伴侶

第三十一話 初春の事件

― 西暦2012年 年初


― 大都市ロリミエ




 再び年が明け、ロリミエの街にも遅い春がそろそろやってきます。私は後期が始まり、大学院生生活もあと数か月となりました。ロリミエの街はまだまだ雪深いと言うのにマテオはもう夏のヴァカンスの話をしています。


「キャス、君が卒業する今年の夏こそは一緒に旅行しような」


「そのためには私、ちゃんと卒業して就職しないといけないわね」


「そうしたら君の予定が合う限り、出張にも連れて行くからな。セイ ダコルド?」


「それは公私混同じゃないの?」


「展覧会なんかだったらパートナー同伴の人間は多いから」


「私が就職してからでしょう? まだまだ先の事じゃない、マテオ」


「成り行きで研修先にそのまま就職したりするなよ。とりあえず七月の後半の二週間は空けておいてくれ」


 七月後半と言えばマテオの誕生日です。彼の誕生日を旅行先で二人きりで祝えるのです。


「行き先はもう考えているの?」


「ああ。俺達が会って二年になる記念に、思い出の地を訪ねないか? サンダミエンの別荘でゆっくりして、それからボードゥローも」


「まあ素敵!」


 マテオは意外とそんな記念日や思い出を大事にする人でした。


「君が実家にも寄りたいならもちろん連れて行くよ。就職前の親孝行だ、ご両親もお兄さんも喜ぶんじゃないか?」


「ありがとう、マテオ」


「ということで、卒業してもすぐに就職するなよ。働き始めるのは八月、いや九月からでもいいくらいだ」


「いつ就職するにしても、七月後半は絶対に貴方と一緒に旅行に行くわ。約束します」




 昨年もそうでしたが、雪が解け始めるとマテオはそわそわしながら自転車の整備を始めます。郊外でロードバイクに乗ることは彼の生活の一部となっているのです。


「暖かいイタリア南部と違って、ヴェルテュイユでは自転車に乗れない期間が長いからな」


 冬の間もマテオは外に走りに行ったり、スキーをしたりと運動を欠かすことはありません。ゴルフは接待目的でたしなんでいるようですが、自転車は純粋に趣味として楽しんでいるのです。


 それでもその年、マテオは自転車を出すのがあまりに早過ぎたのがあだになりました。今でも私はその当時のことを思い出すと身震いが止まらなくなります。


 それは忘れもしない四月始めの日曜日のことでした。まだまだロリミエは肌寒かったその日、マテオは自転車でその季節初めて長距離の外出に出掛けました。


 彼は午後遅くにならないと帰って来ないし、もしかしたら自転車仲間とそのまま飲みに行くことも考えられました。ですから私はその週の始めはマテオのマンションではなく叔父の家に居ることに決めていました。


 いつもなら彼は外出から帰宅したらメールか電話をくれます。


 日曜日の夜はきっと遅くなるのだろうと不審に思いませんでした。翌朝早く出ないといけない私は彼の連絡を待たずに寝てしまったのです。


 月曜日の朝もまだマテオは深夜に帰ったのだろうと疑ってはいませんでした。不安になりだしたのは月曜日の夜でした。私のメールにも返事がなく、電話しても繋がらなくて、留守番電話もいっぱいで、伝言も残せません。


 マテオと交際を初めてから、丸一日以上連絡が取れなかったことはまずありませんでした。彼が外国に行く時でさえ、一日に一回は絶対にメールか電話があったのです。


 火曜日の朝、大学に行く前に私は居ても立っても居られず、マテオのマンションに行きました。そこには誰も居ず、彼が帰ってきた兆候も気配も見られません。冷蔵庫の中は日曜日に私が彼を送り出した時の状態のままでした。私は目の前が真っ暗になり、立っていられませんでした。


「キャス、落ち着くのよ。マテオはきっと実家に戻っているのだわ……」


 フォルリーニ家の電話番号を私は知りませんので連絡のしようがありませんでした。


 震える手で携帯電話を取り、ナンシーに電話してみました。彼女の電話が留守番電話に切り替わったので、呂律ろれつの回らない、まとまりのない伝言を残しました。


 よく考えてみると彼女は今イタリアに帰省中で、帰ってくるのは二週間ほど先のことでした。頼みの綱であるナンシーも居ないという状況に置かれ、私は最悪の事態を考えないように大きく深呼吸をしました。今の私には何も出来ることはありません。


 のろのろと立ち上がり鞄を掴み、大学へ行こうとした時にマンションの扉が開く音がしました。


「マテオ! 帰ってきたの?」


 私は玄関までつまずきそうになりながら走りました。


「まあ、カサンドラさん!」


 ラモナさんでした。彼女の表情から私は悪いニュースを知らされるのだと、悟りました。


「ラモナさん、マテオに何があったのですか?」


「私も詳しくは存じませんが……何でも自転車で事故に遭われて、入院されているとのことです」


「ど、どこの病院ですか? 彼の容態は?」


「そ、それは……」


「病院だけでも教えて。お願いよ、ラモナさん!」


 私は必死で彼女に訴えていました。


「私も本当に知らないのです。主人の電話番号をご存知ですか?」


「え、ええ! 今すぐ電話してみてもいいでしょうか?」


 運転手のレナトさんならマテオのご両親を車で病院に送り迎えしているに違いありません。フォルリーニの両親に長らく仕えている彼が教えてくれるかどうか分かりませんでした。けれど他に手だてはありません。


「レナトさん、貴方がいつ何処に誰を送り迎えしたか、他人の私に言ってはいけないのは重々承知しています。けれどマテオの大事で……私、会いに行かないといけないのです。どの病院か教えてもらえますか?」


 レナトさんに電話した私は声が震えていました。泣きださないように、努めて冷静に聞こえるようにゆっくりと一言一言区切って発音しました。


「カサンドラお嬢様のお気持ちは良く分かります……」


「私……」


 永遠とも思えた沈黙の後、レナトさんはやっと口を開いてくれました。


「今朝のブロム山は霧が深かったです」


 私はその言葉に涙をこぼしていました。


「ありがとうございます、レナトさん。この会話のことは誰にも言いません」


 私はその後、ある人に電話を掛け、残念ながら留守番電話だったので伝言を残しました。


 ラモナさんも何か分かったら教えてくれると約束してくれました。そして彼女に見送られ、私はしょうがなく遅れて大学に向かいました。定刻だろうが遅刻だろうが、何も頭に入って来ないのは分かっていました。


 レナトさんの言葉から、マテオが入院している病院は分かりました。しかし、病院に電話しても家族でもない私に彼の部屋がどこか教えてもらえるはずがありませんでした。


 どこの病院でも基本的に一般病室棟は誰でも出入り出来るようになっていますが、大病院の中をしらみつぶしに探し回るわけにもいきません。もし、重体で集中治療室に居るのなら他人の私は入れないでしょう。


 分かっていたことですが、講義はほとんど耳に入らずじまいでした。昼休み中に携帯が鳴り、私は震える手で通話ボタンを押しました。


「キャス、大事な用件って何があったの?」


「クレール、電話ありがとう」


 私は大きく深呼吸をしました。


「かけ直すのが遅くなってごめんなさいね」


「いえ、仕事中なのでしょう? マテオが事故でロリミエ総合病院に入院中らしいの。ご実家とも連絡がつかないから、彼の病室がどこか教えてもらえないかしら? クレール、もちろん無理を言っているのは承知の上なのよ。でも貴女に頼るしかなくて……」


「……」


 クレールが黙り込んでしまうのも当然です。彼女は薬剤師として、病院の職員として順守すべき守秘義務と倫理規定があるのです。


「日曜日の夜からマテオと連絡が取れなくなったの。か、彼に意識があるなら私に連絡してくれるはず、だと思うのに……わ、私……彼がどんな状態だったとしても居場所を知らないといけないの!」


 泣き出すのを辛うじて堪えました。


「フルネームはマテオ・フォルリーニね。彼の保険証番号は分かる? でなければ生年月日を教えて」


 生年月日はもちろんのこと、彼の保険証番号もいざと言う時のために書き留めていたのをクレールに伝えました。


「キャス、今から病院に来られるかしら? 中央病棟一階の薬局よ」


「ええ、三十分で着くわ。ありがとう、クレール」




***今話の一言***

セイ ダコルド?

いいですか? 賛成ですか?


はい、題名通り事件発生です。マテオが運ばれたのがマンションのお隣さんで友人であるクレールの勤める病院だったのです。マテオの安否は如何に?

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