第一章 負けヒロインは普通に家にいる その4

「お待たせ、姫乃」


 シャワーを浴び直してから行くというを家に残し、僕は一人で玄関を出た。

 姫乃はもう一体の石像のように微動だにせずお地蔵様の横に立っている。彼氏の欲目だろうか、清浄な朝の光を浴びる姫乃は小さな石仏よりも神々しく見えた。

 ヤバい。可愛いな、この子。

 恋人の約束を交わしたのは一昨日の夜。何だか気恥ずかしくて、その夜はそのまま互いの部屋に別れ、修学旅行最終日も周りの目が気になってろくに言葉も交わせなかった。

 つまり、実質的には今日が恋人として過ごす最初の日。 

「おはよう」

 地蔵菩薩の見守る前で、僕達は恋人になって初めての朝の挨拶を交わした。

「…………」

 いや、正確に言うと交わしてはいない。僕が一方的に発しただけ。姫乃は無言でパックのレモンティーのストローを咥えたままだ。

「えっと、じゃあ……行く? 学校?」 

「…………」

 姫乃はやはり無言のまま。しかし、下げた視線で僕の歩き出す気配を窺っているあたり、出発することに異存はないらしい。

「やー、いい天気だね、今日は」

「…………」

「今日はあったかそうだし弁当も中庭とかで食べてもいいかもな?」

「…………」

「いや、やっぱりクラスメートに見られてもアレだから、やめとこうか」

「…………」

 集団登校する小学生や自転車通学の中学生とすれ違いながら、僕は饒舌に、姫乃は黙々と並んで歩く。一見するとたまたま目的地と歩調が同じなだけの別々の二人のように思えるかもしれないけれど、これが僕と姫乃の距離感だ。

 繰り返しになるが、姫乃は極端に口数が少ない。

 基本的に必要なこと以外は一切喋らない。てゆーか、必要なことも喋らない。表情もあまり変わらないし、もちろんボディランゲージだってほとんど取らない。だいたい棒立ちでレモンティーを飲んでいるのが基本姿勢だ。大別すると動物より植物に近いのかもしれない。

 ……よく仲良くなれたな、僕ら。

 両親に感謝ということでいいのだろうか。こんな姫乃と僕が毎朝一緒に登校するまでに仲良くなれたのは、姫乃の特殊な性癖が原因だった。あの日——姫乃の性癖と僕の体がマッチして以来、僕達は毎日必ず一度は二人だけで会うようになった。

 最初は学校の昼休みに数分だけ、それから週に何度か放課後に誘いのメールが来るようになり、月に何度か通学路で待ち合わせるようになり———そうやって、少しずつ少しずつ、氷河をライターで溶かすように僕達は打ち解けて行った。一年かけて氷の中から溶け出てきた姫乃の本心は、決して冷たくも無愛想でもなく、むしろ感情豊かな女の子に見えた。今となっては理解できる。この子は無口なのではなく、ただ単に目立つことが嫌いなだけなのだ。その証拠にクラスメート達がいない状況で僕と二人になると、姫乃は驚くほどよく喋る。彼女はそういう女子なのだ。

 つまりまあ、今は異常事態ということだ。

 僕と二人きりなのに、うんともすんとも言わないのだから。ええー、なになにー、どしたんどしたん? 怖いんだけどー。

「あのー、姫乃さん? どうしたの、元気ないみたいだけど?」

「…………」

「……怒ってる?」


 ——ずずずっ。

 

 と、レモンティーのパックが音を立てた。

 なるほど、怒ってるな。

 え、なんで? なんかしたか、僕。するわけがない、だって会ってまだ一分だぞ。わざと怒らせにかかったとしても時間が足りない。心当たりがなさすぎる。

 ——ずずずっ。

 はい、嘘つきました。ありますあります。ばりばりにあります、心当たり。

 だろう。

 それしかありえないだろう。そりゃあ、初めてできた彼氏が他の女と一つ屋根の下で暮らしていたら面白くないに決まっている。僕が逆の立場だったら発狂している自信がある。二人揃って朝から玄関でお出迎えなんてされた日にゃ、口も利きたくなくなるってもんだ。

「あ、あのさあ、姫乃。言っておくけど違うからね!」

 ここは一つ、早急に誤解を解いておかねば。

とのことは、僕との関係は姫乃が思ってるようなのとは絶対に違うから!」

「…………」

「あいつとは生まれた時から知り合いで家族みたいな感じなんだよ。しかも姉とか妹ってより男の兄弟って感覚? そう、そうなんだ! だから一緒に住んでるからって変なことなんて全然起きて——」

 ない、よな? 洗面所でのぎゅーぎゅーとかずぶずぶとかはルーティンだからセーフのはずだ。

「と、とにかく姫乃が心配することは全然何も!」

「………夏、聞かせて」

「え?」

 僕の必死の説得をそよ風のように受け流し、姫乃は言葉を差し込んだ。

「ごめん、今、なんて?」

「……聞かせて」

「うぇっ、ここで?」

「……今ここで」

「いや、そんなこと言われてもさすがに野外じゃあ——」

「我慢できない、入れて………」

「うおー、待って待って、まだそれは出さないで。わかった! こっち、近道しよう!」

 なんてこった、このタイミングで性癖の発作かよ。今にもおっ始めようとする姫乃を、引きずり込むようにして狭い路地へと誘った。

「よ、よし、ここならいいぞ。時間ないから手早く——」

「………夏、早く入れて」

 急かすまでもなく姫乃の準備は完了していた。

 もう一秒たりとも我慢できないといった顔。唇をキュッと噛みしめ、目を爛々と輝かせ、耳には鞄から取り出した『それ』の両端を突っ込み、もう片方をずずいと押し出してくる。一見吸盤に見えるその部分の名称は『チェストピース』と言うそうな。健康診断や病院で誰もが一度は目にしたことがあるであろう、聴診器の先っぽである。

「これでいいか?」

「……喋らないで」

 姫乃から受け取った聴診器の先をシャツの中に入れ、自分の心臓にあてがう。姫乃はまるで音楽でも聞くように目を閉じて、

「……はあ」

 うっとりとした声で溜息を漏らした。

「沁みる………落ち着く……」

 満足してもらえているようで何よりだ。

 何よりだけど、まさか野外でこれをやる日が来るとは思わなかった。室内でもそこそこ恥ずかしいというのに、こんなところご近所さんに目撃されたらどんな誤解を受けることやら。

 そう、心臓の音を聞きたがる。これが姫乃の性癖である。 

 どういう精神の作用か知らないが、姫乃は心音を聞くと心が落ち着くらしい。それまでは自分の心音を聞いていたが、たまたま聞いた僕の音がいたく気に入ったようで、それからは何かストレスを感じる度に姫乃は僕の心音を聞き、心の平穏を保とうとするようになった。ちなみに、『性癖=エロい趣味』じゃないからね。ただの『癖』って意味だから。それいわゆる間違った日本語ってやつですから。ちゃんと辞書を引いてください。

「……夏」

「うん?」

「綺麗な音……」

「おお、ありがとう」

 で、いいのだろか。一年前、初めて僕の心音を聞いた時も姫乃は確かそう言った。僕の心音に耳を傾ける時、姫乃はいつも子供のような顔をする。とても可愛いけれど、やはりすこし恥ずかしい。


「……もう、大丈夫。ありがとう」

 目を閉じること約三分、満足したのか姫乃は耳から聴診器の管を抜き、

「………疑ってなんかいないから」

 髪の毛に手櫛を通しながら物のついでのようにそう言った。

「え、疑う……って?」

「夏のことは、信じてるから………ちゃんの事情もわかってるし、今さらそこは………疑ってないよ……」

「ああ……そのことか。じゃあ、怒ってないの?」

 こくりと姫乃が頷いた。

「マジで?」

「…………」

 もう一度首を縦に振る。

「ああ、そう。ならいいんだけど。にしては、こう、なんか………今日は静かすぎない?」

「……まむ」

 いや、まむではなく。

「わたしはいつも通りよ…………ちゃんと楽しく過ごした後だから、そう感じるんだと………思うけど」

 やっぱ怒ってないですかね、姫乃さん! 言葉の棘が半端ないんですけども。

「……怒ってはいないけど、なんか扉の方から聞こえては来た……『てってれー』とか、『洗面所でドキドキする?』……とか楽しそうな声……」

「ぐぇええ、違うんだよ、それは! それはもう完全に違うんですよ、姫乃さん」

「何も言わなくていい…………信じてるから」

「いや、でも——」

「夏」

 服の上から、ヒタリと胸に聴診器をあてがわれた。

「……信じてるから」

 もう怖いわ。そのセリフは心臓に物を突きつけながら言うべきじゃない。

 一方的に言い捨てて路地の奥へと歩を進める姫乃。なんだろう、この緊迫感の漂う後ろ姿は。恋人としての初登校の日だっていうのに圧しか感じないんだけど。こんな調子でこれから大丈夫かよ、僕ら。

「……夏、早く来て。本当に遅刻しちゃう」

「お、おう」

 多分大丈夫なのだろう。こんな時ですら、振り返る姫乃の顔を可愛いと感じてときめいてしまう僕なのだから。


「………………」

「………………」

 背中合わせの家屋の隙間を並んで歩く。

 大通りを一本離れただけで路地は別世界のように静かだった。

 二人の足音だけが薄暗い道を埋めていく。なぜだろう、相変わらず一言の会話もない僕達だけど、ここでは不思議といつも以上に姫乃との繋がりを実感することが出来た。 

 静かすぎる空気が逆に互いの存在を意識させるのか。それとも壁に響く足音が二人の鼓動を急かすせいなのか。

「……………………」

 それともやはり、実際に手が触れているからなのだろうか。

 路地は狭い。並んで歩くとどうやったって手の甲がチラチラと触れてしまう。

 どうしよう。姫乃は特に気にしている様子はないけれど、ここは僕が気を利かせて前か後ろにズレた方がいいのかな。

 ってなんでだよ。なんで離れる必要がある。むしろしっかりと繋いでたっていいくらいじゃないか。いいよな? うん、いいに決まっている。今日は僕と姫乃の新しいスタートの日なんだ。ここは是非とも今までとは違う確かな二人の証が欲しい。

「なあ、姫乃………手とか、繋いでいい?」

 ——だって僕達は、恋人同士なのだから。

「………なんでそんなこと聞くの?」

「え?」

「わたしがそういうの恥ずかしいの知ってるでしょ?」

「あ、えっと……」

「………知ってるでしょ?」

「は、はい」

「じゃあ、バカなこと聞かないで」

「……すみません」

 全然だめでした

 怖っ! こーわぁー! なんてこった、徹底拒否じゃないか。こういうの断られることあるんだ。普通に謝っちゃったんだけど。

 え、なんで? そんな怒られるようなこと言ったか、僕。そりゃあ、姫乃が極度の恥ずかしがり屋だってことは知ってるけどさ。でも、いいじゃん。手くらい繋いでくれたって! 僕達恋人同士なんだから! 好き合っているんだから! 

「…………………」

 実際、手の甲はまだチラチラと触れているのだから。

 何これ。あんなに強く拒絶しておきながら、姫乃は僕の隣から離れようとしない。一息に手が繋げてしまう距離を崩そうとしない。この事実を、どう解釈すればいいのだろう。

「………あんなこと聞いて本気で許可が出ると思ったの?」

 これ、ワンチャン、待ってる説あるんじゃね? 『男なら許可なんて求めずに黙って奪ってよ』説あるんじゃね? 

「……人に見られたら、恥ずかしいでしょ」

 それはつまり、誰にも見られなかったらいいってことなんじゃね? 

 この路地の間だけなら、薄暗い別世界の間だけなら。

 路地はもうすぐ終わる。あと少しで僕らは夢のような暗がりから常識のまかり通った大通りに出てしまう。それまでに一瞬だけ。

 そう、あの角を曲がる前に。

 暗がりから出る前に。

「ちょちょちょ、ちょーっとごめんやよー、ごめんやよー。ちょーっと、ちょっーと、はいはいは~~い」


 ……眼鏡をかけた関西人が後ろから割り込んでくる前に。


「ひい、ちゃん!」

「うわ、っ⁉ なんだ、お前」

「ああああ、ごめん。ごごごごごご、ごめんごめんごめん。ちゃ、ちゃうねん、どうしよ。邪魔する気はなかってん。ただその、と、と、と、通すだけ通してもらえませんかね? マジで生徒会の仕事に遅刻するから。生徒会委員が遅刻はマズいから。通るだけ、ね? ね?」 

 バタバタと足踏みをしながら拝むように手を合わせる

 ……ああ、しまった。

 そりゃあ、そうなるか。

 ただでさえ寝坊して遅刻寸前だった僕を先に行かせたんだ。後発したは当然近道を通ろうとするだろう。吞気に心音なんて聞いてたら追いつかれるに決まっている。引き返して迂回する余裕がないとすれば、遅刻の許されないクラス委員の通る道は………。

「ごめんやよ? ごめんやよ? 空気通りまーす。空気が通りまーす。そよそよ~~」

 

 ……僕と姫乃の間しかない。


「ご、ご協力ありがとうございました~~。ほな、後は若い二人でごゆっくりとゆーことでね。はい、イチャイチャタイム再開っ!」

 下手くそか! そんなふうに手を叩かれて仕切り直せるメンタル持った日本人がこの世にいるか。

 煮えたぎるような思いで走り去って行く幼馴染みを睨みつけていると、

 ——後はしっかり決めるんやで!

 とばかりに、恩着せがましいウィンクが飛んで来た。

 

 ………あの女、喋ってなくてもマジうるせえ。

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