最期の『あなた』

冷門 風之助 

その1

 お楽に、その男は居心地悪そうに椅子に腰かけている俺にそう言ってから、家政婦が運んできたコーヒーを勧めてくれた。

 何しろ田園調布にある、敷地面積だけで五百坪はあろうかという豪邸の応接間にいるんだ。

 足首まで埋まってしまいそうな絨毯。

 大理石のマントルピース。

 その上に乗っている黒檀の置時計。

 壁には百号ほどの時価1億円はする安井曽太郎の油彩画とくれば、落ち着かないのも当たり前だろう。

 俺の前のソファに腰を掛けているのは、年齢65歳、父親から引き継いだ複数の会社を経営し、さらにそれをここ十年で右肩上がりに拡張してきたやり手の実業家・・・・大野浩平氏である。

 

 心持ち禿げかかった頭髪、穏やかそうな丸顔に銀縁眼鏡、茶色のジャケットにアスコットタイ。背はそれほど高くはないが、恰幅の良さそうな体形は、正しく典型的な実業家と言った風情を醸し出していた。

『津村弁護士から、あらかたのお話は聞いているとは思いますが、私は筋が通っていて、合法的であり、かつ離婚や結婚に無関係な依頼であれば、大抵は引き受けることにしています。後は料金との相談ですが・・・・』

 

 彼は魔法のような手つきで横長のホルダーを取り出し、分厚い小切手の束に万年筆でまず『6』と書き、その後に『0』を5つ続けて書き入れ、丁寧に切り取ると、俺の前に置いた。

『とりあえず十日分前払いということで・・・・確か基本料金一日6万円と必要経費、後は仮に拳銃が必要になった場合は危険手当としてプラス4万円の割増料金、でしたね?』

 なるほど、流石に大企業のオーナー社長ともなれば豪儀なものだ。

 俺は小切手を前に押しやり、そして言った。

『お話を伺いましょう。それで納得が出来れば引き受けます。如何ですか?』

『構いません』

 彼はコーヒーをもう一杯如何ですか?といい、

 家政婦が置いて行った銀製のポットを持ち上げた。


『これを見て下さい。』

 大野氏は黒い革表紙の装丁をした、小ぶりのアルバムを取り出して俺の前に置く。

『拝見します』

 そう言って俺は頁を繰った。

 一番最初の頁にその写真はあった。

 茄子紺の和服に薄茶の帯を締めた女性が椅子に腰かけ、膝に手を置いてこちらに向いている。


 年は50代半ばといったところだろうか、

 特別美人という訳ではないが、かといって不細工というわけでもない。

 年相応、どこにでもいる平凡な顔立ちの熟年女性といったところ、例えるなら松原智恵子を今少し若くしたような、そんな感じとでも言おうか。


『母です』

 彼は自分のカップにコーヒーを注ぎ、ゆっくりとそれを飲んでから、口を開いた。

 母親の名前は大野由紀子といい、元は山陰地方のある資産家の娘だった。

 浩平氏の父親である大野庄造氏とは、見合い結婚だったという。

 夫婦仲は格別熱烈なものではなかったが、別に喧嘩もしたことはなく、どこにでもいる平凡な夫婦だったそうだ。


 父親の庄造氏は金持ちにありがちな傲慢不遜なところがまるでなく、むしろ紳士を絵に描いたような人物で、口数が少なく、穏やかな人格者だった。


 母親の由紀子氏も、別に目立ったところはなく、淑やかで賢く、家事も上手く、子供達にも愛情と、そして時には厳しさを持って接するという、まあ大体に於いて『良妻賢母』と言っても良い女性だったという。

 結婚二年目に浩平氏が生まれ、その三年後に長女が誕生。さらにその二年後にもう一人男の子が生まれた。

 平穏無事な日々が続き、浩平氏が大学を卒業する年に父親が亡くなった。

 彼は父が経営していた会社の一つに入社し、そこでまず言ってみれば将来の経営者になるべく修行を積み、結婚。そうして父が亡くなってから7年後に本社の重役になり、やがて社長に就任した。

 母親は、彼が社長になってから三年後、75歳の時に亡くなった。

 約一か月病床に伏した後の逝去だった。

 最期を看取ったのは、彼と彼の妻、そして妹夫婦と弟夫婦だったが、意識が薄れかけた時、彼女はある言葉を呟いた。

『その言葉について、調べて欲しいというのが、今回の依頼なんです』

 浩平氏は目を伏せ、暫く黙った。

『で、何とおっしゃったんです?母上は』

『母はその瞬間、両手を上げ、何かを求めるような仕草をして、そしてはっきりした口調でいいました。”あなた”と・・・・・』

 


 

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