怠惰 sloth_07
おっ、と驚いたような声を上げ、堅城は常の嫌味な調子で訊ねる。
「そっちの首尾はどうです、二階堂主任?」
「特に進展は無いですね」
「へえ、そうスか。よう、イチネン」
「ヒトトセですよ、堅城さん」
但馬はこそっと片手を上げて晴翔に挨拶した。どうやら堅城と組んで荒っぽく扱き使われているようだ。官給品のスーツに皺が寄り、げっそりやつれて見える。
堅城は横目でじろりと二階堂を睨み、ちっと舌打ちをした。
「こんなことは言いたくないが、二階堂主任、あんたこの帳場になって変わったよな」
ピリッ、と二階堂は緊張した。いつも粘着質に突っかかってくる堅城だ。また嫌味を言われるのだろう。その都度、極力、相手にしないように、気にしないようにと努めて来たが、回数が重なれば、その分ストレスも腹立ちも倍増する。今回も嫌悪感が顔に出ないよう自制しなければと身構える。
「変わりましたか?」
硬い口調で応じたが、意外にも堅城はねちっこいトーンにはならなかった。
「ああ、変わった。これまではお高くとまってタクシーでさっさと帰宅してたのが、今は帳場に泊まり込んで若い奴とも飲みに行ってるようだし、悪くないんじゃないか」
「悪くない……ですか?」
「ああ、悪くないと思うぜ」
唐突にそんな事を言われて、二階堂は面食らう。どうにも折り合いが悪いと思っていたのだが、憎まれていたわけではないという事だろうか。もしや、堅城の理想とする刑事のスタイルと二階堂が違い過ぎて歯痒く思っていたというところだろうか。
二階堂の考えを読んだように堅城は言葉を継いだ。
「着る物も、もっと刑事らしくなれば合格点に近付くんだけどな」
「すいません、ろくな服を持っていないんです」
一着三十万円は下らないオーダースーツの三つ揃えを着て言う台詞ではないが、二階堂の本音だった。実際、このスタイルで過ごす事に限界を感じていた。
くはは、と堅城は笑う。
「量販店で買えよ。思いっきり安いヤツをヒトトセに選んでもらえ」
「はあ……」
「しかし、今度の
「そうですね。関係者の口が重くてろくな情報を集められません」
「サボってるわけじゃないんですけどね」
晴翔が両手を広げて肩を竦めると、あの堅城が怒鳴るでもなく、晴翔の肩に腕を回し、だよな、と気さくに頷く。驚いた。
「地取り班もサボってなんかいないぞ。二丁目の店に片っ端から聞き込みをかけているんだが、鵜辺野を見たと証言する者がいない。客に話を聞きたいっつうと筋肉ムキムキのママに迷惑そうにされて追い払われるのが関の山だ」
「犯人がどこで鵜辺野をナンパしたのかもサッパリ分からないんです」
普段は図々しい但馬が遠慮がちに口を挟み、堅城が似合わない事を言う。
「イタリアマフィアの
「オメルタ……日本にも見た事を証言しない場所があるってことですか?」
二階堂が問い掛けると、堅城は複雑な表情で低く呻いた。
「そりゃあ、あるよ。新宿二丁目に限った事じゃない。この近場だと歌舞伎町辺りもそうだ。犯罪組織の息がかかった歓楽街は大抵そうだよ。日本各地にそういう場所はある。事情を弁えた奴らは事件が起こると報復を恐れて見て見ぬふりをする。場所に限らず、暴力団絡み、外国人グループや宗教が絡む事件なんかが起きてもそうなる。自分の身を守る為に市民は異常に口が固くなる」
「本来なら得られる情報が得られないという事ですね」
「そうだ。舐めてかかると、この
滑る……事件を解決できないという隠語だ。
***
堅城と但馬のペアとは署を出たところで別れ、二階堂と晴翔は新宿駅に向かった。
三嶋和臣の母親、三嶋千尋に会うつもりだった。
鵜辺野遼の親族の捜査に手出しをするのは鑑取り班の縄張り荒らしになるのでタブーだが、もはや捜査本部が解散になっている三嶋和臣の親族に聴取をかけるのは特捜班の裁量で自由になる。
三嶋千尋弁護士事務所は、恵比寿駅から徒歩五分、総ガラス張りのエントランスが目映い高級テナントビルの七階にあった。
「儲かってそうですね」
「どうかな? 息子が殺人事件の被害者になったんだ。影響が無いわけはないだろう」
事前に電話で連絡をしておいたので、エントランスのインターフォンで名乗るとすぐにオートロックの自動ドアが開きエレベーターホールへ通された。七階の事務所のドアでも再びインターフォンを鳴らし開錠してもらう。
ドアを開けるなり三嶋千尋は口火を切った。
「引っ越し準備で忙しいの。手短にお願いするわね」
言葉の通り、彼女の背後、二十畳ほどの広い事務所は、大量の段ボール箱に占領されていた。辛うじて応接セットの周囲にだけ空間が残っているという有り様だ。二階堂と晴翔の驚いた視線に気付いたのか、千尋は自嘲するように肩を竦めた。
「ここは維持費が高いから閉じるのよ。後は自宅で細々と続けるつもり」
やはり、と二階堂は苦いものを感じた。犯罪は被害者だけでなく被害者の家族の人生すらも突然に変えてしまう。殺人事件の被害者遺族が、マスコミの報道のせいで衆目に晒され、その土地に居づらいという理由で転居する事も珍しくない。中には謂れの無い嫌がらせを受けるケースすらある。
「お茶を淹れるわ。ソファに掛けて待ってらして」
言って、千尋は事務所奥のキッチンスペースに向かった。絶世の美女ではないが、凛とした女性だ。濃い色のルージュが唇の輪郭をくっきりと強調している。捜査資料によると五十三歳になるはずだが、不自然なほどに若々しかった。ブランド物のスーツを纏い、栗色に染めたショートカットの髪は美容院帰りのように隙無くセットされている。
「連続殺人なんでしょう?」
煎茶の湯飲みをローテーブルに置きながら直截に訊かれ、ぎくりとする。連続殺人の可能性があるという発表はまだ為されていないはずだ。なぜ三嶋の母が知っている?
「それはまだ捜査中でして……」
へどもどしながら二階堂が名刺を差し出すと、千尋は鼻を鳴らして引っ掴むようにして受け取った。晴翔も慌てて名刺を出すが、やはり乱暴に引っ手繰られる。
「誤魔化さなくていいわよ。もうニュースで知っていますから。歌舞伎町の事件も遺体が切り裂かれていて、現場には金色の林檎があったのでしょう?」
「ニュース?」
「え? ニュースになっているんですか?」
「知らなかったの?」
三嶋千尋は尖った声で言いながら、リモコンでテレビの電源を入れた。パッと画面が明るくなり、毒々しい赤文字で「黄金の林檎連続猟奇殺人事件」というテロップが目に飛び込んで来た。これまでも三島和臣が殺害された事件はマスコミの扇動で黄金の林檎殺人事件と呼ばれていたが、更に連続猟奇というセンセーショナルな文言が加えられている。
「どこから漏れたんだ……」
思わず零してしまった二階堂を肘を晴翔が小突く。
「二階堂さん……」
すまん、と謝罪しかけたところで、テレビの場面が切り替わり兵藤静香の姿が大映しになった。端正な和服姿の横顔に批判めいたコメントが被せられる。あたかも犯罪を使嗾した諸悪の根源のように扱われており、二階堂は不愉快になった。作品の影響を受けて犯罪が行われると言うなら、もっと世の中には猟奇殺人犯が溢れていなければおかしいではないか。売れた本の部数と猟奇殺人の発生件数に相関関係がなければならない。理屈に合わない。百歩譲って、もしも作品を模倣して殺人を犯すような奴が居たとしても、そいつは元々そういう素質を持った異常者だったというだけだ。作家に罪は無い。
「この兵藤静香っていう作家、男性だったのね。女性だとばかり思っていたわ。作家にしておくのは惜しい美貌ね。俳優なら人気が出たでしょうに」
くす、と控えめに晴翔は笑った。
「同じ事をうちの祖母も言っていました。兵藤先生の大ファンなんです。ちなみに、この映像、一週間前の早朝ニュースの使い回しですよ」
ふうん、と千尋は見下すような目で晴翔を一瞥する。
「気の毒ね。ただ小説を書いただけなのに、こんな事件に巻き込まれて。それにしても、この司会者、腹が立つわ。神妙な顔を取り繕ってるけど、面白がってるのが丸分かり。下劣で無神経で品も教養も無いクズよ」
「怒っていらっしゃるんですね」
晴翔が柔らかな口調でなだめると、千尋は消沈の溜息をついて俯いた。
「ついさっき取材に来た無神経な記者が、訊いてもいないのにぺらぺらと自慢げに喋って行ったわ。警察発表がなくても来週発売の週刊誌に事件の特集記事が載るそうですよ。見出しは、『ゲイの男性を狙った異常犯罪、黄金の林檎連続猟奇殺人事件、同性愛者の闇に迫る』――ですって。三文記者が何に迫れるって言うのかしら。笑っちゃうわよね?」
喉の奥でかすれた嘲笑を転がしながら、千尋はリモコンに手を伸ばし、手入れの行き届いた指でテレビの電源を落とした。
「無差別殺人なの? それとも、和臣も鵜辺野さんも個人的な理由で狙われたの?」
「分かりません。捜査中です」
二階堂は持参したボイスレコーダーのスイッチを入れ、ローテーブルの上に置いた。よろしいですか、と声を掛けると千尋は黙って首肯する。
「和臣さんの事を少し聞かせて頂けないでしょうか。どんな性格の方だったのか、お母さんの口から伺いたいんです。今のところ警察が掴んでいる和臣さんの人物像は、品行方正で、明るく気さくで誰もに好かれる善良な人だったというばかりで、取り付く島が無いのですよ。何でもいいんです。些細な事が手掛かりになるかもしれません」
「あの子、外面が良かったから……」
迷いを誤魔化すように千尋は前髪に指を入れる。隙無く整えられた髪が乱れて、年相応の疲れと悲哀の陰が額に落ちた。
「なんて言えば良いのかしら、決して暴力的な言動をする事はありませんでしたけど、やんわりとした物言いでも逆らえない雰囲気がありました。言葉で人を思い通りに操るのが上手かったんです。遠回しに要求を伝えられて、最初はそれが要求だって分からないんです。こちらは言いなりになったつもりは無くても、結局、事態はあの子の思い通りに運んでいたという事は頻繁にありました」
「人を支配するようなタイプだったという事ですか?」
「ええ、分かり難いやり方だったので、他人は気付いていなかったと思います。長く一緒にいないと気付けないような、とても慎重なやり方です」
短い沈黙。それで、この母親にも懊悩があったのだろうと察しが付いた。
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