雪の日の逢瀬

「もう、朝ね。早く準備しないと、迎えが来てしまうわ」


 遠くで眞子都の声を聞く。結局彼女は一睡もできなかったらしい。実は迎えの足音は少し前から聞こえていた。数日間よく聞いた、男の足音だ。今日、眞子都は匡祐と朝から出かけようとしている。


「おはようございます。今日はわざわざすみません」


 駆けていく。他の男の元へ。いままではこちらを恋人のように扱ってくれていたのに、その隣に自分はいない。外に出られないからだろうか。違法だと言われてしまったからか。それともこの外見が邪魔なのだろうか。

 眞子都のためならこの皮膚を剥いでもいい。しかしそれで彼女は納得するだろうか。慈悲深い少女のことだから、泣きながらやめてと懇願してくるかもしれなかった。


「眞子都、髪が……!?」

「これは、その、気分転換で」


 羽根がなければ、天使として生まれなければ、ああして眞子都の手を引いて外を出歩けたのだろうか。

 遠くへ行ってしまう。見てほしいと叫んでいる。まるでいつも自分が声を聞く、神々のように。願っているのに、どうしてか、届かない。


 髪を切ったせいか、外は湿っぽく、凍えるくらい寒かった。今日は、眞子都のほうから誘った形となった。何やら悩んでいるような素振りを見せていたので、匡祐が相談に乗ったのだ。初任給を貰ったばかりで、メアリに何かお返しをしたいのだと言う。


「お電話したほうが良かったでしょうか? まだ降っているとは思っていなくて……」

「気にしなくていいよ。家を出る前には止んでいたんだけどね」


 昨日からちらついた雪は、人通りのない道路を白く染め上げるくらいには積もっていた。自宅の門を潜ったときには雲はまだ泣いていなかったのだが、西園寺家に着く前くらいにまた降り出したのだ。

 傘すらも持っていなかったので、眞子都は正輝の傘をついでに匡祐に貸している。本降りではないのでまだ差してはいないが、これはありがたかった。今日はいつもの紳士服を脱いで、眞子都に合わせて着物にしている。


「女性への贈り物なら花や宝石……いや、これは男性が贈るものだね。メアリお嬢様が欲しいものに、心当たりはないのかい?」

「心当たり……。そう、ですねぇ」


 今日は寒いからと、以前ツバサが出してくれた手袋までつけている。コートと同じく淡赤のものだ。人差し指を唇に当て考えると、吐く息が白く濁り、視界が遮られた。


「思いつかないなら、眞子都が欲しいものを考えてみたら?」

「わたしの、欲しいもの、ですか?」


 以前、ツバサにも似たようなことを訊かれた。眞子都のしたいことは何か、と。実のところいまだに答えは出ていない。機動召使だと思って油断していたが、ツバサは愛を知り、心が成長してきている。

 昨日のことを考えると心苦しいが、いつまでもいじけていては始まらないだろう。


「女性の気持ちなら女性が一番分かるでしょ。それに、眞子都が選んだものなら何でも嬉しいんじゃない?」

「そう、ですかね?」

「あぁ、そういうもんさ」


 そのように思ってくれるならとても嬉しい。そっと微笑む眞子都をよそに、匡祐は眉をひそめる。贈り物の相手が自分でない悲しみだ。しかし仕方ないだろう。窮地の眞子都をあのとき救ったのはメアリだ。

 それにこちらが飲みに誘うと、ときたま困ったような顔をするのだがそれも気に入らない。結ばれない相手といまだに恋人ごっこをしているのだと感じていた。早いところこちらに乗り換えてくれないものか。大人の世界を見せても、その階段を気付かず素通りするような娘だった。


「うぅん」寒さで頬が紅潮していくのが、堪らなく愛らしい。「櫛、ですかね?」


 やがて口を開いて再び白い吐息を流す。悩み過ぎたのか、気付けば街まで降りてきていた。扇状に広がった産業街は、機械工場だけでなく食堂や他の商業も発展している。つげ櫛屋もその例に漏れず、根強く繁栄していた。


「その髪でかい?」


 児童のような出で立ちに、匡祐は困ったようにくすくす笑う。突然の断髪の理由は気になるが、こうして自分と気軽に話してくれるなら大丈夫だろうと踏んだ。


「だったらいい店を知っている」


 匡祐はこの広がった街を、良く知っていた。そこまで裕福ではないので幼いころから働きに出ることも多く、眞子都と同じ歳のころには一人前に大人を動かしていた。ゆえに薄く広く地図を網羅し、裏道の場所も身に沁みついている。

 軍に入ることも考えたが、きっと自分の性に合わないと思っていた。そんな折出会った綾小路産業の求人は給料も良くすぐに飛びついたが、若い彼を良く思わない年配は多かった。だから二十三にして局長という立場にはしてもらっているが、要は体のいい厄介払いだ。


「ここだ。好きに見ればいい。気に入ったのがなければ他を紹介しよう」


 娘がいると聞いて手籠めにできるかとも思ったのだが、彼女は聡明で、かつ社会の厳しさを知る少女だった。人と機動召使の違いを分かっており、自分と従業員の立場の違いも理解している。深く知り合いたくない匡祐にとっては、苦手で賢い女だった。

 メアリもそのことに気付いているはず。それでも大切な友人を自分に寄越したということは、これも彼女の策略なのかと肩をすくめてしまったほどだ。経年劣化したひねくれた仮面は、もはや取る術を知らない。すべてを受け止めてくれる眞子都の前だけ、どこかのネジが緩んだ気がした。


 匡祐が表の火鉢で暖を取っている間、眞子都は手袋を脱いでひとつひとつ丁寧につげ櫛を手に取っていた。贈り物だ、適当には選べない。そっと、誰にも気付かれないように自分の唇に触れる。指とも違う、弾力のあるラテックスの感触。残念ながら何も感じなかった。

 今日は彼と、きちんと向き合うと決めていたのだ。この予定も前々から決まっていたが、少し内緒にしたくて直前まで言わないでいた。それがいけなかったのだろうか。


 心臓が張り裂けそうだ。どうか不幸にはならないで、と願うばかりで前に進めない。


「素敵ね」


 やがて選んだのは、濃茶の、細かい歯がついたもの。持ち手が広いので装飾をお願いするのにちょうどいい。入れてもらう図案は決まっている。所有物だからではなく、大切だからこそ持っていてほしい証明だ。


「あの、お待たせしました」


 眞子都は匡祐の想いも露知らず、太陽のような笑みを湛えている。この調子ならお目当てのものは買えたのだろう。長々と考え込んでいた甲斐があったというものだ。ちらと見えた包み紙がふたつあったので、もしかしたら自分にも何かくれるのかと思ったが、遂には匡祐にその想いは届くことはなかった。


 それはそうか、そもそも女物の品しか置いていない。だけれど口惜しく、後を引く想いだった。

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