水風船   作・麦茶

 引っ越しの準備をしていたら思いがけないものが出てきた。ともかくお茶を一口飲んで落ち着こうとしたが、胸の高まりはそう容易くおさまるものではない。もう一度それをまじまじと見つめる。これはいったい何だろう。

 透き通った青いビー玉のような表面に、無数の傷がついている。輪郭は流線形に近い。一部がまだ本棚の裏に隠れてしまっているからよく分からないが。おそるおそる手を伸ばして、指先でつついてみる。ぱり、とかすかに硬い感触があって、すぐにぐにゃりと指が呑み込まれた。慌てて指を引っこ抜くと、少しべたついている。

 わり氷というお菓子がある。金沢名物だと聞く。うす緑や桃や半透明の、いかにも結晶物らしい形の菓子で、薄氷を踏むような軽やかな歯ごたえとかすかな甘みを残して、すっと消えてしまう。それに似ている。しかし、指先をちょっと舐めてみても苦いばかりである。糊に近いようだ。

 今度はもう少し強く押してみる。ほとんど抵抗なく指がそれを押しつぶす。怖くなってきたところで指を離してみたが、へこんだ部分はそのままだ。スライムの類だろうか。小学生の頃につくったスライムがこんなところに落ちていたとか。いかにもありそうな話だが、私がこの家に住み始めたのはつい四、五年前のことだからあり得ない。大学生の時にスライムをつくった憶えはない……いや……酔った勢いで……?

 疑心暗鬼になってきた。どうして過去の自分に翻弄されなければならんのか。とうとうそれを鷲掴みにして、引っ張り出そうと試みた。壁と本棚の間にしっかり挟まっているようだ。これは本棚を動かさないとどうにもならないらしい。そもそもこれを見つけたのは本を整理している途中だったので、本棚を動かそうと思ったら本を片付けなければならない。


 本を片付けるだけで三時間が経った。一冊ずつ中身を見返しては過去に浸っていたのだから仕方なかった。最後の一冊を段ボール箱に仕舞って、さて本棚を動かそうと振り返ると、それはすっかり干からびていた。

 透き通って美しかった表面は艶を失い、指でつついてみても硬い感触しかない。あの寒天のような不思議な感触はどこにもなかった。心なしか少し縮んでいるようにも見える。そっと本棚を動かすと、ほとんど親の踵のようになってしまったそれは、頼りなく落ちた。本棚と壁の間ですっかりペチャンコにされていたようだ。全体の半分が平らで、かさかさに乾いている。

 さて全体をしげしげと見てみると、これは本来虎だったようだ。陽を透かしてきらきらと輝く青い虎。それはきっと美しい姿をしていたに違いない。それがどうかしてこの家に迷い込んで、本棚と壁の隙間で動けなくなってしまっていたのだ。頭から腹、後ろ足にかけてすっかり潰れている。さっきつついていたのは尻尾だったのか。虎の丸く黒い瞳が哀願するようにこちらを見た。

 まだ水道は止まっていなかったから、シンクで少しずつ水をかけてみた。しっぽは少し干からびていただけのようで、すぐに浅瀬の海の色を取り戻した。他はずいぶん難しい。バケツに水をためて、しばらく浸しておくことにした。小さい頃に風呂場で遊んだ、水をかけると膨らむおもちゃが連想された。

 虎はぐんぐん膨らんでいく。くっついていた両目はパチンと分かれ、頬のふくらみが現れ、耳がピンと立った。腹がずっしりと重そうに垂れ、足は力を取り戻したように少しずつ動き始めた。

 ついに、バケツの縁に両前足を乗せて、ぴょんと虎が飛び出した。床が思いきり濡れたが、この際どうでもいい。元に戻ったらしい虎は案外大きく、床に座り込んだ私の肩の高さに、頭があった。そっと頭を撫でてやると、目を細めてぐるると鳴いた。虎の額はひんやりと湿って、水風船のような浮遊感のある柔らかさだった。

 虎は私の周りを一周し、ちょっと身を擦りつけると、突然窓に向かって駆け出した。窓は閉じていたはずなのに、虎はすらりとガラスを通り抜け、ひと飛びして虚空に消えた。あっという間のことだった。虎は青い広い空の彼方に消えてしまった。

 次の日は一週間ぶりに雨が降った。私はそれを知っていた。虎が額を寄せた服の端に、開いた雨傘の形が残っていた。

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