第37話 甘えん坊な彼女

 翌朝の早朝四時半、芳樹は緊張した面持ちで瑞穂ちゃんが降りてくるのを玄関前で待っていた。

 全てを瑞穂ちゃんに伝える覚悟は出来ていた。

 深く深呼吸を繰り返し、瑞穂ちゃんが現れるのを待つ。


 しかし、十五分以上過ぎても、瑞穂ちゃんが玄関へ降りてくることはなかった。

 不思議に思った芳樹は、足音を立てることなく忍び足で二階へと上がり、瑞穂ちゃんの部屋の前で立ち止まる。

 そして、他の住居人を起こさないよう、コンコンっと小さくノックした。


「瑞穂ちゃん。起きてる?」


 部屋の中へと声を掛ける。しかし、中から反応はない。

 ドアの取っ手を回すと、鍵がかかっていなかったようで、ドアが軽く開いた。

 僅かに空いた隙間から部屋の中を覗き込むものの、暗闇に包まれており、様子を窺うことは出来ない。


「瑞穂ちゃん。入るよ?」


 恐る恐るドアを開けて部屋に入ると、部屋は常夜灯の光が灯り、微かに薄暗く部屋全体を映し出していた。

 部屋を見渡せば、ベッドに横になり、スヤスヤと眠る瑞穂ちゃんの姿を見つける。

 そして、芳樹はすぐさま、彼女の異変に気が付いた。

 瑞穂ちゃんは顔を顰めて、苦しそうな表情で口呼吸をしながら息を荒げている。


「瑞穂ちゃん!」


 芳樹は慌てて部屋の明かりを点けて、ベッドに寝転がる瑞穂ちゃんの元へと駆け寄る。

 しかし彼女は、芳樹に気づくことなく苦しそうに呼吸を繰り返しており、額には大量に汗を掻いていた。


「ちょっと失礼……」


 一言詫びを入れてから、瑞穂ちゃんの額に手を当てる。

 彼女の額は、やけどしてしまいそうなほど熱を帯びていた。


「凄い熱だ……」

「うぅ……」


 すると、瑞穂ちゃんが目を覚ましたらしく、苦しそうに唸り声を上げる。


「瑞穂ちゃん。起きた?」

「うぅ……頭痛い……」

「凄い熱があるから、寝転がったまま待ってて。今体温計持ってくるから」

「うん……わかった」


 素直に指示に従う瑞穂ちゃん。

 弱り果てた彼女の声音を聞き、芳樹は急いで部屋を飛び出してリビングへと向かう。

 瑞穂のストレスは、彼女の身体を体力的にも蝕んでいたのだ。


 ピピピピッ……。

 計測が終わった音が鳴り、瑞穂ちゃんの脇から体温計を取り出す。


「三十八度八分……」


 かなりの高熱。


「これは、朝一で病院に行った方が良さそうだな」

「ダメ。今日も収録があるから……」


 そう言って、瑞穂ちゃんが無理やり起き上がろうとする。


「ダメだよ、こんな熱があるのに動いちゃ。フラフラなんだから」

「熱出したくらいで休む方がダメ。他の人に迷惑がかかっちゃう」

「そんなこと考えなくていいから、今は自分の身体のことを第一に考えて」

「うるさい! あんたに何が分かるのよ」

「分かるよ……少なくとも瑞穂ちゃんが無理してることぐらいは」

「……!?」


 芳樹は瑞穂ちゃんを、真剣な瞳でじっと見据える。

 どんなわがままだろうと、今回だけは絶対に許さないという強い意志を込めて……。


 見つめ合うこと数秒。

 瑞穂ちゃんは根負けしたようにため息を吐く。


「分かったわよ。今日は大人しくしてる」

「いい子だ」


 瑞穂ちゃんが言うことを聞いてくれて安堵する。

 芳樹は思わず子供をあやすかのように、瑞穂ちゃんの頭を撫でてしまう。


「子ども扱いすんなバカ。マネージャーさんに連絡入れるから、スマホ取って」

「はいはい」


 近くに充電してあったスマートフォンを充電プラグから外して、瑞穂ちゃんに手渡してあげる。


「ありがとう」

「どういたしまして。それじゃあ俺は、色々準備とかしてくるから、ゆっくり寝っ転がっててね」

「分かってるわよ」

「それじゃ」


 そう言って芳樹は立ち上がり、一旦部屋を後にする。

 瑞穂ちゃんも、もう無理に仕事に行こうとする気はないようで、大人しくベッドの上でスマートフォンを操作して、マネージャーに連絡を入れようとしていた。


 芳樹が瑞穂ちゃんの部屋からキッチンへと向かうと、起床してきた霜乃さんが立っていた。


「あら、芳樹さん。今日は随分早く帰ってきたのね」

「おはようございます霜乃さん。いえ、それが……」


 芳樹は瑞穂ちゃんが体調を崩したことを簡潔に霜乃さんへ説明した。


「まあ、それは大変だわ」

「はい、なので霜乃さんには申し訳ないのですが……」

「ええ、分かっているわ。芳樹さんは、瑞穂ちゃんの面倒を今日一日付きっ切りで見てあげて頂戴。掃除などは代わりにやっておくから」


 霜乃さんの察しが良くて、本当に頭が上がらない。

 今度、何かお礼にプレゼントでもしてあげよう。


「ありがとうございます。ご迷惑をおかけします」

「いいのよ。それに今は、芳樹さんが瑞穂ちゃんには必要だと思うから」


 そう言って、霜乃さんは優しく笑みを浮かべて快く管理人の仕事を引き受けてくれた。

 芳樹は早速、瑞穂ちゃんのためにおかゆを作り、冷蔵庫で冷やしておいた冷えピタを持って、再び部屋へと向かう。

 コンコンとノックしてから部屋の中に入ると、瑞穂ちゃんは横になって寝息を立てて眠っていた。

 けれど、相変わらず息は苦しそうで、呼吸もまだ荒い。


 芳樹は眠っている瑞穂ちゃんの横で膝立ての状態になり、瑞穂ちゃんの額に冷えピタを貼ってあげる。


「ちょっと冷たいけど我慢してね」


 優しく丁寧に冷えピタを貼ってあげると、瑞穂ちゃんの眉がピクッと反応した。


「……芳樹?」


 か細い声で首を微かにこちらへと動かして名前を呼ぶ瑞穂ちゃん。


「ごめん、起こしちゃったかな? おかゆ作ってきたけど、食べれそう?」


 瑞穂ちゃんは首を横に振る。


「プリンとかヨーグルトもあるけど、一口でも食べれないかな? 胃に何か入れておかないと、解熱剤飲めないから」

「うぅ……頑張る」


 頑張って起き上がろうとする瑞穂ちゃんの背中を、芳樹は優しく支えてあげる。


「芳樹……」

「ん、どうしたの?」

「あーん」


 すると、瑞穂ちゃんは口を小さく開けて、芳樹に食べさせるよう指示してくる。

 普段の瑞穂ちゃんからは考えられない甘えん坊っぷりに、芳樹も驚きを隠せない。

 けれど今の瑞穂ちゃんは弱っている。それくらい甘えさせてあげてもいいと思った。


「分かった。プリンでいい?」

「うん……」


 目を瞑って口を開けたまま待つ瑞穂ちゃん。

 芳樹はスプーンでプリンを一口分すくい、瑞穂ちゃんの口へと運んでいく。


「はい、あーん」

「んっ……」


 プリンを口に含むと、瑞穂ちゃんは何度か噛んで、ごくりと飲み込んだ。


「くすり飲めそう?」

「うん、頑張る……」


 可愛らしい声で頷く瑞穂ちゃん。


「はい、あーん」

「あー」


 小さく開けた口元に解熱剤を入れてあげて、瑞穂ちゃんの手にコップを手渡す。

 瑞穂ちゃんはコップを口元へと持って行き、自らの力でゴクゴクと水を飲み干していく。


「んっ!」


 そして、飲み干したコップを芳樹に手渡してくる。


「はい……よくできました」

「んふふっ……」


 目を瞑ったまま、にっこりと微笑む瑞穂ちゃん。

 もうそこにいるのは、普段のつっけんな態度をとる瑞穂ちゃんではなく、親に甘えたがりの幼女のような女の子だ。

 芳樹はもう一度、瑞穂ちゃんの背中を支え、ベッドに寝転がせてあげる。


「それじゃあ俺は下に行くけど、何かあったらすぐに呼んでね」


 そう言って芳樹が立ち上がろうとすると、服の裾をきゅっと瑞穂ちゃんに掴まれた。


「……行かないで」

「えっ?」

「寂しい……一人ヤダ。傍にいて」


 縋るように見つめてくる瑞穂ちゃん。

 本当に甘えん坊の子供のようだ。

 芳樹はふっと瑞穂ちゃんへ微笑む。


「分かった。それじゃあ瑞穂ちゃんが寝るまで、一緒にいてあげるね」

「うん。ありがとう……」


 安心したのか、瑞穂ちゃんは嬉しそうな頬を緩め、目を瞑った。

 手持ち無沙汰になった芳樹は、瑞穂ちゃんが眠れるよう、頭を優しく撫でてあげる。

 しばらくすると、瑞穂ちゃんのスヤスヤとした寝息が聞こえてきた。

 先程よりも呼吸は安定し、心地よく眠れているようだ。


「さてと……」


 しかし、ここで問題発生。

 眠っている瑞穂ちゃんが、芳樹の裾をぎゅっと強く握りしめて離そうとしないのだ。


「あははっ……こりゃ参ったな」


 まさか、風邪を引いた瑞穂ちゃんが、こんなに甘えん坊になるとは予想外だ。

 彼女の意外な一面を思い返し、芳樹の頬も思わず緩む。

 普段から、あれくらい色んな人に甘えられたら、苦労はしないのにと……。

 芳樹はしばらく、瑞穂ちゃんの寝顔を眺めながら、優しく頭を撫で続けてあげるのであった。

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