第1話
噂には聞いていた。合格通知の場合は重さが違うと。それはずっしりと分厚い封筒だった。
――猿川和馬殿。あなたは入学者選抜試験に下記の通り合格しましたので、通知します。
伝統と歴史ある倶利伽羅大学の印鑑が、誇らしく輝いていた。おれは訝しげな目で、何度も何度もその紙を眺めた。
信じられないことにおれは、世界に轟く偉大な大学に合格した。
おれが倶利伽羅を目指したのは、高一の夏休みのある出来事がきっかけだった。海外を飛び回っている伯父さんが、突然二人の子供を家に連れてきたのだ。おれと同い年だという少年と少女は、日本人離れした雰囲気をまとっていた。くっきりとした目鼻立ち、薄い色素、鮮やかなブラウンの髪。二人とも、精巧に作られた彫刻のように美しかった。メガネくらいしか特徴のない平凡なおれとは、違う生き物だった。
おれの実家は地方の片田舎にある、馬鹿でかい一軒家だった。家の前が田んぼで、横が畑。最寄りのコンビニは二キロ先という立地だが、家の広さだけはどこにも負けなかった。二人子供が増えたところで、スペース的には何の問題もないが、重要なのはそこではなかった。
親父と伯父さんの仲は、決定的に悪かった。それなのに、久しぶりに実家へ帰ってきたかと思えば、見ず知らずの子供を二人もあずかってくれという。親父が怒るのも当然だった。客間から聞こえる怒鳴り声と弁明によると、どうやら二人は伯父さんの子供というわけではないらしい。預かる期間も決まっていないらしく、それが親父をより一層苛立たせた。
伯父さんは、猿川家の中で異端な存在だった。親父と伯父さんの仲が悪いのは、簡単に言えば、両者の関係がトンビと鷹だったからだ。いや、鷹ならまだマシだったのかもしれない。伯父さんはその希少さでいえば、鳳凰に比肩するほどだった。
幼少期から様々な伝説を残し、町で知らない者はいないほど、伯父さんは有名だった。だが、そういった神童と呼ばれる子供も、どこかで普通の人になってしまうものだ。小さな町の中でトップであっても、日本や世界という枠で見れば――。井の中の蛙大海を知らず、というやつだ。
しかしながら、伯父さんの進撃は止まることはなかった。世界の果てまで見渡しても伯父さんの才能は、トップオブトップと呼ぶにふさわしいものだった。
子供にしては高すぎる身長。大人顔負けの体力。伯父さんがまず注目を浴びたのは、少年野球だった。地元の弱小チームを実質一人で全国大会ベスト4に導くと、小さな田舎町に取材陣が殺到した。将来的には巨人に入り、ゆくゆくはメジャーを目指します。堂々とカメラの前で宣言する姿は、当時から大物感を漂わせていた。
メディアから一通りの取材を受けた後、伯父さんを待っていたのは、野球名門校のスカウト達だった。酒が入ると、親父はよくその時のことを愚痴った。
大の大人が、中学生の子供に頭をペコペコと下げる。それも何人も何人も。傍から見ていても、それは異様な光景だったそうだ。伯父さんも、祖父も祖母も、様子がおかしくなっていたらしい。夕食の話題は、いつも生々しいお金の話だった。ただそれも、しょうがないことだったのかもしれない。猿川家は当時、一般的な水準から比べると、かなり困窮した状態だった。
このチャンスを逃す手はない。そう浮足立っていた彼らを最後に説得したのは、列の最後で待っていた、スーツ姿の男だった。親父は愚痴の最後にいつも同じことを言う。野球の道を選ぶべきだった、と。
スーツ姿の男は、倶利伽羅大学の関係者だった。男は言った。
――倶利伽羅の中等部に編入しませんか。
実はこの時、伯父さんはもう一つの快挙を成し遂げていた。全国統一テストで、全国二位の成績を収めたのだ。倶利伽羅は伯父さんの才能を見込み、野球ではなく学問の道に勧誘したのだった。
そこでどんな交渉が繰り広げられたのかは分からない。最終的に、伯父さんは倶利伽羅を選んだ。そして一か月もしないうちに、猿川家を離れて倶利伽羅に行ってしまった。半年ほど経つと、今度は倶利伽羅の関係者が業者を連れて家を訪ねて来た。そうして建ったのが、今おれが住んでいる、町で一番大きいこの家というわけだ。
貧乏から脱出して、幸せな生活が待っている。親父はそう思っていたらしい。ただ現実は、そう単純な話ではなかった。
伯父さんがいなくなってからというもの、猿川家にはぽっかりと穴があいてしまった。祖父や祖母にとって、伯父さんは文字通り宝だった。貧乏な生活の中で、一筋の光であり救いだった。引き換えに手に入れた大きな家も、肝心の息子がいなくなってしまえば、ただのむなしい箱にすぎなかった。祖父は仕事に身が入らなくなり、祖母とのいさかいが絶えなくなった。親父には過度なプレッシャーがかけられ、その後に残ったのは、あきらめの冷たい眼差しだった。家族の不和は、祖父と祖母が死ぬまで続いた。
伯父さんは、二人が死ぬまで一度も猿川家に寄りつかなかったそうだ。祖父が仕事で大きなケガをした時も、祖母が大病を患った時も、見舞いに来なかった。祖父が死んだ半年後に、祖母も後を追うようにこの世を去った。結局親父と伯父さんが再会したのは、祖母の四十九日だった。伯父さんが猿川家を去ってから、二十五年の月日が経っていた。親族の前で大喧嘩が繰り広げられたのも、しょうがないことだった。あれから三年。伯父さんは急に二人の子供を連れてきた。嵐が吹き荒れるのは当然だった。
優秀すぎる兄と比べられ、貧乏くじを引き続けた親父には同情する。だが正直なところ、おれは伯父さんに憧れていた。田舎で中古車を販売するより、高級スーツに身を包んで海外を飛び回っている方が、当時のおれにはカッコよく見えたのだ。
ただ伯父さんは、あまりに自由奔放すぎた。天上天下唯我独尊。優秀すぎる弊害なのか、共感性は著しく低かった。天才の気まぐれでとばっちりを受けるのは、いつだって親父のような凡人だ。
話し合いが平行線をたどる中、おれは客間を離れて台所に向かった。おれが住む町は、とにかく暑いことで有名だった。その日も真夏日で、動かなくても汗が噴き出すほどだった。
アイスクリームを取りに行くと、少年と少女が肩を寄せ合って、不安そうに下を向いていた。おれは少し迷ったが、思い切って声をかけてみることにした。
「暑いでしょ。大丈夫?」
少女は俯いたままだったが、少年の方はこちらを見た。
「もしよかったら、アイスクリーム食べる?」
少年は嬉しそうに頷いた。
「瀬戸熊巧といいます。この子は、鷹野玲香です」
二人とも、礼儀正しい子供だった。
「あのさ。どうして家に来ることになったんだ?」
おれはアイスクリームを舐めながら聞いた。
「それは……」
瀬戸熊は言葉を濁した。玲香は俯いたまま、バツの悪そうな顔をした。名字が違うということは二人に血縁関係はないということだ。おれは子供ながらに、彼らの複雑な家庭の事情を察した。
「ごめん。変なことを聞いて」
「いいんです。こちらが悪いんです」
玲香が謝った。小さくてか細い、不安がたっぷりと込められた声だった。
「何かどうしようもない事情があるんだろうし、おれがどうこう言うことじゃないよな」
「もしこの家も断られたら……」
瀬戸熊の表情が曇った。おれは何もなくなった木の棒を舐めながらいった。
「問題ないと思うよ。今回も多分、親父の負けだろうから」
おれは初めて伯父さんに会った日のことを思い出していた。祖母の四十九日のあの日。親族が集まって会食をしていると、伯父さんがふらりと姿をあらわした。はじめは、伯父さんへの非難の嵐が吹き荒れた。祖母の最後の願いは、愛する長男に一目でいいから会いたいという、ささやかなものだった。なぜ今さら。どの面さげてきたんだ。親父だけでなく、親族一同が伯父さんの敵だった。
いたたまれなくなったおれは、二階の自分の部屋に戻った。三十分ほど経つと、次第に下の階から声が聞こえなくなった。どんなマジックを使ったのか分からないが、伯父さんは親族を味方につけていた。最後まで親父は抵抗していたが、完全に形勢は逆転していた。
どんな詐欺師も敵わないほど、伯父さんは口が上手い。今回の騒動も、結局おれの予想通りになった。言い争いに敗北した親父は、渋々二人の子供を預かることを了承した。
こうして、おれにとって忘れられない夏休みが幕を開けた。二人とも、最初はとても大人しかった。怯えていると言った方が、正しかったのかもしれない。彼らはいつも、部屋の隅っこで小さくまるまっていた。無理に距離を詰めるのも悪いと思い、しばらくおれは放置していた。
異常性に気が付いたのは、一週間ほど経ったころだ。おれがゲームをやっていると、瀬戸熊がとことこと近づいて、話しかけてきた。
「それ……面白い?」
多分何かきっかけを作りたかったのだろう。おれの機嫌を探るような声だった。
「うん。かなり」
「そうなんだ……」
あからさまな態度を無下にすることはできなかった。
「やってみる?」
瀬戸熊は嬉しそうな顔で頷いた。
「すごいな。存在は知ってたけど、初めてプレイするよ」
「このゲームは、FPSの中でもかなり人気だよ」
「FPS?」
「知らない?本人視点のシューティングゲームのことだけど」
「というか、ゲーム自体やるのがはじめてなんだ」
「……まじ?」
嘘ではなかった。コントローラーの持ち方すら、瀬戸熊は知らなかった。一つ一つのボタンの役割から、おれはレクチャーしなければならなかった。
おれたちは初めから気が合った。キャンプ、バーべーキュー、海水浴。そういったアクティブな遊びは好きではなかった。エアコンがしっかり効いている中で、ポテトチップスを食べながらのんびりとゲームをするほうが、性に合っていた。
プレイを始めた初日。瀬戸熊は負けに負けた。おれはもちろん、オンラインの初心者が相手でもなかなか勝てなかった。事情が変わったのは二日目だった。徐々に上手くなっているなとは思ってはいたが、夕方にはまったく歯がたたないほど瀬戸熊は上達していた。三日目には、上級者にも勝ちまくり、ランキングはうなぎのぼりに上昇していった。
おれは生まれて初めて、才能というものに触れた。おれと瀬戸熊が似ているのは性格だけで、能力はまるで違っていた。
いつ寝ているのか心配になるほど、瀬戸熊の部屋の灯りが消えることはなかった。何十時間もぶっ通しでプレイを続け、食事とトイレ以外で席を離れることはなかった。おれや両親はその異常ぶりにすぐに気が付いたが、特に何か言うことはなかった。伯父さんからあらかじめ、予告されていたからだ。
『二人は特殊です。理解できないことも多いでしょうが、迷惑を掛けることは決してありません。放っておけば良いです』
まるで珍獣の取り扱い説明のようだった。伯父さんはその言葉とともに、限度額無制限のクレジットカードを親父に渡していた。二人が望むものは全て買い与えるという約束だった。プロゲーマーも顔負けの最新機器に囲まれ、瀬戸熊はどんどんゲームの世界にのめり込んでいった。
もう一つ瀬戸熊がはまったのは、アニメだった。おれがたまたま見ていたバキのアニメに、瀬戸熊が反応した。なんと瀬戸熊はドラゴンボールも、スラムダンクも、ワンピースもドラえもんも、サザエさんもコナンもクレヨンしんちゃんも、知らなかった。一体どういう人生を歩むと、アニメに触れずに生きてこられるのか、おれは不思議でしょうがなかった。
スイッチが入ったあとは、ゲームの時と同じだった。一晩のうちにバキシリーズを見終えた瀬戸熊は、ブレーキが効かなくなっていた。伯父さんのクレジットカードで購入した四つのモニターで、アニメを朝から晩まで見続けた。瀬戸熊の特異な所は、四つのアニメを同時に見ることができる点だ。まるで頭の中に、最新式のマルチコアが入っているようだった。
集中力と持続力。この二つが瀬戸熊はずば抜けていた。どんなに好きなことでも――それがゲームやアニメであっても、おれには到底真似できない。やっていることは引きこもりのオタクそのものだが、こなしている量と質は、一流のアスリートも顔負けだった。
瀬戸熊が寝る間を惜しんでコナンを見ているころ、おれは玲香と話す機会に遭遇した。一か月も同じ屋根の下で生活していながら、おれと玲香の距離は少しも縮まっていなかった。思春期真っ只中の田舎の少年に、無口な玲香はハードルが高すぎた。彼女はいつも自分の部屋にこもっていたので、物理的に接点があまりなかった。
それは寝苦しい夜のことだった。浅い眠りが続いていたおれは、一階に降りて麦茶を飲もうとした。そこでばったりと、玲香に会った。彼女も同じ状況だったのか、グラスに麦茶を注いでいるところだった。
「……飲みますか?」
彼女はおれにグラスを渡した。
「ありがとう」
当たり前の返事をするのに、おれはずいぶんと緊張した。
おれはきっかけが欲しかった。急に一緒に暮らすことになった同い年の女の子。仲良くなりたいと思うのは当然だ。当然だろう。当然に違いない。
「玲香さんは、いつも何してるの?部屋にこもってるみたいだけど」
「忠人さんがくれたタブレットで、本を読んでます」
忠人というのは、伯父さんの名前である。呼び方を聞く限り、本当に伯父さんの隠し子ではないようだ。
「ああ、あれね。瀬戸熊も貰ってたな。あいつのはもっぱら、漫画専門みたいだけど」
玲香がフフッと笑った。笑顔を見たのは、初めてのような気がする。
「彼らしいわ」
「自分の欲望に忠実というか。あの集中力はすごいよ。玲香さんは、ずっと本を読んでいて、飽きないの?」
「本は好きだから飽きないけれど……さすがに少し退屈かな」
玲香は物憂げな表情で答えた。おれは瀬戸熊とばかり遊んでいた自分を恥じた。彼女も慣れない土地に来て、辛いはずなのに――なぜ今まで気づかなかったのだろう。ここは思い切って距離を詰めるのが、優しさというものだろう。
「良かったら、なんだけど。明日、どこか遊びに行かない?」
「え?」
「もちろん、瀬戸熊も一緒に」
玲香はグラスを置いて、おれの目をまっすぐ見た。あまりにもきれいな瞳に、吸い込まれそうになった。
「行きたい」
たった四文字の言葉が、おれの心拍数を倍にした。
誘ったものの、具体的なプランがあるわけではなかった。おれの眠気は完全に吹き飛んでいた。一晩中、どこかいい場所はないかと調べはしたものの、どれも決め手に欠ける気がした。
責任を一人で負いたくなかったおれは、瀬戸熊を叩き起こした。
「何でぼくに聞くんだよ」
瀬戸熊が眠たそうな眼をこすりながらいった。
「玲香さんとの付き合いは、おれより長いだろ?」
「そんなことないよ。和馬の家に来るほんの少し前に、知り合ったんだから」
「そうなのか?おれはてっきり……」
「なんだよ」
おれはその後の言葉を飲み込んだ。名字は違うけれど、おれは二人に特別な関係があると思っていた。どことなく、似た匂いを感じていたからだ。精巧な顔の造形、まとっている雰囲気。のめり込む集中力。そして、おれにはない落ち着きと頭の良さ。共通点はいくつもあった。
「そうか。彼女のことは何も知らないのか……」
「そういうこと。じゃあな」
眠りにつこうとする瀬戸熊におれは泣きついた。
「いやいや待ってくれ。一緒に考えてくれよ」
「明日も忙しいんだ。コナンにスラムダンクに――」
「そんなこと言うなよ。じゃあ何でもいいから、候補を教えてくれ」
「候補?」
「最初のデートにふさわしい場所だよ」
瀬戸熊は観念したのか、身体を起こしておれにいった。
「だから、何でぼくに聞くんだよ」
「しょうがないだろ。他に聞く奴がいないんだから」
「……経験がないから分からない」
「嘘つくなよ。その顔で、モテないわけがないだろう」
「本当だよ。残念ながら、そういう普通の学生生活には、縁がないんだ」
瀬戸熊は、時折こちらが驚くほど、寂し気な表情を見せるときがある。一体どんな人生を歩んできたのだろうか――。
「そっか……」
「悪いな。今度、アニメで勉強しておくよ」
「はあ……」
おれより経験値が浅いとは。深いため息をつきながら部屋を出ようとすると、後ろからあっという声がした。
「そんなに悩むくらいなら、向こうに決めてもらえばいいんじゃないか?」
おれの目からうろこが落ちた。
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