第47話『這い寄る音』

 ドタドタと音を立てて、まずは利部が廊下の向こうから走ってくる。その顔は真っ青で人の死体でも見たような顔だった。その後に早島が頭を押さえてやってくる。

 俺は利部よりもやってきた早島の姿に驚く。

 早島の顔には青い蔦が絡まっているのだから。

 俺はぎょっとして動けないでいるが、貴水は大して驚く様子もなく「どうしたの、血相変えて」と問う。

 利部は貴水の前まで来ると利部はぜえぜえと息を吐きながら「な、何か、今、上から何か、よくわからなくって、でも……何か落ちてきて」としどろもどろという様子で話す。

「落ちてきたって何が? 天井が? 電灯が?」

 貴水がそう問うと早島は「わかんねえよ! 見えなかった!」と怒鳴る。

「何かわからなかったけど、急に頭の上から何かが凄い勢いでぶつかって……俺はその場に倒れたんだけど、その後急に壁がべこって凹んで……ホントまじ意味わかんねえって!」

 早島は捲し立てる様に叫ぶ。

 一体何が起こったのか。いや、わかる。

 利部と早島はこの家屋に巣食う『何か』に襲われたのだ。俺の腕の毛穴が総毛立つ。

「い、今すぐ此処を、出よう」

 俺は自分の声が震えているのを自覚しながらも何とか彼らに提案する。俺の声に利部と早島は頷き、そうすべきだ、と同意してくれる。

 だけど。


「でも、三留と雲野がまだだ。もう少し待とう。二人を置いていけないよ」


 貴水がそう言い放つ。

 その一言に俺もそうだけど、利部と早島の動きが鈍る。

 置き去りにするのか? まるでそんなことを言われれば足が重くなるものだ。

 取り乱す俺たちとは裏腹に貴水は落ち着き払っていた。この冷静さには正直引くものがある。

『見えていない』ヤツも『見えている』俺もこの状況に震え上がっているのに、どうしてコイツはこんなにも冷静でいられるのか。

 俺と利部と早島は貴水の言葉に顔を見合わせる。

 この場は急いで逃げることが最善であることは、まるで帯電しているかのようなビリビリとした違和感が訴えかける。だけど同時に、あとの二人を置き去りにすることは自分達の良心に反する行為であることも痛いほどわかっていた。

 どうしたら良い、どうしたら良い?!

 俺たちはこの恐ろしい状況に自分の答えが出すことができず、この場にいる『誰か』の強い主張を待つばかりなのだ。

 数秒、互いの顔をきょろきょろと見回し困惑していると、ついさっき利部と早島が走ってきた廊下の奥で「うわあ!」と叫び声が聞こえてくる。

 声の響き方で少し距離があるのはわかったが、それが三留の声だとわかった。

 あっちでも何かあった……!

 必死さが溢れる悲鳴に俺たちの血の気は更に引く。俺たちは皆今にも死にそうな顔でただ息を殺して耳を澄ませる。

 三留の声は奥から断続的に聞こえてくる。

 言葉になっていない短い悲鳴のような声が何度も何度も聞こえて、そしてその声は徐々にドタドタという逼迫した足音と共に近づいてくる。

 俺たちは玄関から動くことができず、廊下の先をじっと見ていたが廊下の角から三留が飛び出してくる。三留は廊下の角で一瞬止まって周りをキョロキョロと確認したが玄関に俺たちがいることに気がつく。三留と視線が交わったとき、彼の青褪めた表情はまるで光が灯ったかのように明るくなる。そしてふらふらとした酩酊状態のおじさんみたいな足取りではあったが玄関へと逃げてくる。

 三留はやってくると助けを求めるように利部の腕を掴むが、その手には貴水や早島のように青い蔦が巻き付いている。

 コイツも何処かでやられたんだ。

 三留は利部に縋ると「助けて」と消え入りそうな声で呟く。

「大丈夫か?! 雲野はどうした?!」

 利部が聞くけれど、三留は掠れた声で「わかんね。途中ではぐれた」と呟く。

 その言葉に利部と早島は顔を見合わせて困惑する。それは、つまり、まだこの場から逃げるワケにはいかないということ。

 でも、誰も、助けに行こう、なんて言い出せるはずもない。

 そんな提案もしたくなけれど、そんな提案をされたくもなかった。

 ただどうして良いか、誰かが『逃げよう』と言い出すまでただ息を殺すだけ。


 だけど、そのとき、今しがた三留がやってきた廊下の角から微かに足を引きずるような何かが擦れる音が聞こえてくる。

 雲野が追いついたのかと俺はほっとして顔を上げる。

「雲野も来た、もう此処を出よう」

 俺がそう言うと早島達の表情に明るさが戻る。

 だけどただ一人、貴水は怪訝そうに俺を見て呟く。


「雲野が来たって……何処?」


 そう問われて俺は音がする方を見る。ほら、ちゃんと聞こえてる。きっともうすぐ雲野がやってくるに違いない。

 そう期待するけれど、どうにもたった今の貴水の言葉が鼓膜の奥で何度も響く。

 こんなにはっきりと聞こえる音がまるで全く聞こえていないような言い方だったと思えてしょうがない。

 だけど、ふと、考えしまう。

 これまで俺は『自分の性能』について考えたことはなかった。それは勿論『常人に見えないもの』に対しての性能だ。

 これまでただ、見えるか、見えないか。

 それだけしか考えてこなかった。だって、それ以外で比較することがなかったから。

 だけど貴水から先程、輪郭がぼんやりとではあるがそういうものが見える、と打ち明けられて初めて見える見えないにも個人差があることを知った。

 そもそもそういうものが見えると言ってきた人間に会ったことがなかったから、見ているものに差異があるなんて考えたこともなかった。

 ……なかったが、もしかして、それだけじゃない、ということはないか。

 例えば、そう、音。

 俺はそういうものが発する『声』を認識できているが、これにも個人差があるということはないだろうか。

 例えば、『今』この瞬間、とか。

 俺は最悪な想像して再び血の気が引くような思いで恐る恐る先程三留が姿を見せた廊下の曲がり角を見る。

 やっぱり、何かがズルズルと擦れる音が確かに聞こえている・・・・・・

 その音は徐々に大きくなり、遂に、視認できてしまう。


 角からずるりと黒い塊が廊下に出てくる。

 それは巨大なオットセイのような形をしていた。でもオットセイのような愛嬌のある顔は存在せず、青白く濁った空洞が目の代わりにあった。全身から黒いススのようなものを噴出している。身体の所々に、壁や天井に走る青い蔦が巻き付いている。

 その姿に直感する。

 コイツがこの家に巣食うものだと。


 やばい。

 早く逃げないと……。

 視界にあの化物を入れた瞬間、子供のときのことを思い出した。初めてあの女に遭遇したときのような、でもそれよりも強い寒気と震えに襲われて、思わず視線を逸らした。

 俺が、アイツに気がついていることを、知られてはいけない。

 知られたらすぐさまこちらに来る。気付いていない振りをすれば、まだ少し猶予はあるかもしれない。

 俺はどうやって皆と外へ出ようか必死で考えながら、彼らを見る。

 早島たちは当然見えているはずはなく、落ち着きなく黙り込んでいる。精神的にもそろそろ限界が近いのがわかる。

 状況が他の四人よりもわかる貴水と何とか彼らを説得できれば……。

 俺は縋るような気持ちで、貴水を見る。


 貴水を見ると、貴水の視線は真っ直ぐとあの化物へと突き刺さっていた。

 俺には、貴水の視界に『アレ』がどう映っているのかわからない。だけど『アレ』を正面から見るもんじゃあない。慌てて貴水の視線を『アレ』から外そうと、俺は口を開く。声をかけて俺の方に視線を寄せようと思ったのだ。

 だけどそれよりも早く、背後の廊下の方からずるりと何かが擦れる音が聞こえる。その音は、ゆっくりゆっくり、徐々にではあったがこちらへ近づいてくるのが振り返らなくてもわかる。


『アレ』がこっちに近づいてきてる。

 俺は思わず下を向いて息を止めた。

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