その312 トイレ問
間違っていると言うより覚え間違えたと言う方が正しいかもしれない。
と言っても、本当に些細な覚え間違いなのだけど。
それはともすればくだらないことで、だけどレイマンさん当人にとっては世界を揺るがす大変な重大事項だった。
「一文字……?」
「はい、一文字です」
「参れマン……?」
「一体どこに参るんですか!」
「入れマン……?」
「トイレには入れさせない側じゃないですか!」
レイマンさんはどうやらまだピンと来ていないらしく、思い付きの言葉を適当に呟いていた。
いや、無理からぬ話なんだけどね……だって本当に益体もない間違いだから!
馬鹿馬鹿しすぎて逆に思いつくのが難しいのだ。
「そこの文字を変えるんじゃなくて……マンの方です」
「なに? つまり……トイレランか?」
「トイレでは走らないように!」
「トイレさん……?」
「それは確かに幽霊っぽさありますけども!」
「トイレたんか」
「可愛く言いなおす方向でもなく!」
「こうなったら全部言ってやる。トイレアン、トイレイン──」
「トイレインはまあ確かにそうではありますね」
この辺りでレイマンさんはウン、エン、オンと呟きつつ虱潰しに言葉を探し始めた。
その探し方では答えはかなり最後の方になってしまうのだけど……まあ、ここはゆっくり待つことにする。
心の準備としてもきっと悪くないだろう。
「──トイレヤン、トイレユン」
「いよいよ終わりに近づいてきましたね」
「トイレヨン。全然ピンとくるものが無いぞ。ええっと、次はトイレ……」
そこでピタリとレイマンさんの詠唱は止まった。
それは直前の言葉を翻す様に明らかにピンとしている様子で、同時に衝撃を受けている様子だった。
そう、答えはトイレマンではなく──
「──『トイレワン』があなたの本当のあだ名なんです。つまりあなたの正体は──お犬様です!」
そう、彼はここの生徒でもなければ人でもない。
犬なのだ! 愛らしく可愛らしいお犬様なのだ!
これを聞いた時は私も『えぇ……?』と戸惑いを隠せなかった。
『マ』と『ワ』、たった一文字の違いで起きた勘違い。
それがここまでややこしい事態を生むなんて……。
「詳しく聞かせて貰えるか?」
レイマンさんは意外にも冷静で、取り乱すこともなく声も荒げず落ち着いてそう言った。
私の方が落ち着きとは程遠い感じで、慌てて説明を開始する。
説明とか苦手な方なんだけどなぁ!
「はい! えっと、レイマンさんの今のその姿はあなたの飼い主だったピーターさんのものでして、彼の連れていたワンコこそが本当のあなただったんです。現在居酒屋さんを営んでいるピーターさん本人に会って色々と話を聞いたんですが、あなたには昔から人の記憶を消す力があったそうなんです。大変珍しい魔法犬ですね。その能力が見込まれて使い魔としていつも学校について来ていたそうなのですが、そんなあなたのお気に入りの場所がこのトイレ、そしてその個室。とっても賢いあなたはトイレをいつもそこでしていたそうです。その様子があまりにも可愛いものですから、いつもみんなからは愛称としてこう呼ばれていました。トイレのワンちゃん、『トイレワン』と」
トイレマンは間違いなく蔑称・悪口の類なのだけど、トイレワンの場合それは可愛いあだ名だった。
たった一文字の違いで人と犬、悪口と愛称に分かれてしまうなんて、なんだか不思議で面白い気もする。
当人にとっては笑い事じゃないだろうけれど!
考えて見れば彼にも微妙に犬らしいところはあった。
それはトイレのドアを開けられることに激しい怒りを覚えていた点で、その理由はきっとマーキングである。
犬であるからおしっこをして匂いを付けるトイレには縄張り意識が働いていて、だからあの怒りは縄張りを侵された動物の威嚇行為に類するものだったのだと思う。
お気に入りの縄張りに見知らぬ人間が来たらそりゃあ怒るよね。
「……まさかこんなアホでくだらない勘違いをしてしまうとはな」
「仕方のないことなんです。あなたは自分の記憶を消してしまっていたので」
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