第1章 パン屋からこんにちは
第1話 パン屋の看板娘
聖都サンタリカの大通りから一本中に入ったやや外れた場所に、一軒のパン屋があった。レンガ造りのこじんまりとした清潔な店内はいつも焼きたてのパンの香ばしい香りが立ち込めている。店の一番奥の壁には『幸福のお手伝いをするパンをお届けします』と格言を書いた看板が打ち付けてある。店を開いた先代の言葉だ。その名の通り温かみと優しさの詰まったパンが備え付けられた棚一面に並んでいる。
現店主は筋骨隆々の厳めしい親父だ。彼の作るパンは、本当に本人が作っているのかと疑いたくなるようなほどに美味しい。繊細できめ細かいパンができあがる。
平民のみならず貴族も愛するほどのパンだ。
専属にならないかと王侯貴族が望むが、頑固親父は決して首を縦に振らず。ではレシピを教えてくれと言われても無言で追い出される。ただその日のパンを焼き続けて、店にやってくる客に売る。それだけだ。
小柄だが威勢のよい妻と二人で、店を切り盛りしていた。
そこに一年ほど前から、可愛い少女が働きだした。
弟子を取らない、門外不出のパン焼き技術は自分で最後だと豪語していた店主のもとにある日ふらりとやってきて、店の前で1週間土下座して弟子の座を獲得した豪の者だ。
朝露に濡れた紫の花びらを思わせるかのような銀紫の髪色に、同じ色の瞳をした神秘的な少女は、小さな顔に目鼻がバランスよく配置された愛くるしい顔立ちをしている。だが可愛い見かけに反して頑固親父を遣り込める胆力に、客たちは拍手喝采し応援した。
今ではすっかり看板娘になっている。
女神の色とされる銀色の毛色を持つ猫をペットにしており、店に入れば出迎えてくれる。黄色の頭巾を頭から被ってゆったりとした左右に銀紫のおさげを揺らして、白いエプロンにも負けない眩しいほどの笑顔で。
こうして聖都のパン屋デリ・バレドは、今日もいつもと変わらず賑わっていた。
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カランと入り口の扉に取り付けた古びた鈴の音が鳴る。
店内に備え付けられた棚に焼き立てのパンを並べていたアリィは顔をあげて、笑顔を向ける。
紺色のワンピースに真っ白なエプロンにが映える。何より、少女の笑顔が眩しい。
本日も看板娘は絶好調だ。
「いらっしゃいませー」
「アリィちゃん、今日のお勧めはどれかしら」
常連の初老の女は慣れたように手持ちの藤で編んだかごを差し出すと、期待に膨らんだ目を向けてきた。
そのかごを受け取って、今、並べたばかりのパンを示す。
「こんにちは、モンバル夫人。こちら、今焼きたてになっていますよ。親父様の新作です。今朝採ってきた野ベリーをふんだんに使ってますから甘いパンになってます」
「あら、美味しそうね。甘い香りも誘われるわ。じゃあそれを5個と、いつもの丸パンを10個ほどちょうだい」
「はーい。今、お包みしますね。いつもの卵パンはいかがです?」
「それが、卵パンが好きなのは旦那様なんだけど、ほら、もうすぐ大聖女様が亡くなって一年が経つでしょう? 一周忌の準備で家に帰ってこなくて。だから、今日は大丈夫よ」
モンバル夫人の夫は確か大神殿の祭事を司る部署に勤めていた。
なるほど、大聖女の一周忌など、目の回る忙しさだろう。
遠い記憶を引っ張り出しながら、アリィは納得した。
「そうですか。では、こちらで2100リカになります」
「はい、はい。また、あの人の仕事が落ち着いたら買いにくるわね」
お金を受け取って、かごに品物を詰めて渡せば夫人は満足そうに微笑んだ。デリ・バレドのパンは客を笑顔にする魔法のパン―――それが売り込み文句である。店の創業者である先代の幸福のお手伝いをするパンから派生している。
アリィは今の仕事にやりがいをかんじていた。
「ありがとうございました!」
「どの面下げて帰ってきたぁぁぁっっ!」
アリィの声と腹の底から出した重低音が重なった。
大仰にのけぞった夫人が、恐る恐る問いかけてくる。
「……あら。ご主人、何かあったの?」
「なんでしょうか?」
店から厨房へと続く扉を見つめて、夫人と顔を見合わせてしまった。
パン屋の店主はとにかく厳めしくて恐れられている。だが基本は無口だ。声を荒げることは滅多にない。
それが店が震えるほどの大声を出すなんて余程のことだ。
店主の妻が宥めている声も聞こえる。
何事かと様子を窺っていると、ピョンと猫が駆け込んできた。
「あらあら、モモちゃんもビックリして逃げてきたのじゃない?」
『あの親父がうるそうて敵わん。 そちがなんとかしてたもれ』
「いやいや、親父様のお怒りを静めるのは難しいですわよ」
「そうよね。アリィちゃんもここにいた方がいいんじゃない?」
猫のモモに告げた言葉は独り言だと思われたらしい。モンバル夫人は心配げに眉を寄せた。
アリィもその通りだと思ったが、現実は過酷だ。
「俺たちには娘ができたんだ、貴様なんぞさっさと女のところに帰ればいいっ。二度と家の敷居を跨ぐな!」
大音声で告げた店主の言葉に思わず頭を抱える。
娘ってもしかしなくても、自分ですよね?
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