最終話 阿賀谷兄弟の末路

 小屋の中に、橙色の陽の光が差し込み、こめかみから流れる阿木弥の汗を鈍く光らせた。

 ぷうん、と小屋の中に漂うのは、生臭い匂いであった。

「はあ……っ。はあ……っ」

 血塗られた手で、阿木弥は額に流れる大粒の汗を拭った。

 阿木弥の跨った足の間には、血まみれの加賀良の遺体があった。

 胸や腹から、抉る様な刺し傷で鮮やかな血を流し、加賀良は死んでいた。

 阿木弥の手には、小刀が握られている。それは木肌を削るときに使用していた愛用の仕事道具であった。いつも木の種類や状態を見る為に使っていたその鋼の小刀からは、脂の浮いた血液が付着し、ぽたぽたと床に落ちていく。

「あ……。あ……」

 阿木弥は途切れ途切れの呼吸を繰り返していた。

加賀良をめった刺しにしている間、瞬きもせずに、瞳を極限まで見開いていた為、瞳は血走って乾いている。

 右手に一瞬痺れるような感覚がし、震えながら小刀を落とした。

「ああ……」

 左手を震わせながら移動させ、右手首を強く掴んだ。あまりにも強い力で掴んでしまったので、掴まれた場所から上に血が巡らなくなり、だんだんと青白くなっていった。

 意識が少し落ち着いてきたためであろうが、阿木弥の額に一つに纏めた髪の生え際から、汗がたらたらと垂れてくる。

 汗の雫が重なり、大粒の汗が眉に到達したとき、ぶるっと身震いして兄の顔に視線を移した。

 阿木弥の視界は濁っており、目に映る色彩も白黒であった。

「あにじゃ」

 加賀良の体は酷い有様であった。

 小刀で所かまわずめった刺しにされたせいで、胸や腹の複雑な位置から、こんこんと湧く泉のように血が溢れていた。

 だが、その死に顔は何故か安らかであった。

 青い唇をうっすらと開き、瞳を閉じている。白い顔に睫毛の影が落ちているのを見て、阿木弥は兄の睫毛が長かったことを思った。体は滅茶苦茶であるのに、不思議と眠っているような穏やかな顔をしていた。

 阿木弥は、大きく息を飲み、唾を飲み込む。

「あぁ……あ、あにじゃ。あにじゃ」

 背に冷たい汗が流れるのを感じると、がくんと肩を落とした。

そして、加賀良を見つめたまま、顔の横に両手をつく。血で染まった節くれだった両手は、徐々に血が乾いていき、表面がひび割れていった。

 その手を、じっと見つめる。

(兄者の血じゃ……。おらの体に流れているのと同じ、兄者の血――。わしが殺した。おらが殺した!)

ぽたぽたと、阿木弥の汗が、加賀良の顔の上に落ちていく。その中に、やがて阿木弥の顔についていた返り血と涙が混ざっていった。

「うおぉっ……、う、お、ぉ……」

 阿木弥の喉から呻くような慟哭が鳴り響いた。小屋に反響する。

体は小刻みに震えていた。

「兄者……。兄者っ……」

 泣きながら加賀良の額に己の額をぶつけた。

 殺してしまった兄の額は、ひどく冷たく、その温度が更に阿木弥の心を掻きむしる。

「おらは……、怒りの衝動に身を任せてなんということを……、なんということを……!」

 阿木弥は加賀良から額を離しては、再び強くぶつけるという行為を繰り返した。時が過ぎ、互いの額が割れ、血が溢れるまで、阿木弥はその行為を止めなかった。

息を整え、半身を起こす。

ふと、我に返った阿木弥は、茫然とした眼差しで小屋の中を見渡した。小窓から差す夕暮れの色は優しく穏やかで、一層彼の悲しみを引き立てた。

(おらは、もう生きていてはならぬ存在じゃ……)

 阿木弥の心の中に、鈍く重い決意が落ちた。

 加賀良の体から降り、よろよろと立ち上がると、半身を折り、転がった小刀を手に取る。

再び兄の遺体の横まで歩くと、ゆっくりと正座した。

 阿木弥が降りたことで、光の当たる角度が変わり、夕陽に染められた兄の顔は美しかった。

 阿木弥は口角を上げた。そこには、今まで浮かべたことの無い哀愁と色気があった。

 手にした小刀に片手を添え、一気に己の腹に突き刺した。

 脳裏には、幼き日々、兄と森の中で丸太を探して遊んだ楽しかった日々が流れていた。木々のぬくもりのような笑顔だけが、そこにはあった。




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