おわりに

天空の端から

 会いに行く。

 愛に生く。



 そのことだけを思い出した。しかし誰を想っていたのか、誰に会いたかったのか分からない。ずっと昔から約束していたように感じる。指を絡めて、吐息を漏らして、愛を語り合った者。その想いだけが儚く、天に昇っていく。


「ボクは……、どこへ行くのだろう」


 ささやかな疑問は、どこにも受け取ってはもらえなかった。だがそれで悲しみ憂うことはない。きっとどこかで分かっている。自分がどこへ向かうのかを。


 やがて雲を抜け、白と黒が混じり合う空間へと到達した。いや、その認識すらも合っているのかは不確かだった。そこは神が住まう場所とされている。自分は天使に戻ってしまったのだろう。戻る体もないことだし、再び神に仕えるのも悪くはない。しかしどうしたことだ。胸にまだ棘が深く刺さって、抜けていない感覚がある。


「ただいま戻りました」


 背中の羽根は戻ったので、とても軽やかな気持ちだった。どこへでも飛べると分かると嬉しくなったが、いつまでも翼を動かすのを躊躇っている。やがて自分でも認識できるように、声となって何かが現れた。


 ――幸せは、理解できたかい?


 頭の中で、誰ともつかない声がする。自分のようで他人のような音は、それでも違和感なく体へと入っていった。瞼をひとつ瞬かせて、しばらく考える。


「覚えてないんです、何も。……でも、不思議と不快感はありません」


 言うと、心臓の辺りがズキリと鳴る。気のせいだと思い直して、また降ってくる声に耳を傾けることにした。


 ――では、誰かを幸せにできたかい?


 幸せとは何だったのか。暖かな空間で黙り込む。誰かとは誰だ。不確かなことは答えにくい。何かを言わなければと唇を開くも、うまく音吐が出てこなかった。

 でもどこかで、誰かの辛い泣き声がして心を痛める。悲鳴が耳に残っている。胸が締まって、居た堪れない気持ちになる。自分がここに来てしまったことで、悲しんだ誰かがいるということだ。


「きっとボクは、誰も幸せにできなかったのだ、と思います」


 だってその誰かは、こんなに涙を流している。それは温かい雨となって、ひび割れた体に降り注いだ。空いた心臓から感情が沁み込んでいく。悲しい、切ない。そういった想いが、頭の中を満たしている。


 ――誰かを、愛したことは?


「愛……?」


 それは、絶対に手に入れたいと思っていたものだ。まだかすかに覚えているから。しかしいまとなっては必要ないのだろう。魂の存在になって、いかに自分が無力であったか思い知らされた。欲していたからこそ思い出せることがある。つまりは己には、それすらもなかったに等しいのだろう。


「きっと、欲しかったものです」


 誰も救えなかった。雨は強さを増していく。それがガラス玉のような瞳にかかって、目尻から零れ落ちていく。作り物の体躯ともそろそろお別れだ。長い睫毛で水を払って、露を垂らしていた。


「つっ……!?」


 切れた口の端に沁み入ると、強烈な痛みを味わった。堪らず傷を押さえると、ビリビリと小刻みに脳が震える。


 ――それが、人の痛みだ。心と体の苦痛だ。君に耐えられる覚悟はあるか?


 罰だろうか。誰も助けることができなかった報いだろうか。ならば甘んじて受けよう。


 しかし怖かった。いつまでも躊躇って応えることができない。耐えられないと返事をしたら、神は許してくれるだろうか。

 慈愛深い存在だから、どう答えても受け入れてくれるだろう。それは近しい場所にいた自分が良く分かっているが、どうしても答えられなかった。拒否すれば、大事な何かを失ってしまう気がしたのだ。


 ――では誰かのためなら、生き抜くことができるか?


 畳みかけないでほしい。いま考えている。おかしなことは訊かないでくれ。冗談とは言え遊びが過ぎるだろう。生きるとはどういうことだ。痛みに耐えるということか。それならばわざわざ苦しい思いをしてまで地を這う必要はないのではないか。


 だが誰かのためとは、一体誰のことだ。息ができなくて、奥歯を噛み締める。辛い、苦しい。どうしてか意思が固まらない。天使としての己はどこへ行ってしまったんだ。これを乗り越えれば、誰かのために、誰かの傍にいられるのだろうか。

 もう何も聞きたくない。悟りも、懇願も、叫びでさえも。


 ――マコトの愛を、思い出せ。


 それでも拒絶できず入ってくる。いま決断せねばならないのだ。そこまで自分の精神は強靭にできてない。引っかかる言葉は何だった。


「マコト……?」


 誰だった。いや違う、それは真実という意味の単語だ。人物名ではない。だのに、その愛しさを覚える言葉はどうしてか目頭を熱くさせる。どういうことだ。ずっと雨が伝っているだけかと思っていたのに、それは涙だった。

自分はもう、機械ではなくなっている。


「――眞子都」


 思い出した。心臓が跳ね上がる。彼女を泣かせてはいけない。彼女のためなら痛みなどどうでもいい。隣を歩けるならばすべてを擲ってでも構わない。


 ――痛みは、理解できたかい?


 試練だったのだ。自分は眞子都に酷いことをした。嫉妬から彼女の髪を切り、挙句の果てに戦地に出征して破損してしまった。彼女の悲しみは計り知れない。だから自分にも同じ体験を降り注いだのだ。


 ――再度、問おう。生きる痛みに耐え、誰かを心から愛し、互いに幸せになることはできるか?


「で、ですが……」


 答えるのが怖い。地上にいたときに、自分は生きていると言えただろうか。それでも眞子都は愛してくれた。無償の愛を謳い、こちらに笑いかけてくれた。自分もまたそんな彼女を愛おしく思っていた。

 それは作られたものではないか。その不安はいつまでも消えない。雛への刷り込みのように、勝手に想っているだけではないのか。


「でも、眞子都が好きだ」


 瞼を力強く瞑り、眞子都の影を思い浮かべた。愛おしい、愛らしい、心から好いた女性だ。少女はありもしない、機械の魂を信じている。


 作り物かもしれない。けれど彼女の傍に、ずっといたい。


 ――相分かった。しかし代償は払ってもらわねばならない。


 何でも受けよう。果てない痛みでも悲哀でも結構だ。眞子都を笑顔にしたい。それで満足してくれるなら、好きにしてもらっていい。体が刻まれても、心が霧散してもいいだろう。神が望むなら。いや、眞子都が望むなら。


「――ッ!?」


 急に足元の感覚がなくなったので、驚きの声をあげる。落ちている、急降下していると気付いたときにはもう遅く、どうにも足掻くことができなかった。急いで背中の羽根を動かそうとする。が、そこにはもう、真白の羽毛は残っていなかった。


 代償は、翼だったのだ。もう飛べない。神の元へ帰れない。バラバラと羽毛だけが、実体のない霞となって天へと戻っていく。必死に空を掻き集めるも、雲はすり抜けていくばかり。

 それでも、これでいいのだとやっと気付き、彼は抵抗をやめた。


 ――生き抜きなさい。地上には、愛があるから。


 時には痛みも伴うだろう。耐えられるか試したら、彼はやっと思い出してくれた。羽根がなければもう天使としては存在できない。我らの声も直に聞こえなくなるだろう。その前に贈らねばいけない言葉と想いがある。


 愛に生きなさい。大切な、運命の相手の傍へ。

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