わたくし、シロクマのシロと申します。

沢丸 和希

1‐1.最初から大ピンチです



 ……あら?



 目を開くと、そこは森の中でした。

 可笑しいですね。わたくし、お部屋の中にいたと思うのですが。



 きょろきょろと辺りを見回すも、特に見覚えはありません。木々が生い茂り、草も地面から伸び放題。青空から降り注ぐ太陽の光が、非常に心地良いです。お昼寝日和と言っても過言ではありません。

 本来ならば体を横たえ、うたた寝に興じたい所ですが、生憎そのような場合ではないと、流石のわたくしも分かっております。なんせ野生動物らしき気配が、其処彼処からしますもの。



 ……あらあら?



 “流石のわたくし”、と申しましたが、一体どのようなわたくしなのでしょうか? 自分のことなのに、何故か何も思いつきません。

 名前も、年齢も、何をしていたのかも、思い出せません。



『可笑しいですねぇ』


 と、言ったつもりでした。



 しかし、私の口から出てきたのは、ギアーという動物めいた鳴き声のみ。



 しかも、触った頬は妙に毛深く、そして頬を触った手も、妙にもっさりとしております。




 見れば、わたくしの手は、いつの間にか前足に変わっておりました。可愛らしい肉球が、白い毛で覆われています。足も、太くがっちりとした動物の後ろ足となっておりました。



 ……わたくし、自分はずっと人間だと思っておりましたが、実は動物だったのでしょうか?



 はて、と小首を傾げても、答えは分かりません。

 取り敢えず、この場から移動でもしてみましょう。そう思い、わたくしはどっこいしょと腰を上げました。




 瞬間、頭上が陰ります。



 かと思えば、背中を勢い良く引っ張られました。



 わたくしの足が、地面から強制的に離れます。




 あっという間に空高く持ち上げられ、森が体の下に広がりました。




『……あら?』


 何故わたくしは、空を飛んでいるのでしょう?


 そんなことをしようとした覚えはありませんが、と振り返ってみれば、逞しい鳥さんの足が、わたくしの体を掴んでおりました。

 ばっさばっさと羽ばたく翼も大きく、しゅっと研ぎ澄まされたお顔は、恐らく鷹さんなのではないでしょうか。若干大きすぎると申しますか、獰猛すぎるお顔立ちな気もしますが、まぁ、猛禽類であることは確かでしょう。




 そんな猛禽類にがっちりと捕まえられたまま、空輸されるわたくし。




 ……非常に不味い状況なのでは?




『あ、あのー、鷹さん? どちらへ向かっていらっしゃるのでしょうか。わたくし、下ろして頂きたいのですが』

『そいつは無理だね』


 鷹さんは私を見下ろすと、鋭いまなじりを吊り上げました。



『だってあんたは、うちの子達のご飯になるんだから』



『……ご飯、ですか?』

『そう』

『…………えっと……どなたが?』

『あんたが』

『………………わたくしが?』

『だから、そうだって言ってるだろ?』



 ぽかーんと口を開けるわたくしに、鷹さんは一層眦を歪めます。心なしか、楽しげにくちばしも鳴らしました。



 ……取り敢えず、分かったことが一つ。




 わたくし、大ピンチです。




『は、離して下さいっ。わたくし、美味しくありませんのでっ』

『なに言ってるんだい。こんなに肉が柔らかくて、真ん丸に太ってるんだ。美味しいに決まってるじゃないか』

『そそそそ、そのようなことはございませんっ。こう見えてわたくし、意外と筋張っておりましてっ。癖も強く、とてもとても鷹さんのお子さん方が好むような味ではありませんのでっ』

『安心おし。うちの子達が気に入らなかった時は、ちゃーんとあたしが食べてあげるからね』

『全くもって安心出来ませんよぉぉぉっ!?』



 わたくしの全力を持って抵抗しておりますが、鷹さんの足はびくともしません。



 そうこうしている内に、森は終わり、海が見えてきました。

 鷹さんは、海の上をすいすいと飛んでゆきます。



『この先の島に、あたしらの巣があるからね。もうちょっとで着くから、大人しくしてるんだよ』


 優しい声が、非常に怖いです。着いてしまったら、それすなわち、わたくしの最期というわけですね。絶対に嫌です。


 どうにか逃げようともがきますが、一向にどうにもなりません。

 そもそも、ここで解放されようものなら、海へ真っ逆さまです。わたくし、自分が泳げるのか分かりませんし、そもそも動物の足での泳ぎ方など分かりません。つまり、四面楚歌という奴ですね。



 うぅ、何故このようなことになったのでしょう。図らずとも涙が込み上げてきます。己が何者かも分からぬ内に食べられてしまうのでしょうか。そんなの嫌です。

 どうしたら助かるのか、親切などなたか教えて下さい。

 もしくは、親切などなたか助けて下さい。お願いします。



 そのように祈りながら、懸命に全身をくねらせていましたら、不意に、前方へ大きな船が見えてきました。クルーズ船とでも言うのでしょうか。スタイリッシュな曲線を描く、真っ黒い大型船です。



 ……いえ。あれは……はて? 船……なのでしょうか?



 わたくしの見間違いでなければ、水面から浮いているように見えるのですが……。




『……何にせよ、好機です』



 わたくしは、大きく息を吸い込み、全身全霊を掛けて、叫びました。



『そちらの船の皆さーんっ! 助けて下さーいっ! わたくし、このままでは鷹さんに食べられてしまいますのでーっ! どうかお助けをーっ!』



 ギアーギアーッ、とけたたましい動物の鳴き声が、辺りに響き渡ります。

 船のデッキにいた方々が、何事だとばかりにこちらを見ました。

 や、やりましたっ。後は、棒でも槍でも使って、鷹さんからわたくしを救出して頂ければ……っ!




『無駄だよ、あんた』



 鷹さんは、呆れ気味な溜め息を吐きます。



『あんたを助けた所で、あいつらに何の得があるっていうんだい。そもそも、あたしは子供らの為に食べ物を運んでるだけだよ? 普通のことしてるだけなのに、なんで関係ない奴らに手ぇ出されないといけないのさ。可笑しいだろ』


 う、そ、それは、確かに、そうかもしれませんが。


『あいつらだって、何の得にもならないことを、わざわざするわけがない。そんな義理もないんだ。助けてなんか貰えないよ。諦めな』



 馬鹿な子を見るかのようにこちらを一瞥すると、鷹さんは高度を上げました。船の上を、悠然と通過していきます。

 そんな鷹さんを、わたくしはただ眺めていることしか出来ません。



 視界が、段々とぼやけてきます。鼻水も出てきて、何度啜っても止まりません。



 ぐす、ぐす、と鼻を鳴らしながら、わたくしは遥か下にある船を見下ろします。

 デッキには、先程よりも人が集まっているようです。こちらを見上げて、何やら喋っています。

 ですが、助けてくれる素振りはありません。

 つまり、鷹さんの言うことは、正しかったということなのでしょう。



 絶望が、わたくしの体を蝕みます。白い毛で覆われた足も、小刻みに震えています。

 あぁ、わたくしは何か悪いことでもしたのでしょうか。記憶がないので分かりません。ですが、仮に何かしていたとしても、鷹さんに食べられる程ではないと思います。なのに、この仕打ち。酷いです。神様はわたくしが嫌いなのですか? 善良な淑女を、地獄に突き落とすような真似をして……っ。




『うぅ……か、神様の馬鹿野郎ぉぉぉーっ! 恨みますからねぇぇぇぇーっ! うわぁぁぁぁぁーんっ!』




 鼻をずびずび滴らせ、わたくしは駄々っ子のようにのたうち回ります。鼻水と唾が舞い散り、時々顔や体に付きますが、知ったことですか。せめて一矢報いてやらなければ、わたくしの気が納まりません。例えはしたなかろうとも、前足と後ろ足をこれでもかと振り回し、なりふり構わず暴れてやりますともっ。

 えいえいっ、このこのっ。



『生きがいいねぇ。これだけ元気なら、さぞ美味しいに違いな――』




 その時。



 パァンッ、という破裂音が、下から聞こえました。




 次いで、ヒュッ、と空気の切れる音と、トシュッ、と何かが貫通する音が、間近で上がります。

 小憎たらしい鷹さんの声も、途切れました。




 船の上を通過する速度も、急激に落ちていきます。




『はぁ、はぁ……あら? どうしたのですか、鷹さん?』



 もしや、わたくしを解放して下さる気になったのでは、と、期待を込めて振り返りました。



 鷹さんは、白目を剥いて項垂れています。



 思わず、ぎょっと目を見開いてしまいました。

 しかもわたくし、ある事にも気付いてしまいます。




 鷹さんの立派な翼が、動いておりません。



 飛行中の鷹さんが、唐突に羽ばたくのを止めてしまった。

 それは一体何を意味するのか?



 ……嫌な答えが頭をよぎり、わたくしの白い毛が、ぶわわっと逆立ちます。




 ほぼ同時に、視界がガクンと下がりました。




 鷹さんの足から解放され、わたくしは、宙に投げ出されます。



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