5-2. 譲れないもの
救急車輛で颯爽と現れたエリカは、まともに状況説明のできないイライザを赤子ごと回収した。医務室でてきぱきと動く彼女を、隅の長椅子に着席させられたイライザがぼんやりと眺める。数分後、エリカは「残念だけど」と短く告げた。
「あたしは今から火葬場に行くけどさ、あんたはどうする? ここで休んでるかい?」
「行くわ」
イライザは宣言する。掠れたり震えたりするかと危惧したが、出た声は意外にもしっかりとしていた。
「行く。けれど、一つ我が侭を言ってもいいかしら」
「我が侭?」
問い返され、彼女は頷いた。
ベンチに腰かけたイライザは、小魚が中を泳ぐガラス玉をぼんやりと見つめていた。エコスフィアやバランスド・アクアリウムなどと呼称されるそれは、光さえあればそれ一つで全てが完結する小さな世界だ。ここ、海底科学都市が目指した理想型ともいえよう。
それはヒトが滅んで尚、永遠の営みを続けるのだろうか。イライザは新しく首にかけられたペンダントヘッドを左手で弄びながら思考する。光さえあれば。その条件が水深二〇〇メートルの海底では難しい。今は都市に明かりが灯っているが、ヒトが全滅した後の保証はない。こんなところに連れてこられてしまったばかりに、彼らもヒトと運命を共にするのだろう。
静かなドームにがらごろとタイヤの音が響き、イライザは気怠く首を回す。それは数時間前にカフェテリアで聞いたのと似た、スーツケースを転がす音だ。
「まったく、西も東も同じ設計だと聞いてたのに、まさか素材が違うとは知らなかったな」
「えぇそうよ。このご時世にもなって環境保全の意識もないだなんて前時代過ぎるわ。東はいつまで経っても後進国ね」
そんな会話が、次々と違う声で聞こえてくる。ぞろぞろと東から現れては西に消えていく人々の話題は、どうやら素材の話で持ち切りのようだった。
「環境に配慮した素材の方が、多少強度は劣ったところでいいに決まってるじゃないか」
「そうよそうよ。今までだってそれで充分だったじゃない」
「素材の件がリークしてから西の人気が高くて、もうあっちは空きがないらしい。部屋の確保ができてよかった」
イライザはペンダントヘッドをぎゅっと握り締める。
火葬場では我が侭を言った。
本来ならば遺体も全て分解して化学物質として循環させる。そうしなければ、いつかは都市の中で循環している化学物質が枯渇してしまうからだ。それを理解していながら、無理を言って遺灰から人工宝石を作ってもらったのだ。許可するのは医務室ではなく管制室だろう、とエリカには言われた。
この子は、一体何日間生きられたのだろうか。出生日を知らないイライザに、答えは出ない。生まれてくることを純粋に喜べず、亡くなったことに安堵してしまった彼女が悔やむのは、今更なにを、としかいいようがない。それでも、安全よりも環境保護を選んで東から西に大移動していく人々に、彼女に見せつけるように己れの子供の命を容易く奪った建築士に、イライザは思わずにはいられなかった。赤ん坊を犠牲にしてまで守るような価値が、この科学都市に生きる人々にはあったのかと。
西側から現れた人影に、イライザの視線が動く。大小二つのバックパックを背と腹にそれぞれ抱えた二人連れ。並んで歩きながらも会話のない二人は、ピョートルとリコだった。
ピョートルはイライザに気付くと、ばつの悪い顔をする。
「あんた、ここにいたのか。なら……聞いちまったんだな」
彼の問いに、イライザはこくりと一つ頷いた。
聞けば、ここ数日、東から西への転居希望が管制室に殺到していたらしい。化学チームはまだ循環炉の調整でぴりぴりしていたから、全て物理チームの方で対応したそうだ。あまりにも要望が多いものだから、ピョートルやリコなど、西エリアに居室のあった管制室メンバーが東に移動して、西の部屋を空けることにしたのだとか。
説明しながらイライザとは視線を合わせようとしないピョートルの横で、リコはただ俯いていた。近いうちに西エリアは見捨てられることを知っているから、東エリアから西エリアに引っ越していく人に対して罪悪感があるのだろう。それと同時に自分が東エリアに移動できることに安心した。そんな思いがせめぎあっては、どんな表情をしていいかも分からないに違いない。
「切り捨てましょう」
イライザが自分でも驚くくらい、高くて澄んだ声が出た。
「耐久性よりも環境を選んだ人たちが西エリアに集まったんでしょう? ならば西エリアが崩れても文句はないはずだわ。だから、もし西エリアが崩落するのならば切り捨てましょう。私たちには、他エリアを守る責務がある」
静かに宣告するイライザを、ピョートルは悲しげな瞳で見つめていた。
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