2021/01/12 帰還する病

お題:【病】をテーマにした小説を1時間で完成させる。



 小学校の授業から体育がなくなったのは、国民の七割が身体を失ったからだ。身体を失ったという表現は六十年前に評論家内部眼太郎うつべがんたろうが使ったものだが、人類はみずから望んで身体を手放したのである。

 人口の半数が肉の檻を捨てて電子の海に還っていた(還る、というのもかなり恣意的ではある)とき、世間ではまだ分かれていく人々の生き方について激論を交わしていた。精神化できる人とできない人、彼らの生活は圧倒的に乖離していったし、互いに反発し合っていたのもそう古い記憶ではない。五感のすべてを手放した人々は急速に思考力を身に付けていき、およそ現実離れしていた彼らを〈ヒト〉と呼称すべきかも低次ネットワークでは日夜交わされる議論が観測された。

 〈彼ら〉――とあえて呼ぶことにする、彼らを後押ししたのは何も利便性や思想だけではない。劣悪な自然環境を醸成しつつある星、多層構造化して太陽の光すら忘れてしまった街、それらの環境で複合的に生み出される未知の病、肉体を持つ者の精神が疲弊していくのは脆弱だったからとは言い切れないのである。生きるべきか死ぬべきかを問われた人間が自己保存に則って、自我だけでも残したのはある種人間的であると言えるかもしれない。世界的、歴史的事情が後押ししたのであると言えば、少しばかり彼らに憐憫の感情を持っても不思議ではない。

 

 ◆


 あっちの世界に行ってしまった薫ちゃんとは、もう二年ほど会話をした記憶がない。あっちの世界では時間の進みも私たちとは異なるらしい。私が二年待ったなら、薫ちゃんは十年も二十年も年を取ったのだろうか。それは少し淋しい気もする。

 私が相も変わらずに空気に触れながら生活しているのは、冷たくなっていった夫を思い出してしまうからだ。

 薫ちゃんの身体も立会人となった私の前で溶けていった。きっと彼女の魂が抜けた身体は冷たくなっていったのだろう。

 右手で左手首を握ると右手の温かさと左手首の冷たさに戸惑ってしまう。そもそも私も温かったのだろうかと。


 ◆


 ある日、電子の海から戻ってきた者がいた。偶々打ち上げられたのかもしれない。ともかく〈彼ら〉の一部が戻ってきたのだ。しかし彼らの身体はそのすべてが冷凍保存をしていた訳ではない。

 例えば〈彼ら〉は別の人間に間借りしていた。親しい友人、生き別れた兄弟、自らの旅立ちを看取った立会人に、はたまた見知らぬ第三者に。その様子が観測できたのは、憑依された人たちがそのように伝えたからである。

 だが、国民の過半数が海へと飛び出していったいまの社会に〈彼ら〉すべてを受け入れる容量はなかった。

 例えば〈彼ら〉は物に宿った。日本では八百万エイト・ミリオンという神様の言い伝えがあるが、友人の家の椅子やテーブル、自動配給機やネットワーク端末などに宿った。観測することができたのは、電子の海にいる〈彼ら〉から我々にアプローチがあったからである。

 曰く。


物理現実そっちの世界に誰某が戻っていったよ。今度は泡立て器にログインしたみたいだ》


 こう書くと、「電子の海も物理現実の一つに違いないだろ」と反論の一つも投稿されそうだが、アプローチしてきた〈彼ら〉の意図(あるいは糸)を尊重する、と予防線を張っておく。

 泡立て器だろうが、マッサージ器だろうが、セルロイドの人形に宿ろうが我々には直接〈彼ら〉の存在を認知することは能わない。しかし、そのように言われるとその存在を意識せざるを得ない。もしかしたらこれを入力しているソケットにも誰かの自我が入っているかもしれない。

 では、なぜ〈彼ら〉が半永久とも言える現実を手放してしまうのか。それを問うと、アプローチしてきた者は次のように答えた。


《さあね。ホームシックって奴じゃない》


 アプローチしてきた者が残した【ホームシック】という言が適当ではないと思い、私は物に対する郷愁――【フィジクス・シック】と呼ぶことにした。

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