(4)

 ATMから預金を降ろしてから本屋に足を踏み入れた。


 教科書は聖霊館に置いてあるものを使うか……。芽衣子からも使わなくなったの貸してもらえるだろうしな。


 高認、高等学校卒業程度認定試験に必要な教材を手に取って開いてみた。独学でやれるか不安と言えば不安だが、今の状況ではそれをやるしかない。


 本当なら、今頃高校二年だったのに……。


 再び悔恨と口惜しさの念がこみ上げてきそうになったが、すぐ振り払った。過ぎ去った時に執着しても得られるものなどなにもない。

 必要なものを買ってからスマートフォンで地図を出す。図書館の位置を確認した。


 勉強はここでするか……。聖霊館だとあまり落ち着かないしな。


 中学の頃から家での勉強はあまり身が入らなかった記憶がある。歩きながら辺りを、なんとなしに見渡す。汐浦でも最大の繁華街だが、時勢の煽りを受けてところどころ不活性な雰囲気がある。錆びたシャッターで締めきれられた店舗が多く、遊び歩いている未成年も散見される。川向うは、風俗産業が密集しており、あまり教育には適していない地域というのが所感であった。川沿いの虚ろな表情でベンチに腰かけている老人が、なにか独り言をつぶやいていた。

 元柳では考えられない光景、すぐ隣の区の街だというのにこうした実態を知らなかったことに動揺の念を抱いた。

 コンビニに立ち寄り、パンを買おうと手を伸ばしたところ、札を見て硬直してしまった。


 340円って……。


 従来なら150円くらいで売っていそうなコロッケパンでもこの価格である。買えない額ではないにせよ、手持ちのお金は極力節約するという方針を今朝、固めたばかりである。諦めて店を出ることにした。

「はぁ……」

 食料品の超高騰化は昨日買い物に行ったときわかっていたことであったが、失念していたようだ。ただリサが言っていたとおりインスタント食品はあまり価格が変動していない。カップ麺でも買おうか、と思った時、携帯にメッセージが届いた。芽衣子からだった。

『綜士、お昼どうしてる? どこかで買って食べるなら、後で費用として聖霊館から支出するから言ってね』

 彼女はこうなるだろうことを見越していたようだ。


 そんな風に言われると……。


 ますます買いづらい。贅沢は敵だ、という大昔の戦争のスローガンが脳裏によぎった。

「うん……?」

 またしてもメッセージが届いた。今度はリサからである。

『昼メシ食ったか? これからなら中央街のサンクチュアリ汐浦ってとこ行ってみろ。お前のこと話しておいたから、サービスしてくれると思うぞ』

「サンクチュアリ汐浦……?」

 地図を出して位置を調べる。少し歩いた場所にあるようだ。

「行ってみるか」


 わずかに歩いたところで人だかりができていた。

「なんだ?」

 屋外販売しているところに列ができている。

「残り十個となっておりまーす。押さないでくださーい」

 店員が客にそう呼びかけている。後方にはサンクチュアリとの看板。レストランが持ち帰り用の弁当を店頭販売しているようだ。

「へえ」

 価格は600円、このご時世にしてはかなりの安値である。取りあえず並んでみることにした。残り十個というならまだ余裕があるだろう。だが、

「え……?」

 前方、五人ほど先にいる人が一気に残りをすべて買ってしまった。前に並んでいた男性が不平の声を上げる。

「おい、一人一個までとか制限かけないのか?」

「あ、す、すみません……」

 恐懼して、頭を下げる店員。売るのに夢中で、頭が回り切らなかったようだ。

「並んでたんだぞ⁉」

 さらに別の客が詰め寄る。この手のクレームは見るだけで嫌な気分になるが、人間というのは食べ物のことになると頭に血が上りやすいと思う。

「申し訳ありません……」

 平謝りになる店員、まだ若い女性で学生バイトのように見えた。不穏な空気になりかけたところ、

「申し訳ありません、お客様」

 別の店員が出てきた。髪を後頭部にまとめた若い女性、店長だろうか。

「今後は注意しますので。割引券を交付いたしますので本日の所はご容赦ください」

 丁寧に頭を下げ、それを配り始めた。

 前列に並んでいた人たちが、割引券を受け取るとイラついたように離れていく。


 仕方ない……。


 綜士も、そのまま行こうとしたところ、

「あ……、そこの人待って」

「はい?」

 店長、と思しき女性に呼び止められた。

「あなた、桜庭綜士くん?」

「そうですが……」

「ああ……! リサちゃんから話は聞いてるわ。中に入っちゃって」

 女性に腕を取られた。

「え? でも……」

 店のドアには定休日の札がかけられている。中も消灯しており、仄暗い。

「平気、あなた聖霊館の新しい住人なんでしょ?」

「そうですけど」

 戸惑いつつも、店内に入れられた。


「ここに来るんじゃないかと思って用意しといたのよ。簡単なものだけどね」

「いいんですか? お休み、のようですけど」

 外でやっていた屋外販売はイレギュラーな商行為であったように見えた。

「大丈夫、聞きたいことあるし、プライベートと思って付き合ってくれない?」

「え、ええ。そりゃ構いませんけど……リサがなんと?」

「ああ、でっかいマスクかけた不審者みたいなやつって……ごめんなさい」

 笑いをこらえる女性。いかにもリサがしそうな大雑把な説明である。

「それじゃ、そこにかけちゃって」

 女性が電灯をつけると、ボックス席を一つ指し示した。内部はこじんまりとしており、収容キャパシティは12,3人程度だろうか。

「なにかアレルギーとかある?」

「いえ、特には」

「それじゃメンチカツ定食でいいかしら?」

「はい」

 貸し切りみたいで落ち着かないが、付き合うほかないだろう。


 リサの顔見知りだって……?


 女性が立ち上がったところ、もう一人のバイトと思しき女性がやってきた。

「薙沢さん、片づけ終わりました。あの……すみません、お店の評判悪くするようなことしてしまって……」

 申し訳なさそうに、目をつぶって頭を下げた。

「いいの、こういうケースを想定してなかった私のミスだし、お弁当なんて慣れないことやったからね……。次からは、その辺り対策して臨みましょう」

「はい」

「今日は三限からよね? なにか食べてく?」

「いえ、お邪魔しちゃ悪いしもう行きます」

「ごめん、ありがとう」

「はい、それではまた明日。お疲れ様でした」

「お疲れ様」

 そういうと割烹着の女性は去って行った。会話から察するに大学生だろう。


「さて、ちゃっちゃと済ませちゃうからちょっと待ってて。ああ、そう言えば名乗ってなかったね薙沢柚葉よ」

「桜庭綜士です」

「ええ、ちょっと待っててね桜庭くん」

 柚葉、という女性が奥のキッチンへと入っていく。

 手持無沙汰で、メニューを開いてみた。洋食がメインで、ティータイムには簡単な洋菓子も作るようだ。今は彼女のほかに調理人はいないようで、二人で回していると推測できる。

 豊緑亭みたいだな……あそこも夫婦二人とバイトだけで……。

 思考を止めて、手を握りしめた。個人的な経験を思い返すたびに、切り捨てられた人間関係が脳裏によぎる。もう元柳での人生15年のすべてを忘れてしまいたくなった。

 呼吸を整理して改めて店を観察すると、

「……? あれって……」

 柱の部分に、聖霊館の正門に刻まれているのと同じ記章が見えた。アルクィン財団のものだろう。

「なんでここに……」

 と思った矢先に、

「お待たせー」

 柚葉がガラガラと料理を乗せたワゴンを押しながらやってきた。プレートをテーブルに乗せて、スープジャーから味噌汁をお椀に注いだ。

「熱いから気を付けてね」

「は、はい……」

 二人分置くと、対面に柚葉が着席する。


「ささ、どうぞ食べちゃって。さっき揚げたのだけど保温庫に入れて置いたから、温まってるよ」

 弁当用に用意したものなのだろう。

「い、いただきます」

「はい、召し上がれ」

 そんな言葉を聞いたのは、久しぶりだった。

 一口噛むと、肉汁が一気に噴出して、うま味というやつで口内が満たされた。

「どうかな?」

「お、おいしいです、とっても」

 掛け値なしにそう実感してるが、対面でキラキラした目で観察されるような目で視られると味がよくわからなくなってくる。 

「食べながらでいいからお話ししていいかな?」

「ええ」

「最近は、良質な食材がなかなか手に入らなくてね。腕でカバーするためにあれやこれやと工夫してるの。うちだけじゃなくて中央街の飲食店はみんなそうね」

「でしょうね。聖霊館でも寮長が色々頭ひねって料理考えてますし」

 柚葉がハッとした表情になった。


「そう……。やっぱり芽衣子、無理してるみたいね……」

「芽衣子……さんも知ってるんですか?」

「当然、私、二年前まであそこに住んでたんだから」

 口に含んだメンチカツの欠片を思わず、飲み込んでしまい壮大にむせた。

「あらら、大丈夫?」

「だ、だいじょぶです……」

 それよりも柚葉がさらっと重大なことを口に出したことに、驚いた。

「せ、聖霊館の卒業……いや、卒園……?」

 なんと言えばいいのか困る。

「うん、便宜的に卒館って私たちは言ってるけど、出身者ってことになるね。あそこを巣立った人たちっていうのは、ほとんどそれで縁が切れるわけじゃなくてアルクィン財団に加入して卒館後も助け合ってるの。まあ、できる範囲で、だけどね」

 この女性も郁都と同様の立場なのだろう。

「ほら……、聖霊館に来る子たちは頼れる人があまりいないから……」

「そう……ですね……」

 綜士も身内を全員失っている。


 そうだ……俺ももう……俺だってもう一人きりなんだ……。


 財団は出身者同士で互助的な組織を形成しているのだろう。水を飲んで焼けた喉を鎮めた。

「私が今のところ、最後の卒館者になるの。今、聖霊館にいるのは芽衣子とリサ、依織に美奈、後は瞬と伸治でしょ」

「ええ」

「卒館の時期ってのは特に規定があるわけじゃないんだけど、独り立ちできるって判断したタイミングかな。私も調理学校を出たばかりでだったけどね」

「それで、このお店を開いたんですか?」

「まさか、働き始めたばかりの私個人にそんな財力も信用もないよ。ここもアルクィン財団の所有物件だよ。前はバーとして運営されてたんだけど、その人が自分のお店を持つようになってから放置されててね。それを私が使わせてもらってるってわけ」

「そうでしたか……」


 どうもアルクィンは綜士が思っていたよりもずっと規模が大きいように思えた。日之崎中に根を張っているのかもしれない。

 道さんは、聖霊館の子どもには未来への可能性があると言っていたけど……。

 このようなテナントを遊ばせておけるほどの財力から察するに、社会的に成功している卒館者たちの存在を感じた。

「それで話し戻すけど、どうかしら今の聖霊館のみんなの生活は? あ、君は昨日入居したばかりだったね」

「ええ、でもみんなで協力し合って上手くやってるって感じでした」

「そうね、でもやっぱり芽衣子の負担が大きんじゃないかしら」

「だと思います……」

 一つしか変わらないのに、芽衣子は自分よりも風格も態度もずいぶん大人びているように感じる。


「やっぱり私が卒館を遅らせるべきだったんじゃないかって時折思うの。私ったら今なら、しばらくここをお店に使っていいって話になって、つい焦ったみたいで……。ロジャーさんのお店を待つべきだったかも」

「ロジャーさん?」

「リサちゃんのお父さんのことだけど……」

「え……?」

 口が半開きになった。

「聞いてない? あなた、リサちゃんとは親しいように思ったけど」

「し、知らないです……。俺を聖霊館に招待してくれたのは彼女、ですけど……」

 リサのことをろくに知らないことを改めて認識せざるを得なくなった。

「そう……。じゃあ私の口からはあまり言えないけど……、彼には汐浦でレストランを開業する予定があるの。色々複雑な事情があって先延ばしにしてるんだけど、私もそこで働かないか誘われてて。このサンクチュアリ汐浦もいつまで借りられるかわからないし、そうしてもいいかなって思ってるんだけどね」

 柚葉が視線を落とした。


「まあ後は本人から……」

「はい……」

 これ以上はプライバシーに関わってくる。リサの家族の話はそこまでとした。

「みんなに伝えといて、苦しいようならすぐに相談してって」

「わかりました」

 芽衣子が寮長として気負い過ぎていないか、綜士も心配になってきた。

「ところで、薙沢さんはここを一人でやってるんですか?」

「うん、私とバイトのウェイトレス一人だけで回してる。まあ、昼はお客がほとんど来ないから私一人でもなんとかなるくらいなんだけどね」

 改めて品書きに目を通した。

「ずいぶん安価でやってるみたいですけど大丈夫なんですか?」

「ディナーはお客さんがたくさん入ってくれるけど正直、左団扇とは言えないわね。食材の方は財団のコネで産地直送品を回してもらってるからなんとかなるんだけど、光熱費が馬鹿みたいに値上っててね……。それに安価っていっても戦争が始まる前と同じ価格をキープしてるだけなんだけど、それも難しくなってきてる」

 柚葉がストローでお茶をすすってから、息を吐いた。

「だから昼はお弁当屋に半分衣替えしたのよ、ここは元々平日にランチ食べに来る人は少ないし、お弁当ならまとめて作れるからね」

 だいたいの事情がわかってきた。


「そういうことだったんですね」

「でもやっぱり難しいわね、さっきのトラブルといい……。ちゃんと色んなお店で下働き修行しないで経営ってものを学んでこなかったから」

「でも今の汐浦でこれだけ行列ができる店ってだけでもすごいと思いますよ」

「ありがとう……」

 ご飯を噛んで飲み込んだところ、顔の辺りに遊澤の視線を感じた。

「ああ……この火傷痕ですか……?」

「え……あ、いやごめんなさい」

「いいんですよ、去年の日宮祭で受けたものなんですけど」

「え⁉ 嘘、あなたあの事件の……」

「ええ……生き残り、ということになります……」

 思い出すのもつらいことだが、もう一生自分について回ることである。何かの話で振り返る度に痛痒を感じているようでは死ぬまで苦しむだけだろう。

「そう……大変だったのね……」

 大変、で済めばまだよかったのかもしれない。せめて自分一人が重傷を負った程度の話だったならば。

 後は取り留めもない世間話となった。

「それじゃあ、ご馳走様でした」

「はい、お粗末様でした」

 立ち上がって財布を出そうとすると、

「いいのよ、今日は私が誘ったんだから」

柚葉に手で制された。

「ですが……」

「それじゃあ600万円のところ、100%オフにしてあげるわ」

「ハハ……」

 八百屋のおっちゃんネタだった。

「その代わり、聖霊館のお手伝いはしっかりやってね。芽衣子をちゃんとフォローしてあげて」

「むろんです」

 やさし気で、慈悲を帯びた瞳、柚葉もあの館で守られて育ったたのだろう。聖霊館には並々ならぬ思い入れが今でもあるように思えた。


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