38 栄光の終わり
第二次セイロン沖海戦における帝国海軍の喪失艦は、重巡那智、駆逐艦照月、大破が戦艦山城、扶桑、空母翔鶴、中破が戦艦長門、空母飛鷹、重巡最上、三隈、青葉、軽巡阿武隈、駆逐艦響、小破が戦艦武蔵、伊勢、日向、重巡摩耶、足柄、その他駆逐艦多数などであった。
英米連合艦隊に与えた損害に比べて、少ない損害で切り抜けることが出来たといえよう。
ただし一方で航空機と搭乗員の喪失は、南太平洋海戦ほどではないにせよ、今後数ヶ月は再編が必要な程の打撃を受けていた。
「空母部隊は損傷艦の修理と航空機、搭乗員の補充が終わり次第、またリンガ泊地で訓練に従事してもらう必要があろうな」
横須賀鎮守府内に設けられた連合艦隊司令部の長官室において、報告書に目を通した山本五十六はそう呟いた。
「はい。また半年ほどは大規模な作戦は不可能となるでしょう」
参謀長の宇垣纏中将が頷く。
今、長官室には彼ら二人しかいなかった。
「それで、軍令部の方では米軍の反攻作戦の時期をどう見積もっているのかね?」
「軍令部では、昭和十九年六月以降と見積もっておるようですな。参謀本部も同意見のようです」
「甘い、と思わんかね?」
「同感です」宇垣は続けた。「米海軍は今回の海戦に、機動部隊を派遣してきました。もし我が軍がセイロン島攻略を目指さなければ、恐らくはソロモンないし中部太平洋方面での反攻を実施していた可能性があります」
「樋端くんも米軍の反攻は今年六月あたりではないかと以前言っていたが、それよりも米軍の動きは早かったわけだな」
「となると、米軍の反攻は来年の初め。どれほど甘く見積もっても、三月までには反攻を開始するでしょう」
「だからこそ、陸軍の重慶作戦が問題となってくるわけだ」
椅子に座る山本は、深く嘆息した。
「大陸に戦略物資を取られては、マリアナの防備強化に遅滞が生じかねない。流石に陸軍の統帥に口を出すことは難しいが、少なくとも戦略物資の海軍供給量だけは必要量を確保せねばならんぞ。そうでなければ艦艇の修理と、航空機の生産が米軍反攻に間に合わん」
「その重慶攻略作戦ですが、嶋田海相は東条首相に対して強く反対しなかったとか」
苦々しい事実を、“黄金仮面”と渾名される宇垣はさして表情を動かさないまま冷然と告げる。
「まったく、これだから嶋田さんは……」
山本は海兵同期の海相に対して、溜息交じりの不平を漏らす。
「重慶攻略作戦の流れは、変えられんか……」
「恐らくは」
「重慶を攻略したところで、蒋介石が素直に講和に応じるとも思えんがな。例え援蒋ルートをすべて閉ざされようと、連中は米軍の対日反攻作戦を待てば良いだけなのだからな。そうなれば、我々は支那どころではなくなる。陸軍の連中は、いったい支那事変で何を学んできたのだ?」
上官の愚痴に、宇垣は相変わらずの無表情のまま付き合った。
「……最早、嶋田さんに海相を任せておくわけにはいかんだろう」
結局、山本の結論はそれであった。
「まあ、私が東条さんと上手くやれるかは判らんがな。しかし、これも講和のためと思って我慢しよう」
すでに海軍内部では、長老格の岡田啓介元首相を始めとして嶋田の更迭が画策されていた。ただし、注意しなければならないのは、この段階で反嶋田派・山本擁立派は必ずしも反東条派ではなかったということである。明確に反嶋田と反東条を連結させて東条内閣を倒閣に導こうとしているのは岡田啓介であり、その他の多くの海軍軍人は単に嶋田海相の統率力を問題視しているに過ぎない。
山本五十六としても、現段階での東条内閣を倒閣させて講和推進派の内閣を打ち立てることが出来るかどうかは疑問だと思っている。もちろん、将来的には和平派の内閣を出現させることは必須であろう。
だが、現状で海軍が無理に東条内閣を倒閣させれば、陸海軍の抗争にまで発展する可能性がある。ミッドウェーを除けば戦勝が続いている現段階では、東条内閣を倒閣させるだけの口実を欠いているのだ。
問題は嶋田の後ろ盾となっている伏見宮博恭王の存在であるが、宮中の和平派を利用して宮の説得に当たるしかないだろう。
「軍令部の方では高松宮殿下が、海軍省の方では高木少将(註:高木惣吉。海軍省教育局長)が根回しを始めているようですが」
宇垣は現在、主に重臣や海軍長老との接触に注力する山本に代わり、海軍内部の和平派との情報交換を担当していた。
かつては山本から一方的に疎まれていた宇垣であったが、ミッドウェー作戦以降、黒島亀人先任参謀への山本の信頼が揺らいでいることなどもあり、宇垣は山本の画策する和平工作に巻き込まれることとなった。
そのことについて、宇垣は特に不満には思っていない。ガダルカナル攻防戦、特に第三次ソロモン海戦を終えて以降、両者のわだかまりはかなり解消されていたのである。
「何か問題でもあるのかね?」
「後任のGF長官と、軍令部総長に関してはどうされるおつもりで?」
「序列から言えば、私の後任は軍事参議官の豊田くんということになるのだろうが……」
山本の言う通り、順当に考えれば豊田副武の次の地位は海軍三長官(海軍大臣、軍令部総長、連合艦隊司令長官)しかない。ただし、問題はあった。
「私も陸軍は好いていないし、東条さんからの印象も悪かろう。そこに陸軍嫌いの豊田くんまでGF長官になれば、これはもう陸軍に喧嘩を売っているに等しい」
「どの道、和平交渉の最大の障害は陸軍でしょうから、別に構わないと思いますが」
宇垣は真顔のまま、剣呑なことを言う。それに、山本は苦笑を返した。
「まだ政府内で和平についての政策決定がなされていない段階で、陸軍を刺激するのも拙いだろう」
「となりますと、
現在、横須賀鎮守府長官を務めている者の名を、宇垣は持ちだした。
「うむ、古賀くんならばここ数ヶ月、横須賀で世話になっている。我々の対米作戦方針についても理解を示してくれているからな。適任だろう。それで手を回そう。後は、軍令部総長だが、永野さんはなぁ……」
悩ましげな息を、山本は漏らす。
「教育者としては素晴らしい才能をお持ちだとう思うが、軍令部総長となるとまた話は別だ」
永野修身は海軍内部でも教育を重視する軍人として有名で、現在、前線で戦っている佐官級の者たちのほとんどが永野の海軍兵学校長時代の教え子である。
彼ら前線指揮官たちの有能さを思えば、永野が兵学校長時代に取り入れた創造性を重んずる教育方針が正しかったことが判るだろう。
ただし、そうした有能な軍人を輩出した永野自身が軍人として有能かといえば、いささか疑問符が付かざるを得ない。人間の才能というものの面白い側面なのだろうが、そうも言っていられないのが戦時というものなのである。
「高木少将らは、第一候補として米内閣下を挙げているそうです」
宇垣が言ったのは、かつて首相まで務めた米内光政予備役大将のことであった。
「予備役の現役復帰の規程はありませんので、早い話、陛下と海軍上層部が同意すれば、米内閣下の現役復帰は可能です」
「いや、駄目だ」
山本はかぶりを振った。
「米内さんには、東条内閣が倒れた時の後継首班になっていただくこともあり得る。下手に軍令部総長に就任されて、万が一、ミッドウェーの如く米艦隊との決戦に敗れるようなことがあれば、米内さんの経歴に傷が付く。そうなれば、首相就任も難しくなろう」
「では、長官には総長人事に腹案がおありで?」
「そこが難しいところなのだ」
山本は腕を組んで考える姿勢になった。
彼としては正直、東条内閣で連合国との講和にこぎ着けることは難しいだろうと思っていた。だからこそ、次期首相に英米との和平工作を託したい。しかし、その後継首班の経歴に、汚点があってはいけない。
もちろん、負けるという前提で動くことは軍人としての本分に反するだろうが、アメリカの国力を知悉している山本にとってみれば、日米戦争そのものが壮大な負け戦だと思っている。今さら、必勝の信念云々と取り繕っても意味がない。
ただそうなると、軍令部総長の人事が問題となってくる。山本としては、後々の政治的な問題を抜きにすれば、自分と同じく対米避戦派であった米内光政が適任だという思いがある。井上成美もまた自分と志を同じくするだろうが、海軍内部での序列からいって、彼はまだ軍令部総長を務められるまでには至っていない。それに、残念なことに陛下からは「井上ハ事務ニハ明ルカランモ戦ノコトハ分リヲラサルコトナキヤ」と、指揮官としての能力に疑問を呈されているという。
であるならば、井上には自分が海相になった際の次官として補佐してもらいたい。
「古賀くんはGF長官、豊田くんは駄目。小沢くんあたりが良いとは思うのだが、豊田くんの序列をすっ飛ばして古賀くんにGFを任せたいところに、さらに小沢くんに軍令部総長を任せては、豊田くんの立場がなくなる。及川さん(註:及川古志郎)は海上護衛総隊の司令長官であるしな……」
結局、有力な候補はほとんどいない。
「高木くんたちは、第二候補を考えているのかね?」
「これは私の意見ではなく、岡田閣下や米内閣下、高木少将の意見であることを承知の上でお聞きいただきたいのですが」
宇垣は慎重そうに前置きして、その名を告げた。
「末次信正閣下です」
その瞬間、山本の顔は苦り切った。絶句したように、しばらく沈黙する。
「……正気か、岡田閣下や米内閣下は?」
「正気のようですし、末次閣下が未だ海軍内部で支持を得ていることも確かです。能力的にも、問題はないのですが」
「この場合、問題なのは能力ではなく人格だろう」山本は断言した。「右翼や国粋主義者どもと繋がりのある強硬派の末次さんを軍令部総長などにしたら、対米講和は遠のく一方だぞ」
末次信正は一九三〇年のロンドン海軍軍縮会議において、当時の海軍軍令部長の加藤寛治と共に、統帥権干犯問題を引き起こした張本人の一人であった。
さらにはその後、斎藤実内閣時代に平沼騏一郎、加藤寛治内閣を実現すべく政治的策動を行い、当時の軍令部総長であった伏見宮博恭王から厳重な注意を受けている。この一件で、末次は伏見宮からの信頼を完全に失っていた。その後、何度か海軍大臣や軍令部総長に就任する機会が訪れるが、すべて伏見宮の反対によって流れている。
その後も、日独伊三国同盟に賛成するなど、その立場は完全に対米強硬派に分類されるものであった。
海軍内部からの支持はともかく、宮中からの支持は皆無だろう。
宮中に近い位置にいるはずの岡田閣下も何を考えているのか……。
山本はそう真剣に悩まざるを得なかった。
能力を優先するか、人格も含めた政治的立場を優先するか。それが問題であった。
一応、宇垣は第二艦隊司令長官であった末次の元で先任参謀を務めた経験がある。首輪として宇垣を軍令部に放り込むか……。
現在の軍令部次長は宇垣より海兵一期先輩の伊藤整一中将が務めており、彼もまた親英米派といえる。宇垣にとっては再びということになるだろうが、彼に軍令部第一部長あたりにでも就任してもらい、末次の動向を監視させると共に、山本の構想する中部太平洋での米艦隊との最終決戦の実現のために奔走してもらうべきかもしれない。
末次の人格面や政治的立場を頭の外に追いやれば、それほど悪い人事でもないような気がしてくる。
海軍省、軍令部、連合艦隊それぞれに山本の影響力を及ぼすことが出来るのだ。
もっとも、末次に不信感を抱いている伏見宮や宮中への根回しは大変であろうが。まずは高松宮殿下あたりの説得からか。
最悪、渋々であっても陛下の同意さえ取り付けてしまえば、伏見宮についてはどうにでもなるだろう。
いや、まあ、まずは自分が海相に就任しなければ海軍の人事権を握ることも出来ないのだが。
その意味では、捕らぬ狸の皮算用ともいえる。
「まあ、この件については岡田閣下や米内さんとも話を詰める必要があるだろう。それは私に任せておいてもらいたい」
「判りました」
「宇垣くんには、海軍の必要とする戦略物資の確保に当たってもらいたい。鉄鋼とアルミニウムは絶対条件だ。それ以外では……例えば重慶攻略作戦準備のために海軍の徴用船を多少、陸軍に融通するとかの譲歩はして構わんだろう。当面、連合艦隊は大きな作戦行動をとれないからな。民需用船舶が重慶作戦のために徴用されるのは、何としても阻止するのだ。それでは南方資源地帯からの資源送還が滞る。ああ、それと念の為、雄作戦から帰還する艦隊に南方の戦略物資を搭載して本土に回航させるのだ。武蔵や各空母の格納庫など、物資を積み込む場所はあるはずだ」
艦艇による物資輸送は、ガダルカナルでの米海軍の実績を見る限り、効率的とはいえないだろうが、どうせ本土に回航させるのならば、各艦の空いている空間は有効活用させたい。ある意味、帝国海軍の貧乏根性の成せる技であった。
この時期、アメリカ海軍による通商破壊作戦が停頓しているとはいえ、日本の船舶量はその支配地域に対して十分とは言い難かった。特にセイロン島の攻略によってインド洋航路が開設された以上、船舶の必要量は今後も増大し続けるだろう。
実際、石油の輸送について、年間消費量三八〇万キロリットルと想定されていながら、昨年の輸送量は一六〇万キロリットルでしかなかった。それほどまでに、日本は物資の輸送が需要に対して追いついていないのである。
「ところで長官、物資の調達という面からの兼ね合いも含めますと、ドイツからの飛行艇譲渡要求も考慮する必要があるかと」
「そうだった」山本は思わず額に手をやった。「技術供与の見返りに二式飛行艇二〇機の譲渡、だったか?」
「外務省とベルリンの駐在武官からの報告ではそうなっています」
「そもそも生産数が少ない二式大艇を二〇機も譲渡することに、軍令部や海軍省はどういう考えなのかね?」
「概ね賛成、ただし半数は九七式飛行艇でお茶を濁すつもりのようですが」
これは帝国海軍が飛行艇の譲渡を渋っているというわけではなく、単純に譲渡出来る機体が少ないのである。
実際のところ、海軍省も軍令部も、飛行艇の譲渡そのものには前向きであった。
「……それでドイツの最新技術の数々を手に入れられると思えば、安い方なのか」
いささか納得しかねる声で、山本は呟く。
「そもそも、インド洋作戦の趣旨から申しますと、ここでドイツの提案を拒否することは適切ではないかと思います」
セイロン島攻略作戦“雄作戦”の目的は、ドイツとの連絡航路を開くこと。その意味からすれば、ドイツの提案を蹴るわけにはいかない。
「むしろ海軍が身を削って飛行艇をドイツに譲渡することで、戦略物資の配分に関して陸軍の譲歩を引き出す方向にした方がよろしいのではないでしょうか?」
どこの国家であっても予算や物資、人的資源の取り合いとなって陸海軍の仲が悪いのは当たり前であるのだが、こと大日本帝国においては戦時になっても、陸海軍首脳部はあまり歩み寄りを見せていないのである。
特にそれは兵器生産において顕著であり、ドイツ・ダイムラー社の液冷発動機DB601のライセンス取得に際しては、陸海軍別々にライセンス契約を結ぼうとしたほどである。結果、同じエンジンでありながら、陸軍は川崎航空機の「ハ40」発動機、海軍は愛知飛行機の「熱田」発動機として生産することになり、細部において構造が違う発動機となってしまっていた。
当然、飛行艇の譲渡を行うのは海軍であるわけだから、ドイツからの技術は海軍が独占することも、これまでの陸海軍の対立を考えれば可能であったわけである。
それを宇垣は陸軍との交渉の材料としようと目論んだわけである。
もっとも、そうしたことが交渉の材料となってしまう辺りに、大日本帝国の戦争指導の限界があるわけであるが。
「それで行くしかなかろうな」山本も渋々といった感じで頷いた。「他に懸案事項は?」
「二点ほど。海上護衛の問題と、太平洋島嶼部での防備強化問題です」
「ああ、及川さんから意見書が届いていたね」
四月一日の戦時艦隊編制の改定によって、日本海軍に輸送船団護衛を専門に行う部隊、海上護衛総司令部(海上護衛総隊)が、及川古志郎大将を司令長官として発足していた。
これまで船団護衛任務については指揮系統が一本化されておらず、海域によって各地の艦隊が護衛任務を引き継ぐという、非常に非効率的な形態となっていた。このため現場からは指揮系統の統一要求がたびたびなされ、結果、海上護衛総隊が創設されることとなったのである。
四月一日現在、海上護衛総隊の所属艦艇は、次のようになっていた。
海上護衛総隊 司令長官:及川古志郎大将
第一海上護衛隊【軽巡】〈鬼怒〉〈名取〉
第五駆逐隊【駆逐艦】〈朝風〉〈松風〉〈春風〉〈旗風〉
第十三駆逐隊【駆逐艦】〈若竹〉〈呉竹〉〈早苗〉
第三十二駆逐隊【駆逐艦】〈朝顔〉〈芙蓉〉〈刈萱〉
第三十四駆逐隊【駆逐艦】〈羽風〉〈秋風〉〈太刀風〉〈汐風〉
付属【海防艦】〈択捉〉〈占守〉〈佐渡〉〈松輪〉〈対馬〉等【水雷艇】〈鷺〉〈隼〉等
第二海上護衛隊【軽巡】〈球磨〉〈那珂〉
第二十二駆逐隊【駆逐艦】〈皐月〉〈文月〉〈水無月〉〈長月〉
第二十三駆逐隊【駆逐艦】〈三日月〉〈夕月〉〈卯月〉
第二十九駆逐隊【駆逐艦】〈追風〉〈帆風〉〈朝凪〉〈夕凪〉
付属【海防艦】〈隠岐〉〈壱岐〉〈福江〉等
ほとんどが旧式艦によって構成されているという問題点はあったものの、ともかくも日本海軍はようやく船団護衛任務に本腰を入れ始めたのである。
そうした中、海上護衛総隊の作戦参謀となった大井篤中佐による、ある提案が海軍内部で物議を醸していた。
「機雷堰の設置、だったか?」
「はい」宇垣は頷いた。「南方資源地帯から本土までの、敵潜水艦が侵入可能な海峡を機雷で封鎖するという構想です」
この時、海上護衛総隊では南西諸島―台湾―フィリピン―ボルネオ―ジャワに至る海域に機雷堰を設置し、潜水艦阻止帯を構築することを軍令部に上申していたのである。ところが、軍令部では機雷は対ソ戦に備えて温存すべきとの方針から、これに同意していない。
「対ソ戦のことなど、今から考えてどうするのだ」
というのが、山本の素直な感想である。対米戦第一主義者である彼にとってみれば、陸軍の重慶攻略作戦も軍令部の対ソ戦を見越した機雷の温存も、対米戦を考えれば二の次、三の次であった。
「長期不敗体制の確立を謳っておきながら、軍令部も困ったものだ」
対米早期講和論者であった山本が、今や長期戦に備えて頭を悩まさなければならないのは、何とも皮肉な話であった。
日本海軍は現在、南太平洋における通商破壊作戦で戦果を挙げている。それは潜水艦と航空機を上手く連携させた作戦であったが、いずれ米軍が同じ戦法をとってきた場合、軍令部はどうするつもりなのか?
「海上護衛総隊の試算では、機雷堰の設置にどれだけの機雷と期間が必要になるのだ?」
「機雷堰の設置方式にもよるそうですが、南方の島々を地形的障害として活用するならば総延長は三〇〇〇キロ、必要な機雷は四万二〇〇〇個で、帝国海軍の保有する敷設艦、特設敷設艦を総動員すれば三ヶ月で機雷堰は設置出来るそうです」
「ふむ」
つまり、今から始めれば多少の遅れは見込むとしても、年内には機雷堰の設置は確実に完了出来るわけである。
来年には米軍の反攻作戦が始まるであろうから、機雷堰を設置するならば艦艇に余裕のある今が好機であろう。
問題は機雷の生産数であるが、昨年の機雷の生産数は一万五〇〇〇個。開戦前からの備蓄も含めれば、十分に現実的な話であった。
ただし、後世の視点から見れば帝国海軍の使用する九三式機雷は接触式であり、ドイツや連合国が磁気機雷、音響機雷、水圧機雷なの感応式機雷を使用しているのに比べれば、一世代遅れていた。それでも、帝国海軍はドイツの磁気機雷を国産化した仮称三式機雷を製造してはいる。
まずは九三式機雷で機雷堰を敷設し、仮称三式機雷の生産が軌道に乗れば、順次、更新していけばいいだろう。
山本はそう考え、永野軍令部総長を説得することに決めた。
真珠湾攻撃といい、ミッドウェー作戦といい、彼は自分の意見を多少強引にでも推し進める手腕には長けている。それが良い結果をもたらすにせよ、悪い結果をもたらすにせよ、である。
「それで、もう一つは太平洋の島嶼部の防備強化だったな?」
「はい。重慶攻略作戦が実施されるとなれば、マリアナ群島の防備強化が遅れる可能性があります。樋端航空甲参謀などは、その点を非常に懸念しておりまして、中部太平洋での決戦構想に支障が出る可能性があるとのことです」
「……」
山本は腕を組んで押し黙ってしまった。
中部太平洋で米軍の反攻を阻止し得ないとなれば、大陸で蒋政権を屈服させたところで意味はない。
航空基地の設置に島の要塞化、守備隊の増強、陸海軍が協力せねば実現不可能なことは多々ある。南洋委任統治領であったマリアナやトラックなどは、ワシントン海軍軍縮条約の太平洋防備制限条項の影響で、要塞化が十分に行われていなかったのである。
内南洋における帝国海軍最大の泊地であるトラック諸島ですら、陸攻が離着陸可能な本格的な飛行場が完成したのは開戦の年(昭和十六年)の一月、艦隊燃料のための重油タンクが完成したのは夏と、太平洋防備制限条項の適用範囲から外れていたハワイ真珠湾やシンガポールに比べて、その基地化は大幅に遅れを取っていた。
マリアナ諸島にはサイパン島に内南洋最大の十万トン分の重油タンクが備えられているが、その他の防備に関しては十分とは言い難い。
この状況で米軍のマリアナ上陸を許せば、三日と経たずに占領されてしまうだろう。
そして、米軍が開発中であると伝えられる超重爆が完成・量産されれば、マリアナから飛び立った無数の超重爆によって日本本土は焼き払われるだろう。
そうした意味で、マリアナ諸島の失陥は日本の敗北と直結するほどの重大事なのである。
だというのに、その地の防備は進んでいない。
「何とか、米軍の中部太平洋への侵攻を遅らせる手立てはないものか……」
悩ましげに、山本は息を漏らした。
いや、本音を言えば英米ともに対日侵攻作戦を行うだけの戦力的余裕をなくした今こそが、講和の機会であるとも考えている。だが、それを実行するだけの政策が東条内閣にはない。
となれば、やはり中部太平洋での決戦による一撃講和に賭けるしかないか……。
しかし、雄作戦を終えた今は艦隊を動かすことは出来ない。しばらくは各艦とも修理と調整、再訓練が必要となるだろう。
空母に関して言えば、来年以降に完成するだろう新型艦戦や新型艦攻を搭載するために、エレベーターや着艦制動装置の更新を行わねばならない。しばらくは戦力にならないだろう。
「いっそ、連合艦隊の総力を挙げてドイツ海軍の真似事をしてみては?」
完全に本気の口調で、宇垣は提案する。
つまり、ドイツ海軍に倣って通商破壊作戦に全力を傾けようというのである。
頑固な砲術屋だとばかり思っていた宇垣の口からそのような発言が飛び出したことに、山本は驚きにも似た感情を覚えた。
「場所は“い号作戦”が継続されている南太平洋です。この際、オーストラリアの港湾施設も空襲や艦砲射撃で破壊する必要があるかと思います。それによって豪州の港湾を使用不能とし、南太平洋方面からの米軍の侵攻に一定の足枷を嵌めるのです」
現在、米軍の対日侵攻ルートは、ハワイからマーシャル、カロリン、マリアナに至る経路と、オーストラリアを発しソロモンを北上、ニューギニアを確保してフィリピン、台湾、沖縄へと至る経路がある。
そして当然ながら、二正面作戦を可能とするであろうアメリカに対し、帝国海軍は二方面からやってくる敵を迎撃するだけの戦力はない。
だからこそ、米豪遮断作戦という発想も出てくるのであるが。
「作戦は、本年中に実施する必要があるでしょう。恐らく、艦艇の修理や整備、航空隊の練成などもありますから、遅くとも本年十一月前後には実施出来るはずです」
「ふむ。一考の価値はあるな」山本は乗り気であった。「よかろう。樋端くんたちと、検討してみてくれ」
「かしこまりました」
一礼する宇垣を見て、山本は奇妙な感慨に捕らわれた。
「恐らくその作戦が、帝国海軍にとって最後の攻勢計画ということになるだろうね」
皮肉な話であった。
開戦前、山本は当時の近衛文麿首相に日米戦争の見込みについて問われた際、「それは是非やれといはれれば初め半歳か一年の間は随分暴れて御覧に入れる。然ながら二年三年となれば全く確信は持てぬ。」と答えたことがあった。
今の帝国海軍は、山本の見込みと違って一年半の間、太平洋とインド洋で暴れ回ることが出来た。そして宇垣の発案による通商破壊作戦が実施されれば、実質、連合艦隊は開戦から二年にわたって暴れ回ることが出来たことになる。
だが、所詮はそこまでなのだ。
来年には、アメリカは強大な艦隊を用意して太平洋を横断してくるだろう。日本には米艦隊を上回るだけの艦艇・航空機を生産するだけの国力はなく、ましてや米本土への侵攻など夢物語でしかない。
通商破壊作戦は確かに効果的であろうが、日本に対してならばともかく、強大な国力を誇る米国ならば、一〇〇万トン単位で船舶が沈んだところで意に介さないだろう。
結局は、宇垣の作戦案もまた、日本の破滅を少しでも遅らせようとするための苦肉の策にしかならないのかもしれない。
そのような悲観的な思いを、山本は抱いていた。
米艦隊と正面切って戦い、そして完全な勝利を成し遂げるのは、恐らく今回の第二次セイロン沖海戦で最後だろう。
これより帝国海軍は、苦闘に次ぐ苦闘を潜り抜けて、講和への道を切り開かなければならない。
その道はきっと、数多の将兵の血と
その上を我々は歩き、大日本帝国という国家を守り抜かねばならないのだ。
山本五十六は、悲壮なる思いと共にそう決意していた。
英米の両艦隊を完全に撃滅したこの第二次セイロン沖海戦こそ、帝国海軍最良の時であった。
栄光の時は過ぎ去り、血戦の刻が始まろうとしていた。
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