほうがいいよ」


 美穂さんが困ったように私を見た。


「あいつ、生徒さんからも人気あるから、見てて辛いかもしれないなぁ」


「......そうなんですか」


 俯く私に、彼女はふっと笑みを漏らす。


「千里ちゃん、そんな顔してるとドSの血が疼いちゃうわ」


 びくっと顔を上げてしまった私を、彼女はからかうように見ていた。


「まぁ、大地の晴れ舞台だから、きっと彼、喜ぶわよ」


 彼女はそう言いながらカウンターへ体を向けた。


「それじゃ、貸し出しお願いしていい? もうそろそろ行かなくちゃ」


「あ、はい」


 本を借りた彼女は「じゃあね」と微笑んで颯爽と出て行く。カモシカのような足がモデルのように動くのを見送りながら、ため息をついた。

 彼女のようになりたい。嫉妬なんて鼻で笑って吹き飛ばしそうな彼女の強さが、心底欲しかった。

 できるなら、半七にこの胸で暴れる嫉妬を取り押さえて欲しい。ちょっとしたことで心にどす黒いものがこみ上げる。そんな自分が嫌だった。

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