第266話 9月14日(……やるべきことをやってこそ、ですよね)

 『必要になった時、ないと困ると思ったんだ』と、彼は夏の盛りに告げた。


(まさか、本当に必要になるなんて……)


 しんと静かな部屋の隅に置かれた防具袋を見て、思わず溜息が漏れる。

 防具袋の傍には布袋ぬのぶくろくるまって寝息をたてる竹刀まで立てかけてあって……ゆっくりと手を伸ばした。


 指先に触れる軽く、硬い感触。

 袋の頭で結ばれた紐を解くと……白いつかが顔を見せた。


「……久しぶり」


 つい、懐かしいぬいぐるみと目が合った時みたいに語り掛けてしまう。

 当然返答はない。

 だが、袋から抜いて柄をぎゅっと握り直した途端――、


『本当に、久しぶりだな……』


 ――と、呆れられた気がした。

 その後、げんが緩んでいたので結び直し、つばと鍔止めを取り付ける。

 ピンと張った弦を見ていたら、少し素振りがしたくなった。


 そして、今だけはこの気持ちを誰にはばかることもない。


 竹刀を携えて、部屋を出る。

 玄関のドアを開けて庭に出た瞬間――初秋の涼しい風に、心地よく頬を撫でられた。


 夕暮れが近づく中、構えた竹刀の切っ先だけを見つめる。

 指先へ掛かる重さが手に馴染む。

 自然と背筋が伸びていき、気付けば踵が上がっていた。

 ほんの少し……目線が高くなる。

 何も変わらない日常の景色が、やたらと懐かしく思えた。


 しかし、久々に感じた気分の高揚もここまで……。

 だんだんと気持ちが凪いでいき、竹刀を振りあげ、振り降りすことに集中し始める。


 けれど、素振りをし始めて数分が経ち――ふと、視界の端に彼を見つけて体がぴたりと静止した。

 無言のまま彼と目を合わせ『どう?』と訊ねる。

 すると「一年ってのは長いよな……」とだいたい予想通りの答えが返って来た。


「……わかってます」

「でも、まだ巧いよ」

「…………」


 ブランクがあるのはわかりきっていたことだ。

 唯一救いがあるとすれば、ランニングのおかげで体力だけは多少取り戻していることか……だけど、それでも去年の自分とは比べようもない。


「……明日から、学校休んじゃダメですか?」


 少しでも去年の自分に近付くための時間がほしい。

 そう思って口にしたが――、


「それで君は、秋ちゃんに胸が張れるのか?」


 ――すぐに自分の発言を恥じた。


「……張れない。だって、秋はやるべきことをやった上で剣道と向き合っていたんだから」

「ああ。そうだな」


 彼に頷き、素振りを再開する。

 それから彼は、黙々と竹刀を振る私に向かって「学校が終わった後でなら、いくらでも練習に付き合うからさ」と笑いかけた。

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