第13話
けたたましい電子音が鳴り響き、現実に戻された。夜も遅いこの時間の電話が緊急であることを物語っていた。母の異常を伝える電話。そう確信した私は上着を身に着け、彼女と一階のリビングへと向かった。何コール目かで父が電話に出た。ぼそぼそと話し声が聞こえ、私達がリビングにたどり着く頃には父は電話を切っていた。
それから父はタクシーを呼び、出掛ける準備をした。父は免許を持っていなかったし、家には車もなかった。私たちは揃って家を出て、タクシーを出迎えるために通りに立った。家を出る時、犬が吠えたが、主人である父と侵入者である私と彼女を同時に認識した為か、遠慮と敵意の混じった鳴き声だった。
通りは街灯で照らされ、車も通らず静かだった。
美和子はふらふらしていたので私は彼女の手を握っていた。父は何も言わなかった。私は何も言えなかった。やがてタクシーが到着した。父は助手席に座り、運転手に行き先を告げた。行き先とこの時間帯でどういう状況なのか想像がつくものだが、運転手はぺらぺらとよく喋った。彼は私たちに同意を求めたりしなかったので、私たちは黙ったままだった。彼に罪はなかったが私は彼の話を聞いていなかった。車は灯りの少ない道を走り続けた。時々、対向車がすれ違った。皆、すごいスピードで駆け抜けていった。美和子のスカートからパンティが見えていた。気がつくと運転手が鏡越しにちらちらと見ていたので、私は彼女に足を閉じさせた。運転手は何事もなかったように運転した。
病院に着いた私たちは夜間受付へ向かった。夜の病院は独特の雰囲気に包まれていた。死と生命の匂いが充満していた。当番の看護婦に連れられて母の病室へと向かった。長い廊下を歩いた。エレベーターを待った。光る数字が一定の間隔で変わっていくのが、母へのカウントダウンのように思えた。数字は目的の階で進行を止めドアが開いた。その瞬間、先程よりも強い、死と生命の混じり合った匂いが流れ込んできて、私の足元かららせん状に体の周りを回りながら這い上がってくるような感じがした。看護婦のあとに私と美和子が続き、そのあとに父が続いた。看護婦は灯りの点いた部屋の前で私たちに部屋に入るように言った。中では数人の人が一つのベッドを囲むように立ち、ベッドを見下ろしていた。その中の一人が私達に気付き声をかけた。それを合図にベッドを囲んでいた人達は一斉にこちらを見た。声の主は兄だった。彼は私が来るのが遅かった事を非難した。姉も同じような事を言った。それから美和子に対して不可解なものを見るような視線を送り、父に対して何か言った。親戚の一人が母の耳元で「薫、来たで」と優しく言った。母の私の名を呼ぶ声が聞こえた。それは母のものとは思えないほどか細くて、今にも消え入りそうな声だった。記憶の中の元気な母はそこにはもういなかった。私は美和子の手を引いて、母を囲む人たちの輪の中に割って入った。
そこには歳を取った母がいた。私はこの時のための用意をしていなかったので、どうすればいいか分からなかった。
「来てくれたんか」
そう言って母は笑った。それから母は、ちらりと美和子の方を見たので、彼女を紹介しようと喋り始めたが母が首を横に振り、それを遮った。
「おいで」
私と美和子は母の側にしゃがみこんで顔を近づけた。
「ありがとう」母はそう言って力なく、笑ってみせた。
死が母を連れて行こうとしていた。母の顔は全てを受け入れたものがする顔だった。私もそれを受け入れるしかなかった。母はこれ以上喋る力も失ったのか、それとも自ら望んでそうしたのか、ただ黙ったまま私たち二人を見つめていた。その間、母の理解が優しく私の中に流れ込み、私の中の黒く、疲労し、諦めて放置した部分を新しい何かに再生させるのだった。
「ありがとう」母は私を見て言った。
「ありがとう」母は美和子を見て言った。
私はその時、昨夜の美和子の言葉を思い出した。
(私を理解して。私を許して。そして私を愛して。決して順番を間違えないでね)
私はその言葉の意味がはっきりと分かった気がした。
私の中で記憶という名の歯車がかっちりとかみ合った。その歯車はとても複雑で数え切れないほどの部品から出来ていたが、その全てが美しくかみ合い、作動した。全ての理由は、その尊いものに導かれ、その先に私がいた。私は全てを許されたような気持ちになった。
そのあとに私は気付いた。
私は愛されていた、と。
それは例えるなら、ありふれた奇跡のようなものだった。それと同時に私は選択肢のない自分に腹が立ち、人生において初めて、後悔の念を味わった。けれど母はそれを問題にもしなかった。
「……お父さん」
母が振り絞るように父を呼んだ。私にはそれが母の私への別れの言葉に聞こえた。その瞬間、私の中で何かが弾け、短い幸福な時間の終わりを告げた。
振り返ると父は母から一番遠く離れた場所に立っていた。私は父を呼び、その長く連れ添った二人を後ろから黙って見守った。美和子は私の側に立ち、そっと私の手を握った。
それは二人にだけ許された時間だった。二人にしか分からないものがあった。長く連れ添った二人にしか分からないものがあった。そこには決して二人以外のものが踏み込んではいけないことを私は知っていた。父にとっても母にとっても時間は問題ではなかったが、二人には時間がなかった。そんな単純なことがすごく悲しく思えた。美和子の私の手を握る力が次第に大きくなり震えているのが分かった。私は二人から目を逸らさなかった。やがて父がその長く連れ添った相手に対して最後に向き合い、その魂を解放する時が来た。
「……」
父は前屈みになり母の顔に近づき、何か言った。私の手を握る美和子の力がふっと抜けるのが分かった。私には父の言葉が聞き取れなかった。
その次の瞬間、母の目から涙が零れ、両の頬を伝った。
医者が母の死を告げた。
それでも私は父と母をただそのまま見守っていたいと思った。母が亡くなった瞬間が母の全ての終わりだとは思えなかった。私は二人を見ていた。
周りにいる人達が皆泣いていた。美和子は半分目の前を、半分過去を見ているようだった。父は泣かずにじっと母の顔を見つめていた。私は皆がそれぞれ、この時の準備をあらかじめしていたような気がした。ただ父だけが何も用意していなかったように思えた。私は泣かなかった。それは別に泣くのを我慢していた訳ではなかった。私には泣く権利がなかった。今泣けば、父と母を侮辱してしまうような気がしたので私は泣かなかった。父には泣く権利があった。それでも父は泣かなかった。
私は父が最後に言った言葉が知りたくなり、美和子に父は最期に何と言ったかを聞いた。美和子は私にも聞こえなかったと言った。私はそれっきりずっと父と母を見守っていた。母が死んでいることは問題ではないような気がした。それぐらい今の二人は幸福に見えた。そして何よりも美しく見えた。
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