シークレットトラック
桃本もも
Track1
「あんた、もう少しで死にそうだね」
老いてやせ細った私の前に現れた神さまは、開口一番こう言った。
そんなこと、人さまに……いや、神さまに言われなくたってわかってる。何しろ、自分の身のことだ。ちょうど、今日は一段と体調が優れないなと思っていた。これまで生きてきた中でいちばんしんどいのだから、そりゃあそろそろくたばるんだろうな、と納得してしまう。
死にかけのうさぎのところには、神さまがやって来る。
そんなうわさを聞いたのはずいぶん昔……それこそ「死」からは程遠い、若かりし頃のことだった。「死」なんて空想上のできごとだと思っていたあのころは無敵だった。神さまの存在など、信じなかった。信じる必要がなかった。
しかし今、向かうところ敵の懐、といった状況の私の前には、ひとりの神さま。
細い体躯に白くてひらひらした衣を纏い、袖からは肉球のないふさふさの手がのぞいている。上半身はほんのり光る靄に包まれている上、頭の後ろには太陽のような光の球が輝いているため、まぶしくてまともに見ていられない。薄目でまつ毛の隙間から見上げてみる。光の塊によって、靄には頭のかたちの影が投影されていた。長い耳、ふっくらとした頬、ぴんと勢いのある立派なひげ。風もないのに靄はゆったりと流動しており、ときおり影の輪郭がゆらめいた。
神さまは、ほとんど影しか見えないが、うさぎと似た姿をしていた。神さまの容姿など想像したこともなかったが、天上人が地べたを跳ねるしかないうさぎとこれほどまでに似ていていいのだろうか。
私との違いなど、四本足で立っているか、二本足で直立しているかという点と、しゃべれるか否かという点しかない。それとも、私たち地上のうさぎは、このうさぎの神さまありきでこの姿になったのだろうか。
ひとりでこんがらがっている私をよそに、神さまは饒舌に語りかけてきた。もくもくと頬がうごめいている。
「いいや、『死にそう』と言うと、ちと語弊がある。厳密に言えば、あんたは今、死んでもいなければ生きてもいない。例えるなら、CDの最後の曲が終わったあとの空白部分のようなものさ。つづきはないけど、終わってもいない。まあ、まれに隠しトラックという、おまけのようなものが収録されていることもあるが、必ずあるわけじゃない。あるとも限らないものを期待するのは怠け者か冒険者のすることだ。生死の境にいるあんたの仕事じゃない」
いまいち、神さまが何を言いたいのかわからない。私は今、死んでもいなければ、生きてもいない? それならなぜ、私はまだ自分の足で立って、鼻をひくひくさせて呼吸をつづけていられるのだ。
私の心の中で生まれた疑問が、その辺に漂っているかのように、神さまは指を揺らしながら言う。
「そう、そこ。気になるじゃろ? なぜあんたがまだ生きているのと同じ状態でいるのかというと、わしがCDの空白部分を引き伸ばしてやっているからだ。わしがここにいる間だけの、特別措置じゃ。しかし、延長するにしても限度はある。わしがどんなにがんばっても、あんたは1時間以内に死ぬ」
CDというものの話はよくわからなかったが、とりあえず、私はそろそろ死ぬらしい、ということはよくわかった。
……死ぬのか。しかも、あと1時間で。
仕方のないことだ。私はすでに、「天寿をまっとうした」と言えるほどの長生きをした。8年から10年といううさぎの平均寿命はとうに超えている。いつ死んだっておかしくないと思うようになったのは、最近のことではない。きっと今日が私の寿命なのだ。だれにも変えられない、運命というやつなのだろう。
「ほれ、死んでもいいのか? 簡単に死を受け入れていいのか? この世に残して死ぬのが、死ぬほど惜しいくらい、大切な人がいるんじゃないか?」
神さまはしゃらしゃらと降り注ぐ光を浴びながら、鋭い爪で私を指さしてくる。神さまの言葉にたぐり寄せられるように、大事な人の顔が心の水面に浮かび上がってきた。その顔がやさしげに笑い、「さくら」と私を呼ぶところまで容易に思い出せる。
つぐみちゃん。
私の飼い主だ。彼女が小学5年生のころに、私はこの家にやって来た。出会いから10年あまりの時が経ち、幼かったつぐみちゃんは成人を迎え、学校じゃなくて仕事に行くようになった。小さかった私はミニウサギの名に背くことなく小さいままで、しかし筋肉は衰え、目は霞み、年齢を感じざるを得ない日々を送っている。
人間とうさぎ。過ごしてきた時間は同じだというのに、老いるスピードが違いすぎる。
ごはんをたくさん食べれば、身体に肉がつく。それと同じように、時間をたくさん取り入れれば、身体が老いてゆくのではないかと、私は考えている。恐らく、うさぎは人間よりも時間を吸収しやすい体質なのだ。だから、うさぎは人間の数倍の速さで衰えてしまうのだ。
時間を吸収しすぎた私はもうすぐ死ぬが、まだまだ若いつぐみちゃんはこれからも生きていく。邪魔するものや阻むものがなければ、あと60年くらいは人生がつづいていく。
80年のつぐみちゃんの人生のうち、私が関われたのはたったの13年。6分の1しかない。彼女にとって、私はその程度の存在になってしまう。
だけど、私にとってはつぐみちゃんがすべてなのだ。私の十数年間は、つぐみちゃんのためにあったといっても過言ではない。共に成長してきたきょうだいであり、苦楽を分かちあった仲間であり、言葉はなくとも通じあった恋人でもあった。
つぐみちゃんにとって、これから先、私の存在はどんどん小さくなっていく。しかし、私の中でつぐみちゃんの存在は、私が死ぬまで大きくなりつづける。
まだ死にたくない。
つぐみちゃんの悲しみを、可能な限り遅らせてあげたいからじゃない。
私が、できるだけ長くつぐみちゃんの側にいたいから。つぐみちゃんの心の中で、少しでも大きな居場所を占有したいから。
だから、まだ死にたくない。私の最後のわがままだ。
頭の中で考えるだけで、神さまには伝わってしまうらしい。そして、耳を傾けなくても、神さまの声はするすると耳に入ってくる。
「あんたの望みは承知した。少しでもいいから延命したい、と。そういうことだね」
私は思考が筒抜けであることを思い知り、恥じ入りながらうなずいた。自分勝手で夢見がちな老いぼれだと思われなかっただろうか。神さまだから、おおらかな心で受け止めてくれるだろうか。
「あんたの命を長らえさせるのは簡単さ。1日1個、人間の不幸を食べてやる。ただそれだけさ」
人間の不幸を、食べる?
「人間が抱える不幸は、青い滴になって小指の先からにじみ出る。それを舐めとってやることで、あんたの命が1日延びるのさ」
小指から青い滴が……? そんな光景は見たことがない。つぐみちゃんは不幸ではないということだろうか。
「わしと延命契約を結べば、あんたにも青い滴が見えるようになる。大きさはさまざまだが、だれでも何かしら不幸を抱いているものだ。その滴を、日が昇っている間に一度舐めると、その夜をまたいで次の日の日暮れまで延命される。生きながらえると言っても、CDの最後の空白部分のような、つづきはないけど終わっていない、宙ぶらりんの時間が延びるだけと思ってほしい。その延びた時間、日が暮れるまでに、またひとつ滴を舐めないといかんぞ。1日でも滴を体内に取り入れないと、日が沈みきったのと同時にCDは終わる。……あんたは死んでしまう」
つまり、つぐみちゃんの不幸が私の1日分の命になるということか。つぐみちゃんの不幸がひとつ消え、私は1日生き延びられる。一切の無駄がない、素晴らしいシステムではないか。
もちろん、契約するに決まっている。
私の宣誓を受け入れてくれたらしい。神さまは私の額に手のひらを翳してきた。その瞬間、ぱっと目の裏に火花が散った。これが契約の儀式なのだろうか。目がチカチカする以外、身体には何の異変もない。後ろ足は抑えようのない震えに苛まれているし、目が元に戻っても視界は霞んでいるはずだ。
「これで、あんたの寿命は明日の日暮れまで先送りされた。さっきも言った通り、明日の日が沈むまでに不幸をひとつ舐めなければ、次の日の出は拝めないぞ。ちなみに、延命する回数に上限はない。運がよければ1年でも5年でも、10年でも生き延びられる」
滔々と語っていた神さまは、不意に首の角度を変え、左の手首を持ち上げた。それはまるで人間が腕時計を見る仕草に似ていたのだが、神さまの腕に時計は巻かれていない。何もない手首を、もう一方の指で叩いている。
「おっと、あんたとばかり話している暇はないんだった。他にも行く宛がたーんとあるんじゃ」
顔が見えないから、まじめなのかふざけているのかわからない。私たちうさぎの原型が神さまなのだとしたら、彼も表情に乏しいだろうから、顔が見えても分からないかもしれない。
「……さて、運命を無理やり捻じ曲げて、あんたはどれだけ生きるつもりだい?」
神さまはそう言い残し、光が弾けるように消えてしまった。その光を浴びた途端、身体の苦痛が少しだけ溶けて、心が軽くなったような気がした。
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