最終話 2013年10月13日、日曜日 ②
「わたしはお兄ちゃんに愛されたい。ただそれだけよ」
それは、予想外の答えだった。
もっと大きな、人の身にはたいそれた願いを成就させるつもりなのだと思っていた。
「ずっと憧れてた。でもそれは叶わない恋だって思ってた。
けれど、わたしとお兄ちゃんに血のつながりがないことを知って、わたしはそれが決して叶わない恋じゃないことを知った。
でもお兄ちゃんはわたしを見てはくれなかった。恋人を作ったわ。最初はわたしからあの女を守るだけだと思っていた。けれど、お兄ちゃんは本当にあの女を愛し始めた。
わたしがいるのに。こんなにお兄ちゃんのことを大好きなわたしがいるのに!」
「そいつは悪かったな。お前が人類史上最高傑作なら、ぼくの姉ちゃんはもっとすげー、いい女なんだよ! 弟のぼくが惚れちまうくらいにな!」
ぼくは言った。姉ちゃんに聞かれたら、爆死できる自信があるくらいの恥ずかしい台詞を。
「お前はあの人に自分が愛される世界を作るつもりなのか?」
「そうよ」
「その世界で、ぼくの姉ちゃんはどうなる?」
「死んでもらうことになるわ。いえ、存在することすら許さない」
だったら、ぼくは答えはやっぱり決まっている。
「お前には従えない」
「どうして? 存在しないっていうことは、あなたにお姉さんなんていなかったってことになるのよ?」
「ぼくも姉ちゃんが好きだからだ。この世界で一番。何より大切に思っている。
けれど、ぼくは姉ちゃんが幸せならそれでいい。
隣にいるのがぼくじゃなくても。姉ちゃんがいつも笑っていられるなら、それで。
あの人も、お前を愛してないわけじゃない。血が繋がっていようがいまいが、兄妹なんだろ?
妹の幸せを願わない兄貴がどこにいるっていうんだよ。
だからお前も兄貴の幸せを願ってやれよ」
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさ」
ズブリ。
悲鳴のような叫びを続ける加藤麻衣の胸を剣が貫いた。
「お、お兄ちゃ……ん?」
竹の節のような形をした銅剣を握るのは加藤学だった。
「お前はぼくの自慢の妹だったけれど、もう少し日本史をよく勉強しておくべきだったな。
草薙の剣は一本だけじゃない。この国の歴史では三本あるんだ。
お前が持っているのは、熱田神宮の奥深くに神体として安置されていたものだろう?
ぼくが今手にしているのは、平家滅亡の折に、平時子──二位の尼が腰に差して入水し、そのまま上がっていなかったものだ」
「そんな、どうして、お兄ちゃんが、わたしを……」
加藤麻衣が崩れ落ちる。
「サルベージするのに少し時間がかかってしまった。すまない」
加藤学はぼくにも剣を投げて寄越した。
「そいつは皇居の吹上御所の『剣璽の間』に安置されていたものだ」
どうして、おにいちゃん、どうして、加藤麻衣は加藤学の足にすがりつき、泣きながら震える手を伸ばした。
「お前が棗弘幸とかいう日本史教師に世界を再構築させてしまったせいで、草薙の剣はロンギヌスの槍になった。この国に草薙の剣が3本あったため、本来1本であるはずのロンギヌスの槍は3本になってしまったんだ。お前はDRRシリーズの残りの所持者分、ロンギヌスの槍を用意してしまったんだよ。お前かぼくか、それとも彼か、今、この場にいる三人の誰もが神になれる資格を持っている」
彼の声はもう、妹には届いてなかった。
「秋月蓮治くん」
彼は妹の死を確認すると、彼女の鞄から、そして自分のポケットから、携帯電話を取り出し、ぼくに差し出した。
「ぼくたちを『友だち消去』してくれ」
そう言った。
「そうすれば、ぼくたちの存在はこの歴史上なかったことになり、世界はすべて元通りになる。死んだ君の友達も、存在を消されてしまった人たちも、みんな帰ってくる」
「そんな、それじゃ、あんたたちは……あんたがいなくなったら姉ちゃんはどうなるんだ?」
「君のお姉さんはぼくのことを忘れる。問題ない。
DRRシリーズがもたらした一連の事件はそれですべてなかったことになり、君の記憶の中だけに存在する。
しかし、DRRシリーズの存在は消えない。だから君は再びこのような事件が起きないように、世界を見守ってくれ。
君が神になるんだ。そのために君は生まれた。
お姉さんを大切にね」
それが彼の遺言だった。
ぼくは3台の携帯電話と、加藤麻衣の鞄の中にあった残りの44台、それから3本の草薙の剣を持って、病院の屋上へ登った。
雲ひとつない澄み切った夜空に、月と満天の星が輝いていた。
しばらく待っていると、東の空から太陽が登り始めた。もうすぐ朝が来るのだ。
普段見ることがあまりない、太陽と月が共存している空。
それはとても美しい光景だった。
そう、世界は美しい。
今も世界のどこかで、戦争や紛争が続き、飢餓に苦しむ人々もたくさんいる。
何秒かにひとりという恐ろしい速度で人が死に、同時に同じ速度で新しい命が生まれている。
ぼくが知っている世界は、世界のほんの一部に過ぎない。
人は醜い。けれど、どこか優しい。
世界はぼくにそれを教えてくれた。
世界がこれからどんなものになろうとも、ぼくは二度とあの部屋で人生の歩みを止めてしまうような真似はしないだろう。
ぼくはなんの取り柄もない、元不登校の元ひきこもりで、きっとアニメやラノベの主人公の器じゃない。
まわりに流されて、振り回されて、結局ぼくの意志はどこにあったのかすらわからない。
今も絶賛流され中だ。加藤麻衣や加藤学に。それから、山汐凛や大和省吾に。いなくなってしまったすべての人たちと、それから姉ちゃんに。
けれど、これからぼくがしようとしていることは、少なくとも、ぼくの大切な人たちを守りたいという、確固たる意志によるものだ。
「ここにいたか」
Sの声がした。
「探したよ」
あやもいた。
「お前ら、どうして……」
ぼくの問いに、なぜかふたりは、全部わかっている、という顔をした。
「面会時間には少し早いけどな。たぶん、俺たちもうすぐお別れすることになるんじゃないかって思ってさ」
ぼくの友達は、親友はカンがいい。意外と簡単に入れたんだけど、病院、セキュリティーとかもうちょっときにした方がよくないか、と言って笑った。
「よくわからないんだけど、わたし、秋月くんと出会えてよかった。秋月くんのこと好きになってよかった」
ぼくはあやを抱きしめた。
「ごめん、ごめんな」
ぼくは彼女に謝ることしかできなかった。
「どうしてあやまるの? わたし、よかったって言ってるじゃない」
「ごめん」
「ほら、また。秋月くん泣いてるし」
あやはえぐえぐ泣くぼくの頭を撫でてくれた。
「ほら、もう泣かないで」
「でも、君やSに会えなくなるのはやっぱりいやだ。もうひとりはいやなんだ」
「だいじょうぶだよ」
あやは笑って言う。
「秋月くんはひとりじゃない。わたしとも、Sくんともまた会えるよ」
「本当に?」
本当にぼくは最後までダメな男だった。
「本当だよ。Sくん、そうでしょ?」
Sは、ああ、と言って、
「今度会うときはちゃんと俺の名前、呼んでくれよ」
と言った。Sはないよね、とあやが笑う。自分たちでつけたハンドルネームのくせに。
「俺は、榊祐葵(さかきゆうき)だからな」
Sは、祐葵は、そう言った。
「わたしは、市川鮎香(いちかわあゆか)」
「あやじゃねぇし!」
Sが勢いよくツッコんだ。
「ちゃんと覚えててね、わたしたちの顔と名前」
本当に、ふたりは全部わかっているのだ。
三人で、しばらくの間、太陽と月を交互に眺めていたぼくは、
「アリス」
覚悟を決めて、彼女の名前を呼んだ。涙で、うまく呼べなかった。ありしゅ、ってなっていたかもしれない。
「ふたりにも見えるように出ておいで」
そう言うと、アリスはにっこり笑って、
「祐葵さん、鮎香さん、はじめまして」
とスカートの裾を掴んでペコリと挨拶をした。いつかぼくにしたときと同じように。
「そっか、この子がわたしたちを秋月くんに出会わせてくれたんだ」
「さっき電話をくれたのはお前だったんだな」
と祐葵が言って、ぼくはアリスが全部ふたりに話したのだとわかった。まったく、お節介な奴だ。
この一週間、ぼくのそばを片時も離れることなく、ぼくを支え、見守ってくれたぼくのメイド。
彼女はメイドで、アンドロイドで、そのくせぼくにしか見えないホログラムで、おまけに携帯電話で、めちゃくちゃな奴だった。
「アリス」
ぼくはもう一度彼女の名前を呼んだ。
「ふたりのこと、ありがとな」
彼女の名前を呼ぶのはきっとこれが最後になるだろう。
「DRRシリーズをすべて起動してくれ」
ぼくの目の前に、アリスを含め47人のアンドロイドたちが現れる。
「すっげ」
「わああ」
祐葵と鮎香がその光景に興奮して声を上げる。
それは、太陽と月が共存している空と同じくらい美しい光景だった。
ぼくはふたりの手をぎゅっと握った。
「時間なんだな……」
「お別れしなきゃ、いけないんだね……」
そういうふたりにぼくは小さくうなづいた。
「でもまた会える。ふたりがぼくのことを忘れてしまっても、ぼくは忘れないから。探して、会いにいくよ」
ふたりはぼくの手を握り返した。
ひょっとしたら、ぼくひとりじゃできなかったかもしれない。
ふたりがいてくれるから、ぼくはやるべきことを今できる。
「君たちに頼みがある」
ぼくはアリスたちに言った。
「これから、最後の、世界の再構築をする」
それが遺されたぼくにできる唯一のことだった。
「これ以上誰も再構築する必要がないくらい最高の世界を作る」
神として選ばれてしまったぼくの、最初で最後の、世界の創世。
それがこの世界だ。
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