第93話 3月25日(……別に、昔から魚好きでもなかったけどね)

「んぅ……?」


 むくりと体を起こすなり、隣の布団で眠る茉莉が視界に入った。

 朝方特有の春らしからぬ寒気を感じながら、自分が祖父の家に来ているんだと思い出す。

 それから、枕元に置いてあったスマホへと手を伸ばし……、


「……まだ、5時」


 冬と言っても差し支えない肌寒さに身を震わせながら起床した。

 普段なら、まず間違いなく二度寝を選ぶ時間帯だ。

 しかし、ここには祖父がいる。

 そう思うだけで自然と背筋が伸びた。



 茉莉を起こさないよう部屋着に着替え、剣道場へ向かう。

 予想通り、そこには祖父がいた。

 祖父は一人で黙々と広い剣道場の床にモップを掛けている。

 だが、私が来たことに気付くとぴたりと足を止めた。


「……起きたか」

「ん……何か、手伝うことある?」


 直後、祖父はこちらに近付くなり、


「代われ」


 ずいっと持っていたモップを突きだしてきた。



 寒いのは嫌いだし、暑いのも苦手だ。

 本来、剣道なんて私には向かない。

 冬は寒いし、夏は暑いからだ。


 冬は刺すように冷たい床の上を、素足で歩く。ほとんど拷問に近い。

 夏は夏で、風通しが悪く蒸し熱いサウナみたいな場所で防具をつけて動き回らねばならない。


 だが、それでも――、


「……きっと、好きだった」


 ――人のいない剣道場を見つめ、噛みしめるように呟く。


 氷上に等しい床の上で踵をあげ――ぴんと背筋を正して立つのが好きだった。

 額から流れ出る汗が鼻筋を通り、暑さで倒れそうな中――竹刀を握りしめながら、すっと熱がひいたように冷静さを取り戻す瞬間は他じゃ味わえないと思った。


 でも、だからこそやめた。


(……そう。やめたんだよね)


 こうして剣道着でない服装で床を踏みしめている今だからこそ……強く感じてしまう。

 祖父も、さっきはただ『代われ』といってモップを差し出してきたけど……。


(やめたと知っていなかったら、まず『着替えてこい』って言われてた……)


 昔に『道場に入ったら私のことは先生と呼びなさい』って言われていたけど……今なら『おじいちゃん』と呼んでも許される気がした。

 うん。きっと許される。

 その甘さが……ひどく心地悪い。


 そんなことをぼうっと考えていると、


「……終わったか?」


 祖父が穏和な声で訊ねる。


「ん……一応」


 一瞬、祖父を『先生』と呼ぶか迷いながら――一礼をして、剣道場の敷居を跨いだ。


「おじちゃん、今朝はご飯どうするの?」


 ここで敷居の外なら、私はただの不愛想な孫娘だ。


「そう、だな……魚でも焼くか。好きだったろ、魚?」

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