ブラック企業から女子寮の管理人に転職したら、住居人が全員美人だった。しかも気づいたら俺への好感度が上がっているのだが!?

さばりん

第一章 退職編

第1話 管理人のお誘い

「お疲れさま、芳樹君」

「お疲れ様です、一葉さん」


 とある冬近づく十一月上旬。

 居酒屋チェーンのカウンター席で、土浦芳樹つちうらよしきは、グレーのスーツに身を包んだ黒髪の女性と、ジョッキで乾杯を交わしていた。

 芳樹はキンキンに冷えたビールを口に運び、ぐびぐびと喉を鳴らしながら飲んでいく。

 つかの間の至福の瞬間に、思わずぷはぁっと息が漏れる。


「いい飲みっぷりね」


 隣に座っている黒髪の女性である笠間一葉かさまかずはは、ビールをあおる芳樹の姿を微笑ましい笑顔で眺めていた。


「まあ、ここ最近ずっとオフィスに箱詰め状態だったので」

「それは大変ね。いつから帰ってないの?」

「二日前です」

「ご愁傷様……本当に頑張ってるわね」


 気の毒そうな顔で、一葉かずはさんは励ましの言葉を掛けてくれる。


「まあ、仕事ですから」

「あら、律儀りちぎなのね」

「そんなことないですよ。仕事が物理的に終わらないだけです」


 そう言って、芳樹はもう一口ビールを煽る。


 芳樹の働く【けたらはシステム株式会社】は、世間一般で言ういわゆるブラック企業だ。

 残業は朝飯前で、数日間オフィスに泊りこみで作業なんてこともざらにある。



 そんなブラック企業【けたらはシステム株式会社】の取引先で、大手不動産会社【笠間不動産】の次期社長候補とも呼び名の高い笠間一葉部長に、打ち合わせの後いつものように飲みに誘われた。

『顧客満足度上昇』を企業理念に掲げているけたらはシステムでは、相手先から飲みに誘われたら、仕事を後回しにしてまで付き合うのが会社としての決まり。

 一葉部長とは、芳樹が入社してからの付き合いで仲良くさせてもらっていた。

 年齢も近いことから、立場的には上であるものの、”一葉さん”と呼んでいる。


「一葉さんの方は最近どうですか?」

「そうね、ぼちぼちと言ったところかしら」


 そんな他愛のない会話をしていると、注文した酒のつまみが運ばれてくる。

 テーブルに置かれたつまみを嗜みつつ、芳樹は一葉さんに尋ねた。


「それで、今日はどういう経緯で俺を飲みに誘ったんですか?」


 一葉さんがこうして飲みに誘ってくる時はたいてい、何かしら用件があるのを芳樹は知っている。


「どうしてだと思う?」


 一葉さんは、からかうようにして首を傾げて聞き返してくる。

 二十四歳の芳樹とさほど年齢も変わらないにもかかわらず、その所作にはどこかお淑やかさや気品さがあり、大人の色気を感じ取れる。

 顔立ちや肌のきめ細やかさからも若々しさが伺え、スーツ越しからでも分かる胸元の膨らみが、より大人の色気をさらに際立たせていた。

 大衆居酒屋の中で、その色気は明らかに異質な雰囲気を醸し出している。

 次期社長候補筆頭とも名の高い一葉さんだからそこ、為せる業なのだろう。

 そんな一葉さんの問いに、芳樹は枝豆を摘まみながら答える。


「まあ、日々オフィスに缶詰め状態の不憫ふびんな若手社員を、飲み会という名目でいたわってくれていると言ったところでしょうかね」


 芳樹の見解はあながち間違っていないようで、一葉さんは感心した様子で頷いた。


「半分正解。でも、半分は不正解よ」


 一葉さんは、そう言ってグラスを傾ける。

 ここ最近、芳樹は肉体的にも精神的にも疲弊しきっていて、正直限界が近かった。

 取引先の社員を労わってくれる一葉さんの寛容かんような心の持ちようには感謝しかない。


「ありがとうございます。心配してくださって」


 だから、心からの言葉が自然と芳樹の口から漏れ出た。

 一葉さんは、気にしないでと手を横に振る。


「いいのよ、芳樹君にはいつも色々とお世話になっているから。それに今日は、個人的には話したいこともあったからね」

「俺に話したいことですか?」

「えぇ、そうよ」


 すると、一葉さんはすっと表情を引き締め、持っていたグラスをそっとテーブルに置いた。

 思わず芳樹も身が引き締まり、背筋を正して一葉さんへ向き直る。


「今日は、芳樹君にとても大切な話があるの」

「大切な話・・・・・・ですか?」


 先ほど、一葉さんは半分不正解だと言っていた。

 つまり今日は、ただ芳樹を労わるためだけではなく、個人的に大切な話があったから、こうして飲みに誘ってきたのだ。

 取引先の部長さんから、ブラック企業の平社員である芳樹へ直々じきじきに大切な話とは、一体何なのか見当もつかない。

 今から何を言われるのか、内心ドキドキの芳樹をよそに、一葉さんは終始落ち着いた様子で淡々と話し出す。


「芳樹君、転職する気はないかしら?」

「えっ……転職ですか?」


 いきなり問いかけられた質問に、芳樹は視線を上に向けながら考える。


「……まあ、無いと言ったら嘘になりますね」


 入社してから、今日まで会社への不満と不信感が払拭されたことはない。

 転職を考えたこともあったけれど、過度な長時間労働に拘束され、転職活動が進められる状態ではなかったのだ。


「ということは、転職する気はあるってことでいいわね?」

「はい……」


 正直な芳樹の気持ちを聞いた一葉さんは、ほっとした様子で胸を撫で下ろす。

 そして、一葉さんは姿勢を正して芳樹に向き合うと、柔らかい微笑みを浮かべた。


「芳樹君、あなた、をやってみる気はないかしら?」


 一葉さんから放たれた言葉は、芳樹の予想をはるかに超えた予想外の提案だった。


「…………はい?」


 一葉さんの言葉に、芳樹は素っ頓狂な声を上げてしまう。

 無理もない。それほどに、一葉さんから提案された転職話は、突拍子もないものだったのだから。

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