第3話 お嬢様の専属従者との対面

 小説『マジカル・ハーツ』のおおまかなストーリーと、クリスティーナ・エムロイディーテについての記憶がピタリと頭の中に嵌った気がした。


 途端に、意識がふっと浮上する。


「…………?」


 視界に広がる天井をぼうっと眺めていると、右手に柔らかな感触があった。

 上体を起こそうとするが、力が抜けてうまくいかない。なんとか頭だけを動かして右側に目を向けると、誰かの丸い後頭部が見えた。


「すぅ……すぅ……」


 白いシーツに流れる、紫に黒を混ぜたような色の髪には見覚えがある。

 クリスティーナ・エムロイディーテだ。


 少女のまん丸とした両手が、俺の干からびた大根のような腕から伸びる右手を優しく握りこんでいた。


「……っ」


 声を発しようにも、干上がっていてかすれた空気のみが漏れた。

 頭では前世の記憶なるものを思い出すことができたが、こうして作中のキャラクターが目の前にいるというのが信じられない。


 今見えるのは後頭部のつむじだけで、しっかり顔を窺うことはできないが。

 奴隷市場での記憶を頼りに思い起こすと、あれはクリスティーナ・エムロイディーテで間違いないはず。

 顔というよりは……この髪色と瞳の色でそうだと確信に至ったのだ。


 クリスティーナが至近距離に存在しているとはいえ、ここが本当に『マジカル・ハーツ』の世界なのか疑問である。


「……目が覚めたのか」


 もしや夢なんじゃないかとさえ思い始めていた頃、なんの前触れもなく声をかけられた。


 いつの間にかベッドの端に頭を預けて眠るクリスティーナの背後に、少年が現れたのだ。


「……っ!」


 いつからそこに!? と、声を出そうとするが、その試みは虚しく終わる。


「無理に声を発しようとするな。喉を傷つけても知らないぞ」


 労わっているようにも聞こえるが、こちらに向けられる青みのある銀の瞳は冷ややかなものだった。


 奴隷市場でクリスティーナからクリアと呼ばれていたこの少年。やっぱり知っている。

 クリスティーナに仕えていた専属従者のクリアだ!

 小説本編ではあまり見かけなかったというか、ほぼ姿を見せなかったが、この透き通るように美しい見た目であるためか、女性からは密かに人気のあるキャラクターだった。


「……」


 どちらも人物紹介のイラストにあった二人と似ている。

『マジカル・ハーツ』の本編は、主人公が魔法学園に編入する辺りから開始される。たしか編入時は十七歳で二年生だったから、それに比べるとクリスティーナもクリアもかなり幼い。


 一体いくつなんだろう……。

 いや、というか……やっぱりここは『マジカル・ハーツ』の世界なのか!?

 記憶では妹らしき女の子にしつこいくらいに勧められ、嫌々ながら読み進めたら案外面白くて夜通し見てしまったあの小説の中!?


 前世の世界では、転生や転移といったジャンルがメジャーになりつつあったので、俺も面白そうなものがあったら書籍なりネットなりで読んでいたけど。


 まさか自分がその転生? とやらをするとは思わないじゃないか。

 ああいうのは創作の中で楽しみたい派だったんだ俺は。自分に降りかかるとか勘弁して欲しい。


 ということは、転生する前の俺は死んだの?

 そもそも前世に生きた世界の記憶なんてほとんど覚えていないんだけど。

『マジカル・ハーツ』以外で薄ぼんやり思い出せたのは、妹らしき人物だけ。

 前世の自分の名前すら知らない。

 自我的には、むしろこの体のほうがしっくりくる。


 あああ……分からない。

 なぜ転生したとか、前世の記憶を持って生まれたとか、そんなの俺に分かるわけがない。


「飲め」


 目の前にいるクリアをよそに悶々と考え込んでいれば、いきなり口の中に吸い飲みの先っぽを突っ込まれた。

 吸い飲みの取っ手を持ち、俺の後頭部を支えるクリアが水を飲ませてくれる。

 前世云々の思考は一度そこでぶった切られ、俺は水を飲むことに必死になった。


 喉が干上がっていたからありがたい。

 だけどちょっと乱暴過ぎない?

 そんな休憩も無しに飲み口を突っ込まれ続けると苦しいというか、追いつかないというか……あべばぼばばばばば、溺れる。


「ごほっ、ごほっ!!」

「飲み干したな」


 口端から数滴の水はこぼれたものの、なんとか中身をすべて飲み干すことができた。

 結構……いや、かなり苦しかったんだけど。クリアは悪びれる様子もなく自分の手に滴っていた水滴を拭き取っている。


 にしても変な味がしたな、今の水。

 苦いような甘いような、子どもの薬みたいな後味が舌に残っている。


「げほっ……はあ、やっと息が、でけた。……っえ、あれ? おれ、しゃべれてる?」


 喉元を押さえながら何度か咳き込むことしばし、口を開くとたどたどしいながらも言葉がぱっと出た。


「薬が効いたようだな。話せるか話せないか半々だったが……まあまあ話せている。私の言葉は理解できるか?」

「んえ? うん」

「そうか」


 クリアはじっとこちらを観察してくる。

 もうそれ睨んでない? ってくらいに鋭い眼光を浴びせられるので、起きたばかりの俺は簡単に怯んでしまう。


「……あの奴隷商人によれば、お前は別の奴隷商人から譲られた奴隷だと聞いている。語尾の発音からすると、お前は隣国、アドラ皇国から来たのか?」

「……アドラ、こうこく?」


 クリアに問われ、新たに気がついた。

 俺には奴隷になる以前の記憶すらもあまりないということに。


 自分が貴族だったことは覚えている。

 家名も、その時の名前も分からないが、両親の死がきっかけで家が没落し、最終的には義父母に奴隷として売りに出されたことも。


 だが、自分の生まれた場所がそのアドラ皇国とやらなのかは思い出せない。


「……分からないのか。無理もない。主従契約の際あれほど苦痛にもがいていたんだ。記憶の一つや二つ抜け落ちていても不思議じゃない」


 それについてはよく知らんけど、そういうもんなの?

 たしかに今まで見てきた奴隷と主人になる者との主従契約に比べれば、俺のは相当異常だったけど。


 あれはおそらく、前世の記憶を思い出した影響なんじゃないのか?

 前世の記憶で『マジカル・ハーツ』については思い出せたけど、その衝撃で今世の自分のことをほとんど忘れてしまったということ?

 ……ええ。それじゃあまるで記憶の等価交換じゃん。ううん、上手くないな今の例えは。



「アドラ訛りはあるが、言葉を理解できるならばお嬢様もお前との疎通がやりやすいだろう」

「おじょーさま?」


 俺の言葉が妙に舌っ足らずで未熟なのは、奴隷時代にあまり話せていなかったせいだろうか。

 言葉は理解しているのに、口から出すと滑らかさにかけ片言になってしまう。


「そうだ。こちらにいらっしゃるお方が、クリスティーナお嬢様。奴隷であったお前を買ったのは、この方だ」

「……おじょーさま、なぜねる?」


 今のは、なぜ眠っていると言った。


「お前が主従契約で尋常ではないほど苦しみ倒れたからだ。ご自分の責任だと胸を傷め、こうしてお前が目覚めるまで片時も離れようとしなかった」


 ええ、たぶんクリスティーナのせいじゃないのにな。それは申し訳ないことをした。と言っても俺は意識を失っていたからどうすることも出来なかったんだけど。


「……おじょーさま、やさしい。かんしゃ」

「言葉は理解できるとはいえ、やはりお前の話し方はお粗末だな」 


 ありがとう、とお礼を言ったつもりなのだが、なんか違う。クリアにも微妙な顔をされてしまった。

 俺だってこんな間の抜けた話し方は嫌だが、言いたいことと実際に言っていることが合わないのだから仕方がない。


「……んん、クリア……?」


 と、その時。

 クリスティーナが居眠りから目覚めた。


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