二股の恋路

 しかし仕事で顔を合わせると意識はしてしまうもの。それは双方ともに共通する事柄ではあったが、やはり大人の匡祐のほうが平然としているように見えた。送迎の際は何を話せばいいのか分からない。眞子都だけがただ気にしているかに思えて、肩身が狭かった。


「眞子都、そこの新聞を取ってくれるかい?」


 職場に着くと匡祐は、いつも朝に新聞を広げ、コーヒーを淹れる。だから彼の残り香はいつも焙煎した豆の匂いだ。しかし眞子都の鼻腔にはあの夜の酒精のほうが強い。その二面性はいつでも女性の気を惹いた。

 平静を装いつつ彼に合わせるので精いっぱいだった。新聞を手に取り、おずおずと渡してみる。


「ありがとう。そろそろうちにも制服を支給してほしいものだね」

「制服、ですか?」


 日々着物の柄を選ぶのもようやく楽しくなってきたころだが、確かに出勤中は動きづらいと感じていた。匡祐も眞子都の麗しい姿を見るのが好きだったが、制服制度の提案についてはだいたい同じ理由だ。


 それに、その上等な着物では職場にあまりいい印象を与えない。彼女も気付いたのか、数日後には位の低いものに変わっていたが、良家なのは皆に知れ渡っていた。可愛い彼女が嫌がらせの標的にされるかもと考えるのは、心苦しいものがある。


「ああ。眞子都の可憐な姿は、俺にだけ見せてほしいからね」


 またそうやって眞子都は同じ顔をするのだ。言われ慣れてないのだろう。頬を紅潮させ、困ったように瞳を潤ませる。朝の陽射しは輪郭をぼやかすように照らし、神々しささえもあった。

 意識をしてくれているなら自分にもまだチャンスはあるだろうと、匡祐はほくそ笑む。ふたりだけの世界は、もうすぐ終わってしまう。喧騒な毎日の間の、一瞬の静寂(しじま)。永久に続けばいいのにと願っているが、それが叶えられることはない。


「おはよう、マコ」


 破るのは決まって匡祐の敵だ。忙しいはずなのに、仕事に慣れたかと毎朝訊いてくる。女社長は正式に就任する前の視察をしているつもりなのだろう。


「メアリ、おはよう」


 好いた女の純粋な笑みが向けられる相手が、自分でなくていけ好かない。まだ恋敵でなくて良かったが、邪魔する者はすべて仇だ。


「来栖もおはよう。今日も朝早くから感心、感心。ようやく局長としての自覚が出てきたかしらね」

「はぁ、それはどうも」


 口を曲げていたが、舐められたような言葉に匡祐は、強制的に笑みを作る。怒りを隠したそれだ。自分にはまだ受け流す余裕があることを誇示している。

 メアリが眞子都の送迎を申し付けたのは、治安が悪いからと、ふたりの距離が縮まるからといった理由だけではない。仕事に身が入っていない匡祐は、遅刻と残業を繰り返す男だった。眞子都のおかげでそれもなくなり、会社としては大満足だった。


 あとはふたりの恋路だ。


「いまからちょっと、マコを借りるわね」


 今日はさらに尋問だけでは飽き足らず、誘拐までする始末。不服そうな顔を見せるも、メアリは鉄の精神で愛い娘を連れて行く。眞子都が嬉しそうについていくことに対しても、気分は良くなかった。


「あらあら、そんなに怖い顔しないでよ。すぐ帰すわ」


 メアリはこの男が心の底から見せた嫌悪を物ともせずにあしらう。むしろいい傾向だ。眞子都は気付いていないだろうが、この縁談をしれっと持ち込んで良かった。眞子都が申し訳なさそうに匡祐に視線を向けた瞬間だけ、彼は笑顔を取り繕っている。


「いいよ、行っておいで。でも早めに帰してくださいね、お嬢様?」

「分かってるわよ。社長直々の面談みたいなものだから」


 ひねくれた性格はそうそう早く治るものでもないし、素直に感謝を言われたいわけでもない。本音と建て前は社会に出る上で必要になるスキルだと感じているのもあり、逆に嫌味を言わないほうが心配になるくらいだ。

 反対に眞子都に関しては素直すぎるのが心配だが、これから匡祐が面倒を見てくれるなら願ったり叶ったりなのである。


 部署近くの応接室に眞子都を通すと、さっそく話を切り出した。


「さて、今日はマコに大事な話があるの」


 鈍い彼女のことだから、誰かが後押ししないと気付かないのではと常々思っている。お節介な部分ではあるが、自分は社長になる女だし、部下の朗報にはいち早く駆け付けたいのだ。

 眞子都は、メアリがいやに真剣な表情で口を開いたので、何かあったのかと身を固くしてしまった。


「来栖とは、どういう関係?」


「……へ? え、えっと?」だが思ってもみない質問だったので、眞子都は驚いたあとに目を泳がせる。「どういう関係ってその――」


「上司と部下、なんてへっぽこな答えは求めてないからね?」


 答えにくいことや自信がないことには俯きがちになる。メアリは眞子都の癖が手に取るように分かっていた。ただし意識はしているということだ。何も思わなければ言い淀むこともない。


「その、わたし、大人の男性とそんなに話をしたことがなくて……」


 いままで近くにいた大人の男と言えば、父や使用人、そして総一郎だけだ。その中ではやはり元許嫁と比べるべきだろうが、彼を思い出すとどこか子供っぽく、どこか不充分に感じてしまう。


「口説かれたの?」


 メアリはずずいと身を乗り出して、その先の言葉を持っていった。もともと女たらしでいい評判はないと聞く。そんな男をどうして眞子都に紹介したかと問われても、きちんと答えられるだけの理由があった。噂には尾ひれが付くものだ。

 女性に空々しい言葉を向けるのは知っていたが、深い関係を持ったことはない。メアリが見立てたところ、匡祐は心から人を愛することをしないのだ。しかし眞子都は人を疑うことを知らない。彼女にはどんなものでも受け入れてくれる柔軟さがある。美しい花には棘があるように、ふたりで足りないところを補い合い、そうしてひとつになってくれないかと考えていたのだ。


 思惑はメアリの願った通りに運んでいるようだった。匡祐は全部気付いているのであまり印象のいいやり方ではないが、それでも甘んじて環境を受け入れているあたり、眞子都を気に入ったと見える。


「そう、なんだけど……。でも、そんな、本当に本気なわけじゃ……ないと思うのよね」

「何言ってるのよ? もっと自分に自信を持ちなさい?」

「で、でも……」


 眞子都にはツバサがいる。愛を育める相手がすでに存在している。だって彼は人間のようであるし、こちらの気持ちを分かってくれているから。

 そう信じていたが、それを言ってしまうと、メアリにこっぴどく否定されてしまうだろう。眞子都も、愛した相手の正体を知らないわけではないのだから。


「好きなの?」

「え……っ」


 問われると、胸が締め付けられてしまう。音にしてしまうと怖くて、壊れてしまいそうな脆い足場を実感させられる。喉が締まって声も掠れる。唇が竦み、瞳から涙が零れそうになってしまう。


「どう、かな」


 大きな愛を向けられた者は、感情が昂って溢れ出してきてしまうのだ。胸が熱いのは二度目だ。総一郎といても、実はそこまでの高揚感は経験しなかった。一度目はツバサ。今度は、匡祐に対して、ときめいている。


「来栖もマコに好意を抱いているようだし、あたしも応援するわよ?」

「え、でも、応援ってそんな……」


 再度思い出すが、自分にはツバサがいるし、匡祐まで意識してしまうと好色のようで気が引けてしまう。惹かれているのも理解できるが、それは大人の雰囲気に引っ張られているだけなのではないかと思っていた。

 匡祐の周りには自分よりももっとお似合いの女性たちがいる。自分では釣り合わない。


「大丈夫よ! マコは可愛いわ。もっと自分の幸せを大切にしなさい?」

「幸せ……」


 それならもう決まっている。ツバサとともにいることだ。ずっと変わらずにあの屋敷で過ごしていくことだ。家族のいたころはその世界が幸せだと思っていたが、それも変わってきている。


「そうよ。いつまでもひとりではいられないでしょう?」

「でも、わたしにはツバサが――」

「それだって、いつ壊れるか分からないじゃない。それに機動召使は歳を取らないのよ?」


 ならばツバサがいなくなったら、どうなるのだろう。考えた瞬間急激に悪寒が走り、未来を考えられなくなった。ガツンと頭を殴られたようで、血の気が引いた。


「あぁ、もうそろそろ行かなくちゃ。ごめんね、マコ。またね」


 今日の仕事は、メアリのせいで身が入らなかった。その様子を見られて、匡祐が心配している。昼休みに給湯室に呼び出され、壁に追いやられてしまった。ひんやりとした石壁に背中を付けると、前から匡祐に覆いかぶさるようにされる。守られているようでその実、退路を断たれてしまった。


「どうした、今日はやけに沈んでいるように見えるが? お転婆お嬢様に何か言われたかい?」

「い、いえ、その……」


 俺の可愛い眞子都に何を吹き込んだかと匡祐は思案して、無性に苛つく。おおかたこちらの悪い噂でも流されたかと思っていた。それなら初めから出会わせなければ良かったのだ。金持ちの道楽に付き合っている暇はない。


「もしかして、俺のこと?」

「そ、それはっ……!」


 図星だ。しかしそれは悪口ではない。先程の内容を思い出し、眞子都の血潮がどくどくと鳴る。苦しむような表情と呼吸も早くなったのを確認し、それを拒否だとも匡祐は捉えてしまった。


「そう」


 しかし失恋などといったちっぽけな感情はこちとら持ち合わせていない。嫌われたならもう一度我が物にすればいいだけの話だ。この可憐な蝶をどうしても自分の心の中に捕らえておきたい。

 虫かごに閉じ込めて、逃げられないようにずっと眺めていたい。その笑顔は永遠に、自分だけに向けていてほしい。


「なぁ、俺のこと、好きかい?」


 柔らかい耳朶に、絡みつくように言い残す。初心なので耳まで真っ赤だ。惚れた腫れたの話はどうにもついていけず、眞子都は自分の気持ちの整理がつかなかった。


「あの、メアリにも同じこと、言われ、て」やがて嗚咽するように彼女が漏らす。「わ、わたし、分からなく、て」


 何といじらしいのだろう。苛立ちも肩透かしを食らった。自己防衛かとっさに友人の名前を出して責任転嫁をしようとしているが、それも相まって、ますます申し訳なさそうに顔を下げてしまった。


「なん、だ。そんなことか! は、はははっ!」


 この日珍しく大笑いしたことは、しばらく職場で話題になった。腹を抱えるほど笑って、横腹が引き攣っている。


「じゃあ、これから理解していけばいい」


 体温が上昇して熱くなったので、匡祐は長い髪を掻き上げた。彼のその言葉は本当で、以前よりもっと眞子都に優しく触れるようにしてくれている。相手が自分のことを好きと知っていることで、眞子都はどう接すればいいのか分からなくなっていたが、それでも匡祐は焦ることはなくゆっくり愛を説いていった。

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