幕間3 ツィタデル作戦と重慶攻略作戦

 一九四三年の後半はまた、枢軸国が地上において大規模な攻勢を行った時期でもあった。

 ドイツ軍はバクー油田を始めとするカフカスの油田地帯を攻略する“城塞ツィタデル作戦”、日本は重慶の蒋介石政権を屈服させるべく“五号作戦”を計画していた。

 まず発動されたのは、ツィタデル作戦であった。

 この作戦は、一九四二年のドイツ軍夏季攻勢“ブラウ作戦”の継続ともいえる作戦であり、青作戦で達成出来なかったバクー油田の攻略を目指すものである。

 この油田から産出される二億一三〇〇万バレルの石油は、ソ連の石油消費の四分の三を担っており、バクー油田を占領・破壊されればソ連は継戦能力に致命的な打撃を受けることになるのであった。

 もちろん連合国陣営には、一九四〇年代当時、約十三億バレルの石油を産出し、世界の石油生産の七割を占めていたアメリカがいる以上、連合国陣営はアメリカ一国でその石油消費量を賄うことが可能であった。さらに言えば、英米はオランダがドイツに降伏した直後、南米ベネズエラ沖のオランダ領アルバ島、キュラソー島を保障占領しており、この地域の石油資源も確保していた(一九四〇年代当時、世界に占めるベネズエラの石油生産量は約一割。つまり、連合国陣営は世界の石油資源の八割以上を確保していたことになる)。

 しなしながら、そこには当然、他の兵器・物資の輸送との兼ね合い問題が発生してくる。つまり、バクー油田の喪失はソ連だけでなく、連合国全体に深刻な影響を及ぼす可能性があったのである。

 そうした危機的な状況でありながら、英米には兵器や物資の供与以上の援助を、ソ連に与えることは出来なかった。ソ連の求める第二戦線を開くには、兵力、作戦準備ともに不足していたからである。

 ドイツによるツィダデル作戦は、ヒトラーの目論見通り、連合国陣営の戦時経済や対枢軸軍戦略を大きな危機に陥れる可能性を孕んでいたのである。

 ドイツ軍はこの攻勢のために、東部戦線における稼働戦闘車両の六割、航空機もまた東部戦線に展開する全機体の六割を集めていた。

 攻勢の主力となるのは、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥率いる南方軍集団。ここには第四、第五装甲軍が組み込まれており、まさしくドイツ軍最強の機甲部隊であった。

 彼らは最前線であるグロズヌイからバクーまでの約三〇〇キロを突破することが求められていた。

 特にカフカス山脈とカスピ海の間は狭い回廊となっており、防御正面を狭くとることが出来るソ連軍による強固な抵抗が予想された。

 マンシュタインは、最初の攻略目標をカスピ海有数の港湾都市であるマハチカラに定めていた。

 ここを占領すればカフカスに展開するティモシェンコ将軍率いるソ連軍北カフカス方面軍はカスピ海経由での補給が困難になるだけでなく、その北方に位置するマリノフスキー将軍率いる南部方面軍から北カフカス方面軍を孤立させることが出来る。

 マハチカラ攻略後はそのまま南下し、やはりカフカス地方の要衝である古都デルベントを占領する。

 ここから先に関しては、機甲部隊が縦横に展開出来る平地がカフカス山脈とカスピ海に挟まれた幅三キロほどしかなく、突破の困難さが予想されたが、マンシュタインにはすでにこうした地域を攻略した経験があった。

 セヴァストポリ攻防戦での、ペレコプ地峡突破である。

 しかも、デルベントとバクーの間には幹線道路や鉄道が敷かれていた。突破に成功すれば、即座にバクーへと突入出来るであろう。

 だから彼にとって、作戦上最も困難であると考えていたのは頑強な抵抗が予測されるマハチカラ攻略および、バクー油田を無傷で奪取することの二点のみであった。

 この内、前者に関しては機甲部隊を集中することで解決を試みている。

 一方、後者に関してはヒトラー自身の発案によるバクー油田への空挺降下作戦によって、占領を試みることとなっていた。

 日本軍によるパレンバン空挺作戦に着想を得たというこのバクー油田への空挺降下作戦を指揮することになったのは、武装親衛隊のオットー・スコルツェニーSS少佐と空軍降下猟兵のハラルト・モルス大隊長。彼らの下には、六〇〇名の降下猟兵が集められていた。

 彼らは日本海軍から譲渡された飛行艇に分乗し、バクーを目指すことになっていた。

 この作戦に関しては徹底した機密保持が行われ、ツィタデル作戦についてソ連側に通報したスイスの連合軍側スパイ“ルーシー”も、正確なことは察知し得なかった。

 連合軍側は、アレキサンドリアに日本の飛行艇とドイツの空挺部隊が集結しつつあることを暗号解読や“ルーシー”などのスパイ情報によって察知していたものの、その正確な目的を掴めずにいたのである。

 そのため彼らは、日独軍は石油資源の豊富なイラン・イラクへの侵攻を企てているのではないかと考えていた。

 イランやイラクは一九四一年以来、イギリスとソ連の進駐を受けてその支配下にあったものの、枢軸軍のインド洋進出によって、領内の英軍は完全に孤立し、ソ連軍もまたカフカスなどの防衛のためにイラン北部に展開させていた駐留兵力を大幅に削減していた。

 こうした状況下であったため、枢軸軍がイランの石油資源を奪取する作戦を立てているのではないかと考えていたのである。実際、枢軸軍がインド洋に自在に兵力を展開出来るようになった以上、枢軸軍による中東侵攻は現実的な脅威であった。

 だが、当然ながら英米には打つ手がなかった。すでにインド洋の制海権を喪失している彼らにとって、中東を防衛することは不可能であったのだ。

 しかし、ヒトラーの考えは違った。ソ連の打倒を第一とするこの独裁者は、中東の石油資源に目を付けていないというわけではなかったものの(実際、ドイツにおいては何度かイラン・アバダン油田の占領・破壊作戦が計画されてはいた)、その確保は二の次と考えていたのである。

 ツィタデル作戦が発動されたのは、一九四三年七月五日であった。

 前日の夜に、スコルツェニーら空挺部隊はアレキサンドリアを発進、北アフリカから逃れたイギリス軍の拠るパレスチナ、シリア、イラク、イラン上空を飛び越えて、南方からバクーへと迫った。

 戦線北部でドイツ南方軍集団による準備砲撃が始まったのと、スコルツェニーらのバクー降下はほぼ同時であったという。

 スコルツェニーの乗る二式大艇はバクー湾に強行着水の後、浜辺に乗り上げ、彼が直接率いる降下猟兵たちはただちに市街地東部にある飛行場の奪取を試みた。一方、モルス大隊長率いる部隊は油田の確保へと急いだ。

 この降下作戦はソ連側にとって完全な奇襲となり、飛行場は短時間で制圧されてしまった。

 飛行場占領の報告を受けたマンシュタインは、事前に準備しておいたMe323ギガントを用いてバクーへの兵力輸送を開始した。

 ヒトラーはバクーへの空挺降下を発案したまではよかったものの、その維持をどうするのかまでは考えていなかった。当然、敵地のど真ん中に降り立つということは、敵地で孤立することと紙一重であった。

 折角バクーへの空挺降下に成功しても、最終的に撃退されてしまっては意味がない。

 そのため、ヒトラーの作戦構想を補完すべく、マンシュタインは飛行場奪取後にバクーへと増援部隊を急派することを計画した。

 そして輸送には、軽戦車やハーフトラック、野砲すら空輸可能な巨人機Me323ギガントが用いられたのである。

 この機体は航続距離一〇〇〇キロ未満であったため、二式飛行艇や九七式飛行艇が行ったようにソ連側の警戒の薄い南回りでのバクーへの空挺降下作戦には使用出来なかった。しかし、バクーの飛行場を占領したとなれば、ソ連の北カフカス方面軍の頭上を突破してバクーへと辿り着くことが可能であった。

 マンシュタインの周到な準備と計画によって、作戦発動初日にしてバクーは降下猟兵も含めて一五〇〇人近い将兵によって油田施設ごと占領され、彼らは多数の装甲車、野砲によって、南方軍集団の到着までこの地を守り抜くことが命ぜられた。

 バクーへの空輸はその後も継続して行われ、ソ連軍は前面の南方軍集団と後方の空挺部隊との対処に戦力を分散せざるを得ない状況に追い込まれた。

 この間、七月十二日、陸戦史上に永遠に名を残すことになるマハチカラ戦車戦が発生している。

 マハチカラ郊外にて独ソ合わせて一五〇〇両以上の戦車が激突したこの戦いは、激闘の末にドイツ軍の勝利で幕を閉じた。

 ただし、後世一般的に想像されるほど、この戦いに参加したⅥ号戦車ティーガーの数は多くない。全体で、八〇両程度であったといわれる。また、二〇〇両近くが初陣を飾ったⅤ号戦車パンターであるが、最新鋭兵器故の初期不良に悩まされ、その力を十全に発揮したとは言い難い。結局、この戦いにおいてドイツ軍機甲戦力の中核となったのはⅣ号戦車であった。

 この大規模会戦に敗れたソ連軍は、南方軍集団のマハチカラ市街地への突入を阻止出来ず、七月十八日、マハチカラは陥落した。

 その後、アストラハン方面からソ連の南部方面軍がマハチカラ救援を行おうと試みたものの、ドイツ中央軍集団第九軍司令官ヴァルター・モーデル上級大将の活躍などもあり、戦線北方からのソ連軍の行動は完全に阻止された。

 七月下旬、マンシュタインはデルベントからバクーへと至る回廊を打通し、ここにドイツ軍によるバクー油田占領は完全に成し遂げられた。

 ソ連の北カフカス方面軍はカスピ海方面から漁船などによって脱出した者たちもいたものの(そのほとんどは将校から末端の兵士に至るまで脱走兵、反逆者とされ、懲罰部隊送りになった)、多くはカフカス山脈の中に取り残され、ドイツ軍に対する絶望的な抵抗と飢餓、高山故の寒さなどに悩まされ、その兵力のほとんどを失うことになった。

 ドイツ軍によるバクー油田占領作戦、ツィタデル作戦はわずか一ヶ月ほどの戦闘によってその目標を達成することに成功したのである。


  ◇◇◇


 一方、大日本帝国では蒋介石の拠る重慶を攻略すべく、陸軍による五号作戦の準備が進められていた。

 しかし、作戦の決定にあたっては陸海軍での戦略物資取得量を巡る対立、さらには船舶問題を巡る参謀本部と陸軍省との対立があり、決して円滑に実施が決定されたわけではなかった。

 根本的な問題として、枢軸国陣営も含めた参戦国の中で、日本は鉄鋼の生産量において致命的に劣っていた。

 日本の鉄鋼生産量はアメリカの約一割、英国の半分、ドイツの三分の一であったのである。

 この鉄鋼生産の少なさは、日本にとって死活問題であった。陸軍も海軍も兵器生産には必然的に鉄鋼を消費し、そもそも鉄鉱石を運ぶための船舶の建造にもまた鉄鋼を消費する。さらには、鉄鋼を生産するために必要な石炭を産出するための炭坑の機械設備もまた鉄鋼を消費する。

 そのため、常に鉄鋼の配分は日本国内において問題となっていたのである。

 それでも、後世の視点から見れば一九四三年の日本は石炭生産と鋼材生産において良好な水準を保っていた(あくまで、日本におけるこれまでの石炭・鉄鋼生産量と比較して、という枕詞付きで)。にも関わらず国内において鉄鋼の配分が政治問題化するということは、それだけ、戦争遂行に必要な鉄鋼の絶対量に生産量が達していないことを示している。

 こうした陸海軍の対立を解決しようと尽力したのは東条英機首相と山本五十六連合艦隊司令長官であった。

 特に東条首相は参謀本部、具体的にいえば田中新一作戦部長と服部卓四郎作戦課長の要求する船舶の増徴を断乎としてはね除けた。これを山本五十六が海軍内部で根回しをした海軍徴用船の陸軍への供与という形で補うことで解決を図ったのであるが、陸軍の省部会議では佐藤賢了軍務局長と田中作戦部長が掴み合いになるなどの混乱が続いた。

 さらには断乎として船舶の増徴を拒否する東条首相に対して田中作戦部長が「馬鹿野郎」と怒鳴りつけるなど、陸軍内部でも五号作戦の準備を巡る混乱は続いた。この罵倒事件の結果、田中は南方総軍司令部付きとして中央から遠ざけられることになる。後任の作戦部長は、東条の子飼いの部下ともいえる真田穣一郎大佐であった。

 しかし、この人事異動でも重慶攻略作戦の再考そのものはなされなかった。田中、服部だけでなく、参謀総長である杉山はじめ大将も作戦に賛同していたこと、現地部隊である支那派遣軍もまた作戦の発動を積極的に上申していたからである。

 進攻予定路の空中偵察を行った支那派遣軍では、作戦の障害となる秦嶺山脈、巴山山脈を突破するために空挺部隊、山岳部隊の投入を検討していた。特にドイツ軍の空挺部隊がバクー油田の攻略で華々しい活躍をしたという情報が入って以来、参謀本部でもまた、空挺部隊の投入を積極的に推し進めた。

 大本営の示した「五号作戦要領」における作戦方針では「支那派遣軍ハ主力ヲ以テ西安方面ヨリ一部ヲ以テ武漢方面ヨリ進攻シ敵中央軍主力ヲ撃破シテ重慶ヲ攻略スルト共ニ四川省要域ヲ占領ス」となっている。また、この作戦期間中、占領地域については最小限の兵力だけを以て確保することが定められていた。

 作戦実施期間は二期に分けられ、第一期では北部に展開する北支方面軍が山西省方面へと侵攻し西安、延安を攻略、南部に展開する第十一軍は武漢より進発し揚子江沿いを進撃、常徳、辰州、秀山を突破して東方より重慶へと迫る。一部は海軍と協力して揚子江遡行作戦を実施。

 さらに第十一軍は各地から集めた戦車によって機甲部隊を編成、状況次第では南回りで懐化―貴陽―重慶へと続く幹線道路を用いて迂回突破を敢行、重慶を占領することも命ぜられていた。

 この機甲部隊には日本の九七式中戦車の他、米軍の撤退したガダルカナルに遺棄されていたM3軽戦車スチュアート、M4中戦車シャーマン、セイロン島で鹵獲したマチルダⅡ歩兵戦車などが配備されており、特に自国の戦車よりも連合国製の戦車の方が性能が良いという皮肉な部隊となっていた。

 この部隊を指揮するのは宮崎繁三郎少将であり、機甲部隊は宮崎支隊と名付けられている。

 重慶攻略までの作戦期間は二ヶ月。

 重慶攻略後は一ヶ月の準備期間を置いて、第二期作戦が開始されることになっていた。

 第二期の攻略目標は成都であった。こちらの作戦実施期間も二ヶ月。

 合わせて五ヶ月というのが、重慶攻略作戦の実施期間であった。

 帝国陸軍始まって以来の大作戦である五号作戦は一九四三年九月十五日、ついに発動された。

 北部戦線を担当する北支方面軍では、第一軍が西安に向かって進撃を開始、黄河本流に沿って進軍し、宝鶏付近で黄河を渡河。一方、第二十八軍は老河口から漢中に向かって東進を開始していた。

 南部戦線では第十一軍が揚子江沿いに進撃を開始、宜昌から万県に向けて、海軍の河川砲艦の支援を受けつつ遡行作戦を行った。

 中国側は揚子江の堤防に沿って堡塁を構築していたが、海軍砲艦の支援射撃もあって次々に沈黙、占領されていった。

 そして、重慶への突入を目指す機甲部隊、宮崎支隊もまた常徳方面からの進軍を開始していた。

 宮崎支隊は宜昌から懐化へ向けて突進し、中国軍の抵抗を排して迅速な進撃を行っている。

 すでに蒋介石側では英米からの支援が日本軍による封鎖で完全に途切れたことによる孤立感から、将兵の士気が低下していたという。また、兵器・物資の不足も深刻であった。事実上、彼らが日本軍に勝っているのは人的資源のみという状況になっていたのである。

 そのため、スティルウェル将軍の指揮下にある米国式訓練を受けた中国軍など、一部の地区では頑強な抵抗を行った部隊はあったものの、全体としては日本軍の予想以上の速度での進撃が続いていた。

 作戦発動から二ヶ月と経たない十月下旬、第十一軍と宮崎支隊に二方面からの猛攻に晒された重慶は陥落、蒋介石は成都に逃れた。

 重慶を守備していた蒋介石直轄の第八戦区軍は米国式訓練を受けておらず、日本軍の猛攻に対して耐え切ることが出来なかったのである。

 一方の中共軍は蒋介石軍よりも士気は高く、抵抗も頑強だったものの、最終的には拠点となっていた延安もまた重慶と同じく陥落の憂き目を見ている。

 そして日本軍が一ヶ月に及ぶ第二期攻勢の準備を行っている間にも中国側は態勢の立て直しを図ることが出来なかった。この間、もともと蒋介石政権と折合いの悪かった雲南省政府主席の龍雲が、汪兆銘の南京政府への帰順を表明するなど、蒋政権は軍の再編成すらままならない状況に陥っていたのである。

 それだけ、重慶陥落の政治的影響は多大なものがあったといえよう(もっとも、雲南省は汪兆銘の重慶脱出の中継地点となるなど、当初から汪兆銘や日本との繋がりが疑われている地域でもあった)。

 雲南省の離反は蒋政権にとって最大の政治的・軍事的打撃ではあったが、それ以外にも各地の小規模な地方勢力は蒋政権から離反を表明している。これら地方勢力は必ずしも南京政府に対して従順であったとは言い難い面があったが(もともと、中国は地方勢力の独自色が強く、中央政府との折合いの悪い地域が多々存在していた)、それでも蒋介石に見切りをつけたことだけは確かであった。

 このように政治的・軍事的苦境に立たされた蒋介石であったが、それでも連合軍による対日反攻作戦の実施に期待して抗戦を継続していた。

 しかし、四三年の年末までに成都も陥落、蒋介石はさら甘粛省蘭州に逃れたが、英米からの支援が望めない以上、彼の手元には日本軍に対抗可能な兵力は残されていなかった。

 中国軍の中でも最精鋭といえる米国式の訓練を受けたスティルウェルの部隊は、主に雲南省からビルマ戦線にかけて展開していたため、雲南省の離反によって武装解除されていた(あるいは、そのまま南京政府側に付いた中国兵もいる)。その他の部隊は練度・装備ともに劣る部隊しか残されておらず、特に各地の農民を強制的に徴兵したため、脱走兵が相次いでいたのである。

 日本軍の重慶攻略作戦は、少なくとも戦術的には大成功を収めたといえよう。問題は、如何にして蒋介石政権を屈服させるかという外交的なものであり、これに関しては日本政府の側に具体的な構想を持つ者はいなかった。

 結局、重慶攻略作戦は軍事的には成功したものの、蒋介石政権との間の政治問題は残されたまま、一九四四年を迎えることになったのである。

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