第233話 8月12日(……ドーナッツ、美味しい)

 芽衣さんが帰る前に軽く挨拶をしたかっただけなのに、


「遠慮せず食べてね」

「……いただきます」


 気付けば、目の前には大量のドーナッツが並んでいた。

 芽衣さんから促されるまま、一つ手に取って口へ運ぶ。

 甘い香りに鼻腔をくすぐられながら、やわらかい生地へ唇が触れると……シュガーパウダーが舌の上で溶け始めた。


「……美味しい」


 思わず口元が綻んでしまう中、彼は難しい顔になる。

 だが、彼とは打って変わって芽衣さんは楽し気だった。

 不機嫌そうに紅茶を淹れる彼へ、芽衣さんが「……ねっ?」と話しかける。


「作ってあげて良かったでしょ?」

「別に、俺はちなへ食べさせる為のドーナッツ作りには反対してなかっただろ?」


 差し出されたカップが受け皿の上でカチャリと音を立てた。

 普段の彼ならありえない物音だ。


(……状況はよくわからないけど)


 どこか苛立っている様子の彼へちらりと目線を送り……もぐもぐしつつ考える。


(大人になっても……親って変わらないんだなぁ)


 もう、二人きりの時には見せてくれなくなった、こども染みた反応。

 昔の彼を思い出して、ドーナッツの甘さとは別に口角が緩んでしまうのだった。



「結局、何が原因で小母さんと喧嘩なんてしてたの?」


 芽衣さんが帰った後で訊ねてみたら、彼は「別に、喧嘩をしていた訳じゃないんだが……」と、バツの悪そうな顔で答えた。


「帰り際になって、母さんがおかずの作り置きを作るって言いだしてな」

「おかずの……? ありがたい話じゃないですか?」


 芽衣さんのことだ。数日分のおかずを一度に作って、冷凍しておくつもりだったんだろう。

 もし私が一人暮らしで芽衣さんから同じことを言われたのなら……きっと手放しで喜ぶ気がする。


「はぁ……」


 しかし、溜息を吐く姿から察するに……彼は違ったらしい。


「なんていうか、俺はさ……母さんには、母さんの時間を大切にしてほしかっただけなんだ」


 年相応に大人びた瞳で、彼は愚痴をこぼす。

 年下の女の子にではなく……幼馴染のちなへ。

 だからだろうか?

 慣れ親しんだ距離感から語られた言葉のおかげで――彼の言いたかったことがわかってしまった。


「要するに。あなたのお世話じゃなくて、向こうの家族に自分の時間を割いてほしかったんですね?」

「ま、そうなるか……でも、だからこそ途中でちなが来てくれて助かったよ。あのままじゃ、何も作ってもらわないで喧嘩になってたと思うからさ」


 返された笑顔に、私はやれやれと溜息を吐いた。

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