第37話『貝阿彌マンションのイタコ少年』
生徒指導室を出ると、あと十分程で一時間目が終わるだろうという時間だった。
大森先生は俺たちに「授業中なので静かに教室へ戻ってくださいね」と言うと他の先生たちと職員室へ戻っていった。
才明寺と細江が先に歩き出すのを見送ると、俺は恐る恐る堂土を見る。
堂土は先生たちがいなくなると教室ではなく、別の方向へ足を向けて歩き出す。多分教室には戻らないつまりなのだろう。
俺は離れていく才明寺と堂土の背中を交互に見てしまう。
きっと大森先生の指示通り教室に帰るべきだったのだ。でも俺は意を決して堂土を追いかけた。
堂土が校舎を出て外廊下で体育館の方へ向かう途中で、俺は何とか「堂土」と声をかけることができた。
まさか俺が追いかけて声をかけるなんて想像もしていなかった堂土は振り返って俺を見ると驚いた顔をしたが、すぐに不愉快そうに顔を顰めた。
滅茶苦茶怖い。
俺は声をかけたことを後悔するが、それでも堂土から出た言葉を追い出すと声をかけずにはいられなかった。
『貝阿彌マンションのイタコ少年』
堂土が吐き出した言葉がまだぐっさりと俺に刺さっていたから。
今もさっきの言葉以上に堂土の視線が突き刺さる。その視線に耐えながら、俺は何とか言葉を切り出した。
「お前、貝阿彌マンションのヤツなのか……?」
呟く声がどうしようもなく裏返る。
堂土は更に顔を険しくさせ、その表情にやっぱりコイツはあのマンションの住人なんだと察した。
きっとこの話は堂土にとって嫌な話なのかもしれない。そうでなければ俺を嘲っていただろうし。
堂土はゆっくりと振り返ると、苦々しく口を開いた。
「俺はあのマンションの東側に住んでる、今も」
その言葉に、やっぱり、と背中に冷や汗が滲む。
でも少し不思議にも思った。あのマンションは大きく、西棟と東棟がある。二つの棟は少し離れて建てられており、俺が住んでいたのは西棟だった。まさか俺のことが離れた東棟にまで広まっていたとは。そんな疑問を転がしていると、堂土は続けて「俺には一つ下の従兄妹がいるけど、ソイツは西棟に住んでた」と続けるが、その表情は苦痛に満ちている。
……何だか、更に雲行きが怪しくなってきた。俺は思わず奥歯を食いしばる。
「お前が西棟の公園に幽霊がいるって騒いでた話も従兄妹に聞いた。従兄妹は幽霊が大嫌いで公園に出るのを凄く怖がるようになった。でも俺は幽霊なんていない、外で遊ぶのが楽しいぞって言ってやった。……言っちまったんだよ。お前、騒ぎの直後に引っ越したらしいけど、あの後にあの公園で何が起こったか知ってるか」
「知ら、ない」
え、何だその話。全く知らない。俺は血の気が引くのがわかった。
蚊帳の外というのだろうか。困惑する俺を堂土は鼻で笑う。
「あの公園で遊んでいた子供が数人いたんだけど、ある日その中の二人が自宅に帰ってから体調を崩した。一人は俺の従兄妹。夜になって身体のダルさを母親に訴えたけど、一晩寝れば治るだろうと思ったらしいけどそれ以降良くなることはなく衰弱していった。それからも、時々、あの公園で遊ぶと子供が体調を崩す。だからあのマンションに住む家族はあの公園で子供に遊ばないよう言いつけている」
堂土の言葉に眩暈がした。
あの女……。
祐生の後にもやっぱりやってたのか。
この間あの公園で久しぶりに見たときの随分薄くなっていた。もしかしたら十年前に祐生の障りを運良く才明寺に祓われたとき、『あの女』の力はかなり削がれたはずだ。それを補うため、別の子供を襲ったということか。
正直あまり考えないようにしていたんだが、あの呪いを抱え続けたヤツは一体どうなるんだ。俺は運良く才明寺に出会えた。だけど障りを食らったヤツ全員がそんな幸運なワケではない。才明寺のように祓える人間に遭遇する可能性がどれだけあるのか。どうあって交通事故に遭う可能性より低いかもしれない。
堂土の従兄妹はこの十年でどうなったのか……聞くのが怖い。
だけど堂土は聞きたくない話を始める。
「従兄妹は……どんどん衰弱していって何年も病院で寝たきり状態だった。最近少し持ち直してきたけれど」
持ち直した、その言葉にほっする。
そうか、少し前に『あの女』は才明寺によって祓われた。触りを食らった人は徐々に快方に向かうのは当然かもしれない。
でも良くなっていってるはずなのに、どうして堂土の表情は暗いままなのか。どうして俺に敵意を向けたままなのか。それが気になってしょうがない。
その敵意の正体はすぐに明らかになる。
「周りの大人は言ってた。お前が『おばけ』を唆したんじゃないかって」
「……はあ?」
想像もしていなかった言葉に俺は思わず声が出てしまう。
何だそれは。どうしてそうなる。
俺の声に堂土は眉をひそめる。
「違うのかよ。『おばけ』と仲良しなんだろ? 試験の解答も『おばけ』に教えてもらってるんじゃねーのかよ」
「んなわけねえだろ」
「ふーん」
俺の否定に堂土は全く本気にしていない様子だった。何だったら全く俺の言葉なんて信用していない。
その証拠に「お前が引越していなくなるまでの間『おばけ』の存在を訴え続けたけど、子供が病気になるのはお前の話を信じなかった人間への報復としてお前が『おばけ』に祟らせてるんだって皆言ってたし、俺は今も信じてる」と続けた。
コイツは俺が『あの女』に頼んだと思っているのか。何が『仲良し』だ、ふざけんなよ。
眩暈がするような妄言の羅列を聞いた瞬間、何かが自分の中で爆発する。
バカじゃないのか! 心底の罵倒をお見舞いする。
俺がどれだけ『あの女』を恐れ人生を脅かされてきたか。『あの女』がいなければ、俺はもう少しマシな人間になっていたはずだ。
『あの女』はこともあろうか俺の目の前で祐生に呪いをかけ、俺が如何に無力であるかと見せつけてきた。
俺は『あの女』を見てしまったばかりに後暗い人生を送ってきた……。
それを!
唆す、だと!?
普通に考えてそんなことできるはずがないだろ!
そう思うけれど、それは所詮俺の中の『普通』でしかないことを思い知る。そんなバカみたいなことを考えてる奴らは『あの女』がどれほど恐ろしい存在なのか見えないし知らないのだから!
俺は頭を押さえながら重く深い溜息をついた。
その溜息に堂土は顔をしかめる。
「何だよその態度は」
「それがアレを唆したって本気で思ってるバカが目の前にいるんだ。頭も痛くなるに決まってんだろ」
「あ?」
「何が唆した、だ! ふざけんなよ!」
俺が叫ぶと堂土は苛立ちを顕にして俺の胸倉を掴む。堂土は俺よりも身長があり、胸倉を掴み上げられただけで、足が地面から浮くんじゃないという錯覚に襲われた。だけど俺は地面に足をしっかりとつけて堂土を睨みつけて続ける。
「……あの公園には本当に幽霊がいた。女の、薄気味悪いヤツがいた。俺が『あの女』のせいで何を見せられてきたか、お前にはわからない。見えてないんだからな!」
「何ワケわかんないこと」
「お前の従兄妹が寝たきりだって?! 俺の弟もアイツに祟られた!」
俺の言葉に堂土はぎょっとする。まさか俺の家族が、従兄妹と同じような目に遭っているとは思ってもみなかったのだろう。
こんなこと、今更言ったって何かが変わるわけではない。
俺の根暗が変わるわけでもないし、堂土の従兄妹が寝たきりで過ごした十年は消えない。何も変わらない。
でも俺が『あの女』の共犯のように語られるのだけは我慢ができなかったのだ。
『あの女』は消え失せてもなお俺の影にいつまでも立っている呪いそのものなのだから。
俺は胸倉を掴む堂土の腕を掴む。自分よりも一回りほど太い腕は力が込められているからびくともしない。きっと俺の貧弱な握力じゃあ堂土の腕を引き離すこともできない。だけど俺は必死に掴んで、まだ授業中だということも忘れて叫ぶ。
「病院いくつも受診して母さんは気が狂いそうになってた! 日に日に暗いアザに覆われて動かなくなっていく弟を見ながら、本当に死ぬんじゃないかって毎日思ってた!」
「お、俺だってなあ」
「お前さっき言ってたよな! 従兄妹に『幽霊なんていない』って言ったって! 本当はずっとそのことを後悔してんじゃねえのか! 自分がそんなこと言ったから従兄妹はあの公園で遊んで『あの女』に祟られたんだって!」
言ってから、それはかなり意地の悪い言葉だったんじゃないか、と思った。だけど俺はコイツにかなりムカついていたし、一方的に敵意を向けてくる相手に同情も優しさも見せたくなかった。
俺は堂土を気にかけたくなんてなかった。
捲し立てるように吐き出した言葉に堂土の顔色が変わる。俺の言葉に傷ついたような顔を歪めた。まるでそれが図星であったかのように。
……確証があったわけじゃなかった。でも堂土が『幽霊なんていない』と言ったとき、口元を歪めたように見えた。
それが後悔だったのか苛立ちなのかはわからない。だけど堂土にとってその言葉がコイツの傷になっているように思えてしまった。
堂土の手から力が抜けていくのがわかった。俺はその手を振り解くと、堂土を突き飛ばす。けれど体格も体幹も貧弱な俺の方がよろよろと後ろへ下がってしまう。……情けない。
「……自分が許せないからって俺に当たってんじゃねえよ」
「うるせえよインチキ野郎。お前がやったんだ、俺はお前を許さない」
「俺はお前に許されないといけないことは何もしてない。お前なんて、見えない影にいつまでも怯えてれば良い。次は誰が祟られるかなんて、どうせお前には見えないんだから」
俺がそう言って堂土を指差す。
それはまるで、次はお前だ、と堂土に感じさせたかもしれない。その証拠に堂土は恐らくこの十年で衰弱し続けた従兄妹の姿を思い浮かべたかもしれない。
次は自分。その可能性に堂土は血の気が引いた様子だった。
「……」
言い切って、堂土の青くなる顔をみて、もっとスカっとするかと思った。だけどどうにも後味が悪い。この手の祟りや触りで俺もかなり痛い目に遭ってきたから。それを人にやるのは、やっぱり罪悪感が勝った。
俺は指を下ろすと苛立ちながらも「……『あの女』は先月末に完全に消えた。お前の従兄妹が体調を持ち直したのもそのせいだから」とだけ言い放つと、俺は堂土の反応も見ずに逃げるように教室へ歩き出した。
堂土が俺を追いかけてこなかったことにほっとした。そんなことを思っていると、漸く一時間目終了のチャイムがスピーカーから響いた。
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