第2話 こんにちは閻魔大王
都心にほど近い高層マンションの一室、書斎として設けられたその部屋にはあちらこちらに書類が散乱していた。器用に前足を使って部屋に入ってきた黒猫は、その惨状を見てふさふさの尻尾をしょんぼりと垂らす。
踏みつけてしまわないようにそろりそろりと歩きながら、書類に埋もれる主へとひとつ「ニャアァ」と呼びかけてみた。
「……なんだ、猫みたいな声を出して」
「トートの視力は死んでいるのです? 猫みたいな、ではなく猫です」
「喋れるのだから普通に喋ればいいだろう、鳴くな」
「猫に鳴くなと言うのは生き物に呼吸をするなと言っているのと同じですよ」
散乱した書類の中から顔を覗かせた青年――トートは、長机に飛び乗ってきた黒猫を見て眉根を寄せる。猫に言い負かされる現状に、なんとも不満げだ。
反して黒猫は「ふふん」とでも言うように軽く胸を張り、やや勝ち誇ってから彼の肩にするりと飛び乗る。左肩に上半身を、右肩に下半身を乗せてまるでマフラーのように居座りながら主人の手元にある書類を見下ろした。
「それで、これからどうするのです? 次のご予定は?」
「ふむ……それを考えていたのだ。閻魔のやつめ、ターゲットの名前しか書いていないではないか……」
「うははぁ……この広い人間界で、ターゲットを名前だけで探せと? 相変わらずいい加減な方ですね、閻魔大王は」
「滞在期間は三ヶ月、その間にある程度は片付けねばな……」
トートの手にある書類には、ターゲットと思われる名前しか記載されていない。それ以外の欄は全てが空白だ。
ふう、と疲れたように溜息を吐くとトートは腰掛ける椅子の背もたれに身を預けて寄り掛かった。
「トイフェル、昨夜の件はどうなった?」
「先ほど調べておりましたが、
「そうか、それならいい」
トイフェル――そう呼ばれた黒猫はトートから返る言葉に目を細めた。猫ゆえに表情などないのだが、その様子はまるで微笑ましそうに笑っているようだ。
けれども、そんな時。トートの斜め前に置かれたデスクトップ型パソコンが不意に起動を始め、程なくしてモニターにヒゲ面且つ強面の男が映り込んだ。二十七インチ越えの大画面に映し出される様は、なんとも迫力がある。
しかし、当の男はヒゲ面の顔に陽気な笑みを浮かべ、妙にはしゃいだ様子で声をかけてきた。
「やっほ~! トート元気いいぃ~?」
「勝手に起動するなど、このパソコンは壊れているのか? 一度モニターを破壊して修理した方がよさそうだな」
「あっ、ちょッ! 閻魔泣いちゃうからやめて! モニター破壊してから直すってどんな手間だよ!」
トートが無表情のままにモニターに拳をゴンゴン叩きつけると、ヒゲ面の男は半泣きになりながら慌てて彼を制した。トイフェルはトートの肩を降り、代わりに彼の膝の上に陣取るとおすわりをしながらモニターを見上げる。
「閻魔大王、何用でございますか?」
「何の用だと思う?」
「切るぞ」
「待って待ってお願いします待って!」
モニター越しの、変にキャピキャピしたヒゲ親父に構っていられるほど暇ではない――トートは隠すこともせずに表情を顰めると、パソコンの電源へと片手を伸ばす。正しいシャットダウン方法など守っていられない、今すぐにでもこの画面を消し去ってしまいたい。
しかし、当のキャピキャピした親父――通称キャピ親父はそんなトートを見て、再び大慌てでその行動を止めた。
「じょ、冗談だってぇ。トートは相変わらず冗談が通じないんだからぁ……」
「……」
「こらっ! 無言で切ろうとするな! いや、いやいや本当、冗談なんだって。昨日の晩に送ってもらった人間の魂をこちらでしっかりと処理したから、その報告にな」
ようやく告げられた要件に、トートは静かに一息吐くと再度椅子にもたれ掛かった。片足を組み、膝の上に乗るトイフェルを片手で撫でると、相棒猫はごろごろと喉を鳴らし始める。
――このヒゲ面のキャピ親父は、こう見えても冥界の王――閻魔大王だ。昨晩トートが送った笹川功の魂がどうなったのか、それを報告しに顔を出したのだろう。
しかし、トートは魂の行方になど興味はなかった。彼は自分の仕事をしただけなのだから。
「魂のその後になど興味はない、現世の者たちに悪影響を与えないのならばそれでいい」
「はっはっは、本当に相変わらずだな。まぁ……普段は世界中を忙しなく飛び回っているお前に仕事を頼んだのには理由があるのだ、聞いてくれ」
閻魔から向けられる言葉に、トートは無表情のまま静かに目を伏せる。それは彼なりの肯定だ。トイフェルも、特に止めるようなことはしなかった。
それを確認してから、閻魔は先ほどとは打って変わり真剣な様子で口を開き始める。
「近年、予定外の魂がこちらにやってくることが非常に多くなった。本来はまだまだ生きる予定だった人間が自ら命を絶ち、現世を離れてしまうのだ」
「自殺、というものですね」
「うむ。そこでだ、あまりにもそういった魂が増えてきたものだからお前に……
「……それがこのリストに書かれている者たちだな」
閻魔の言葉を聞きながら、トートは先ほどまで見ていた書類を片手に取り、紙面に目を向けた。相変わらず名前しか記載がないが、そこに並ぶターゲットの名前のひとつひとつを頭に叩き込んでいく。
その先で閻魔大王がどのように裁くのかは、トートの知るところではないし、興味もない。
「……昨日の男に嬲られた少女たちも、奴に出会わなければこれからの人生を謳歌していたのだろうな」
「うむ、ワシはそれが痛ましくてならんのだよ。お前は優秀な死神だ、頼むのならばお前以外にはいないと思ってな」
「分かった、正式に引き受けよう」
トートの返答を聞くなり、モニター越しの閻魔はそれはそれは嬉しそうに厳つい顔を笑みに破顔させた。
* * *
「……ところで、ターゲットの名前以外の情報はないのか?」
「えっ、トートは優秀な死神なんだから名前だけでスパーンババーンと見つけて――」
「トイフェル、切れ」
「はい、トート」
「ちょッ、待って待って待っ――!」
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