第257話 9月5日(なんで……秋がつらそうな顔になるの)
手に竹刀を握っていた。
目の前には、去年――大会で戦った相手が立っていて……振り返ると剣道着を着た彼がチームメイトに混ざっている。
これは、ありえない事態だった。
しかし、瞳に映った光景を否定しようとした直前、対戦相手へ向き直ると垂れの文字が変わる。
『栗原』
視界に飛び込んで来た後輩の名前を見た瞬間――私は、これが夢なんだと気付いた。
◇
まぶたを開いた瞬間、視界いっぱいに自室の天井が広がっていた。
布団に隠れていた手を顔の前まで持ってくるが……当然、竹刀など握っていない。
空の手をベッドへ降ろすと、つい口から溜息が漏れ――瞬間的に、自分へ問いかける。
『今の溜息はホッとしたから吐いたの? それとも、がっかりしたから?』
「…………」
意地悪な自分の質問には答えない。
いや、答えられないという方が正しい。
自己嫌悪に陥りながらベッドから抜け出す。
カーテンを開けると絵の具を綺麗に塗り広げたような青空が広がっていて……決して口には出さないが、夢の中だけでも竹刀を握れたことが嬉しかったんだと自覚した。
「……嫌な夢」
◇
今朝見た夢のことは彼に話さないつもりでいた。
オチがない夢の話なんてつまらないし……なにより、内容が内容だ。
『夢に見るくらいなら、秋って子と本当に試合をしたらいいじゃないか』
……ここまで直接的なことは言わないだろうけど、遠回しに背中を押されてしまいそうな気がする。
それは、良くないことだ。
だって、私はまだ自分を許していない。
剣道に暴力を持ち込んだこと……これは、誰に許されたとしても、私自身だけは許してはいけないと考えていた。
なのに彼は、自罰的な私に代わって、私を許そうとしている節がある。
とんだお節介だ。
そう考えながら彼の顔をじぃっと睨みつけていると、
「……なんだ? 今朝は嫌な夢でも見たのか?」
一瞬、同じ夢を見ていたのではと思わされた。
「まさか。むしろ、今朝の夢見はよかったです」
強がりを言いながら飲む珈琲は、やたら苦く感じる。
追求されるかと警戒したが、彼は「なら、その顔はやめなさい」なんて言ったきり、それ以上突っ込んで来なかった。
(……まあ『夢見がよかった』はあながち嘘でもないしね)
それにしても、夢というのは本当にいい加減だ。
彼が剣道着を着て現れたこともでたらめだし、なにより――面をつけていれば、離れた対戦相手の表情があんなにハッキリ見えることはない。
悲しそうな秋の顔なんて、見える筈がないのだ。
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