第10話 未来(最終話)

 一年が過ぎ、ジョシュアは、何事も無かったかのように再び賑やかな学園生活を送っていた。ジェイムズは、尚一層仕事に励んでいるが、以前よりずっと優しくなったとジョシュアは思う。ジェイムズはやはり大人で、ジョシュアは、兄さんには今も敵わない、と思うのだ。

 そして、絵莉花は……。

 絵莉花は、ジェイムズとは結婚しなかった。絵莉花は、ルナトロンとニュー・フロンティア号が修理を待つ三ヵ月の間、ハルファ宇宙センターで訓練を受けた。その後月のプラトー基地に行って更に訓練を受け、そして、半年前に冥王星に旅立った。あの真珠の指輪を大事そうに指にはめて。


 ニュー・トーキョー空港にも、ハルファ宇宙センターにも、ジョシュアは絵莉花を見送りには行かなかった。ささやかに行われた歓送パーティにも、ジョシュアは出席しなかった。

 ジョシュアは、あれ以来、ほとんど絵莉花と顔を合わせないままだった。もうすぐ絵莉花の24歳の誕生日が来る。去年、23歳のバースデイ・パーティはとうとう出来ないままだった。絵莉花は今頃、冥王星の実験農場で研究を続けながら、渚苑の事だけを想って毎日宇宙を眺めて過ごしているのだろうか。


 テレビもラジオも、きっと、今日はどこでもニュー・フロンティア号の特別番組をやっているのだろう。どのチャンネルでもイメージソングを数ヶ月も前から流している。一年前のあの事件の事は忘れ、記念すべき外宇宙時代の到来を盛んにアピールしているだろう。

 今日、渚苑ショーンが乗るはずだったニュー・フロンティア号がアルファ・ケンタウリに旅立つ。渚苑の変わりに補欠の誰が乗るのか、ジョシュアは知りたいとも思わない。ジョシュアはニュー・フロンティア号の話なんか聞きたくもない。宇宙なんか大嫌いだと思った。テレビもラジオも付けまい。ジョシュアはそう思っていた。

 なのに、ジョシュアは無意識のようにラジオのスイッチを入れていた。


 ドアをノックする音がした。振り向くと、SRS-Zに行ったと思っていた兄のジェイムズだった。

「ジョシュア、お前にお客さんだ」

 ジェイムズの隣に、日焼けした顔の老人が立っていた。ハルファ宇宙センターで会った八島教授だった。

「邪魔をしてもいいかね」と八島教授が言った。

「構いませんよ。勝手にその辺の椅子にでも腰掛けて下さい。でも、僕は、あんまり喋りたくはないんです」

 ジョシュアは、ぼんやりしたままそう言った。


 ラジオからは、音楽とDJの軽妙な語りが流れていた。

「日本は何年ぶりだろう。やはり故郷はいいね」

 八島教授が、誰にともなく言った。

「空気が違う。歳をとると、余計にそう思える。なのに、やっぱり、自分の居場所はここではないと、そんな気持ちに急かされる……」

 八島教授は、ジョシュアの傍の椅子に腰を下ろしいて話し始めた。一体何の為にジョシュアを尋ねてきたのか、ジョシュアにはさっぱり分からなかったし、また、分かりたいとも思わなかった。

「私が何故絵莉花をハルファに呼んだか知っているかね?」

 八島教授は、ジョシュアの顔を見ながら訊いた。

 そんな事、ジョシュアが知る訳が無い。ジョシュアは返事をしなかった。

「絵莉花は大学生の頃から、私のある研究を手伝ってくれていた。それはまだ何の成果も上げていなかったが、絵莉花のお陰で大きく進展したことは間違いない。絵莉花の卒業後、私はハルファで研究を続けていたが、どうしても、絵莉花と一緒に研究を完成させたかったのだよ」

 そして、八島教授は、大事そうに何かを包んだ両手を差し出した。

「ごらん、オキシゲン・クローバーだよ。ある種の地衣類を元に、絵莉花と私と他の仲間達とで開発した。この小さな植物は、厳しい環境にも適応し、二酸化炭素から効率よく酸素を作りだす事が出来る。絵莉花は、冥王星にこのオキシゲン・クローバーを持っていった。更に研究を進める為に。本当は私も行きたいところだが、もう年なのでね。勿論ニュー・フロンティア号にも、このオキシゲン・クローバーの種子が他の沢山の植物の種子と一緒に積み込まれている。アルファ・ケンタウリの適当な惑星に、もし酸素が無くても、このオキシゲン・クローバーは酸素を作りだす事が出来る。そして、やがてオゾン層をも作りだす事ができるだろう。そして……」

 八島教授は、皺の刻まれた顔に穏やかな微笑みを浮かべ、優しい眼差しでじっとジョシュアの顔を見た。

「このオキシゲン・クローバーには、君が絵莉花にくれた、四つ葉のクローバーの遺伝子が入っている。このオキシゲン・クローバーが育つ未来の星の幸運を祈ってね」

 ジョシュアは、瞳を見開いて八島教授の顔を見た。

「ずっと大事に持っていると君と約束をした。けれど、使い道を知ったら、きっと君も喜んでくれるだろうと、絵莉花は話してくれたよ」

 絵莉花は、ジョシュアと一緒に見つけた四つ葉のクローバーの事を忘れてはいなかった。あの遠い夏の日の約束を忘れてはいなかったのだ。

「絵莉花は、何故それを僕に話してくれなかったんでしょう。いや、そうじゃない。僕が聞こうとしなかったんだ」

 ジョシュアは深い後悔の念に苛まれ、肩を震わせた。

 八島教授は、ジョシュアの肩に手を置き、穏やかな笑みを浮かべながら言った。

「大丈夫。絵莉花はきっと君の後悔を理解しているよ」

「でも、もう伝えられない」

 力無く、ジョシュアは答えた。

「そんな事はないさ。ニュー・フロンティア号には届かないかも知れないが、冥王星はずっと近い。君が大人になる頃には、もっと近くなっているだろう」

 ジョシュアが見上げると、八島教授はにっこりと笑って続けた。

「そして、何時の日か、地球か、アルファ・ケンタウリか、あるいはまた別の星で、君の遠い子孫とニュー・フロンティア号の遠い子孫は出会うかもしれない。君が絵莉花に上げたあの小さな四つ葉のクローバーが、沢山の人達に幸せを運ぶに違いないと、私は思うよ」

 八島教授の手の中で、その小さなエメラルド色のオキシゲン・クローバーは、生き生きと葉を震わせ、眩しく輝いていた。

「SRS-Zは、今、どの当たりですか?」

 ジョシュアは胸が熱くなるのを感じながら尋ねた。

「SRS-Zは4時間周期で地球を回っている。すぐに日本の上空を通るよ」

 ジョシュアはテラスから庭に走り出て、空を仰ぎ見た。

 梅雨の晴れ間のその空は、あの遠い夏の日と同じように、美しく澄んでいた。

 ニュー・フロンティア号は、今、SRS-Zとドッキングしたまま共に地球を回っている。そして、もうすぐ切り離され、地球を永遠とわに離れる旅に出る。この空の何処かを、絵莉花の夢を乗せた船が今も飛んでいるのだ。


 太陽が、他の多くの恒星の中に紛れてしまう頃、ニュー・フロンティア号の乗員は、最後の一人が長い夜の眠りにつく。やがて、アルファ・ケンタウリの黄色い三つの太陽が、船に朝を告げるまで。

 地球で百年が過ぎようと、ニュー・フロンティア号の中で眠る者達にとっては、僅かに一夜が過ぎるだけ。宇宙の海を漂うニュー・フロンティア号という貝の中で、真珠のようにうつうつと夢見ながら、目覚めの朝を待つのだ。

 星の海よ、真珠を眠らせる貝を優しく抱け。アルファ・ケンタウリの眩しい陽光の中で、真珠が目覚めるそのあしたまで。



 ラジオからは、ニュー・フロンティア号のイメージソングが流れていた。


  僕が旅立つのはそこに未来が在るから

  何時か故郷を聞かれたら地球と答える

  青い海ではイルカが漁を助け

  森は魔法と秘密を隠し

  緑の大地と月の砂漠を風が渡り

  大樹の木漏れ日の下で子供達が笑い合う

  そこで君も微笑んでいる

  窓辺で歌う小鳥

  花を揺らす風

  輝く緑の丘

  いつか君と語らった僕の懐かしい地球

  宇宙の果てに居ても忘れ得ぬ愛する故郷

  何時かきっとこの宇宙の何処かで

  再び君に巡り逢う

  再び君に巡り逢う……


 そうだ、僕たちはきっとまた巡り逢える。ジョシュアもそう思った。

 いつか僕は冥王星に行って、きっとオキシゲン・クローバーの野原で絵莉花に会おう。絵莉花はあの遠い夏の日と少しも変わらずに、さらさらの髪を風に靡かせ、ジョシュアが呼びかければ、きっと振り返って手を振るだろう。

 ジョシュアには、絵莉花の姿が目に見えるような気がした。

 砂漠の夜風に吹かれていた絵莉花。星の海に抱かれて貝の中の真珠のように眠る絵莉花。そして、冥王星のきらきらと朝露に輝く広大なオキシゲン・クローバーの野原で、白い麦藁帽子を被り、幸せそうに微笑む絵莉花。


 一陣の風が吹き、庭の林檎の木を揺らしていった。そのざわめきが、ジョシュアには、あの日の絵莉花の笑い声に聞こえた。


 眩しい陽光に梢がきらきらと光る。

 その光と風の中で、絵莉花の白い麦藁帽子がひるがえるのをジョシュアは見た。


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