無邪気な約束を待ちながら

橘 紀里

1. 思いがけない出会い

「何見てんだ、金とるぞコラ」

 そのガラの悪い台詞が、目の前の小さな存在から吐かれた言葉だと理解するまでにしばらくかかった。常日頃、昼行灯ぐうたらだの極楽蜻蛉のんきものだのと言われている彼女としては、あまり珍しいことではなかったが、それにしても一瞬とはいえ本気で呆気にとられるなど、初めてのことだった。


 アストリッドは、彼女の屋敷の庭の大樹の根元のあたりにふわふわと浮いているその小さな生き物をまじまじと見つめる。美しい流れるような銀の髪と、鮮やかな青い瞳。背中には透き通る蝶のような羽が生えている。両手の手のひらに収まるほどのその小さな体は、だが、彼女をを見つめて偉そうにふんぞり返っていた。


「金って……君に必要なのかい?」


 どう見ても生まれたばかりの小さな妖精が、貨幣を必要とするようには思えなかったのだが。

「知るか。だいたい生きていくならいるもんだろ? そんなことも知らねえのかこのうすらぼんやり野郎」


 滔々と流れるように吐き出される罵倒に圧倒されていた彼女は、だがやがて思わずふき出していた。うすらぼんやり、とは確かによく言われる言葉だったので。


「何がおかしいんだ? 馬鹿にされて笑うなんざ覇気のねえ野郎だな。それともあんた女か?」

 青い瞳を大きく見開いて首を傾げながらこちらを見つめるその様子は、その言葉がその口から出てきたとは思えないほど愛らしい。

「私はアストリッド。性別は今のところまだ『未分化けんとうちゅう』だよ」

「未分化ってのはあれか、どっちつかずってことだな。ぼんやりしたあんたらしいや」

「……君はまだ生まれたばかりだろう? 名はあるのかい?」

 尋ねたアストリッドに、小さな妖精は呆れたように肩をすくめて、それからさらにふんぞり返って指を突きつけてくる。

「あるに決まってんだろう。教えてやるからありがたくそのぼんやりした頭に叩き込んどけ、一回しか言わねえぞ?」

「……どうぞ」

「ジークヴァルドだ。あんたにゃ長すぎるかも知れないから、ジークって呼びな」

「お気遣いありがとう、ジーク」


 実のところ、彼女は日頃から馬鹿にされることには慣れていたが、その容姿とあっけらかんとした言動からするに、どうやら悪意はないらしい。どうにも憎めないその様子に思わず微笑むと、ジークは顔をしかめて、それからはた、と声を上げた。


「そういや腹減ったんだけど、あんたなんか食い物もってないか?」

「……妖精って何を食べるんだっけ?」

 そう尋ねると、その小さな妖精はもう一度、呆れたように鼻を鳴らして肩をすくめる。

「そんなことも知らねえのか? 普通に肉とか魚とか野菜に果物とかだろうが。ああちなみに俺は美食家グルメだから、生のままとか無理だからな?」

「……君、食事をしたことがあるのかい?」

「ないに決まってんだろ、生まれたばっかだぞ?」

「なのに、美食家?」

「俺の中に宿る叡智がそう言ってんだよ」

 もはや何を言っているのか訳がわからなかったが、あまりに自信たっぷりなその様子に、アストリッドには、頷く以外の選択肢がなかったのだった。



 屋敷に戻り、言われた通りきちんと調理した料理をいくつか並べると、そのテーブルに座り込んだジークは小さな体のどこに、と驚くほどにものすごい勢いで食べ物をその口に詰め込んでいく。

 その気持ちの良い食べっぷりに思わず見惚れていると、ジークは食事に満足したのか先ほどまでの険のある眼差しよりはずいぶん和らいだ表情で、こちらを見上げてくる。

「あんた料理うまいな」

「そりゃどうも」

「独身か?」

「……伴侶がいるか、という意味なら、いないね」

「ふーん。じゃあ俺がでかくなったら嫁にもらってやろうか?」

「……大きくなるのかい、君?」

「知らねえのか? 妖精は願いの強さで何にでもなれんだぜ? 気合でなんとかなるだろ」

 にっと笑ったその顔は、どうみても子供のそれで、アストリッドは思わず声を上げて笑ってしまう。ジークは不満げだったが、アストリッドにしてみれば声を出して笑うなど、それもまた生まれて初めてのことのような気がした。

「君は、伴侶を料理の腕だけで決めてしまっていいのかい?」

「馬鹿言え、あんたの顔も好みだ」

「……お礼を言うべきかな?」

「それにあんた、友達もいねえだろう」

「どうしてそう思うんだい?」

「この家、他人の気配がしねえ」

「そりゃ、ひとり暮らしだからね」

「そういう意味じゃねえよ。あんた以外の気配が一切しねえ。訪ねて来る奴もいねえってことだろ?」

 すっぱり言い切られて、アストリッドは思わず言葉に詰まる。確かに、ここを訪れる者はめったにおらず、その相手も友人というよりは、もっと近しい人と、あとは招かれざる客ばかりだった。


「何だその羽虫のような生き物は」


 不意に響いた声に目を向ければ、その「招かれざる客」の一人が部屋の入り口で、腕を組んでこちらを冷ややかに見つめていた。

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