第12章 厨川 6


「ヒヒヒヒヒヒヒっ! 何処へ逃げようというのかえェっ! ヒィーヒヒヒっ!」

 世にもおぞましき哄笑を響かせながら次第に追手が距離を詰めてくる。

「……ええい、しつこい爺じゃっ!」

 馬を走らせながら髭一が悪態吐く。

 二人は林の中へ逃げ込み追手を撒こうとしたものの、秀武の追跡は執拗を極め、幾度障害物の間を潜り抜けようとも逃れることはできない。

 馬もそろそろ限界である。

「くそ、こうなっては仕方なし! どうか逃げ延びてくだされ!」

「髭一っ!?」

 単騎馬を返すと、髭一は追手に向かって突進し、先頭を行く秀武に斬りかかった。

「くおっ!?」

「……ふん」

 しかし髭一の渾身の一撃はいとも容易く受け止められ、がっちりと鍔を噛ませたまま微動だにしない。

「ただの助平爺と侮っておったかや? んん?」

 にやにやと余裕ぶって笑いかけて見せる秀武に、ぎりぎりと歯軋りしつつ競り合いに負けじと全身の力を込めて押し返す。

「はっ、とんでもない助平爺であったわっ!」

 思わず呟く髭一の身体がふ、と前につんのめりそうになる。

 不意に競り合いを解かれ、姿勢を崩した髭一の背に秀武の薙刀が振るわれた。

 どう、と馬から転げ落ちる髭一に一瞥もくれずに秀武は哄笑も高らかに追跡を継続した。

(……ああ、姫様。髭一はこれまで。どうか逃げ延びてくだされ)

 まだ戦が始まる前、本当に奥六郡が平和であった頃、未だ女童の一加の無邪気な笑い声が一瞬過る。それから今日までの間、その健やかな様子をずっと傍らで見守っているうちに、何時しかそれが生き甲斐となっていた。孫娘同然であった一加。

 髭一の双眸に涙が光った。


(……後は、どうか頼みましたぞ――!)




 どうやら逃げる一加の馬が疲れ始めてきたらしい。もう数馬身ほどの距離差である。

「よし、よし、弓の射程に入ったわ。者共よ、馬の脚を狙えい、間違っても姫に当てるなよ!」

 命じられた配下達が矢を放つ。その内の一本が馬の尻に当たり、堪らず飛び上がった馬に跳ね飛ばされた一加の身体が宙に舞い上がり、地面へと叩きつけられた。

「やったぞ! ヒィー! ヒィー!」

 喜びの声を連発しながら馬を降りるのももどかしく、ぐったりと倒れたままの一加に駆け寄った。

「お前達は触れるな、見るな、この娘はまず儂が頂くのじゃ! いずれ武則様の御子息の元に嫁がされることになるだろうが、その前に儂がこの娘を自分のものとするのじゃ!」

 配下達を払い除け、過呼吸を疑う程息を荒げた秀武が仰向けに倒れる一加の上に圧し掛かる。

「この姫様がお産みになる子はいずれ清原の家督を継ぐことになるであろう。そこで、先に儂の子を仕込んでおけば、儂の血統が清原を統べることとなろう。まさに托卵よ。生まれる子は清原の嫡男として育てられることになる。やがて奥羽、即ち奥州は、清原という名を冠した吉彦の支配するものとなるのじゃ! ヒィーヒヒヒヒヒっ!」

 嗚呼っ、なんという恐ろしい野望であろうか!

 野望と欲望が綯交ぜになった見るもおぞましき形相で「ヒィー!」と頻りに甲高い声を発しながら一加の武具を剥ぎ取り、衣を引き裂いた秀武の動きが、はた、と止まる。

「……ヒ?」

 嫌に平らな胸に首を傾げる秀武へ、一加――に変装した千世童子が、ニヤリと嘲笑いながら見上げる。

「俺は御覧の通り男だが……抱いてみるか、狒々爺よ?」

 あまりのことに「うーん」と泡を吹いて秀武は卒倒してしまった。




「はあ、――はあ、――」

 山道を登りながら、一加は荒い息を吐いていた。

 ともすると馬から転げ落ちそうになる。思いの外負傷の出血が酷い。


 途中、清原の一群に遭遇し、何とか振り切ったものの、既に左足に矢を受けてしまった。

 馬も相当疲労しているはずである。もう逃走は限界であろう。

 ここで歩みを止めれば一巻の終わりである。

「はあ、――はあ、――」


 ――めそめそ泣くでない! そなたはもう人の親ぞ、そんな情けないざまで腹の子を産んで守れるか!


 そうだ、まだあきらめるわけにはいかぬのだ。

 だが、何処へ逃げればよい?

 そこらじゅう敵だらけである。


 双子達の声が聞こえたような気がした。

 蘿蔔、菘。

 あの子たちは無事だろうか。

 薄は、無事にあの子たちと逃げ出せただろうか。


 がさがさ、と叢の鳴る音がする。

 びくりと身を震わせ、馬を急かせる。

 嘶きも弱弱しい。

 もう、この馬も疲れ切っている。

 どこかで、休まないと。

 日は既に西に落ちかけていた。

 

 髭一達は、どうしているだろうか。

 東和様は、千世童子は。

 

 兄達は無事だろうか。

 貞任兄は、

 重任兄は、

 宗任兄は、

 家任兄は、

 真任兄は、

 有加姉は、

 皆、どうしているだろうか。

 逢いたい。


 遠くから、馬の蹄の近づいてくる気配がする。

 ハッとして、馬を急かせる。

 もう、馬もよろめきかけている。


 もう、限界だ。

 逢いたい

 逢いたい

 皆に逢いたい


 源太様に、逢いたい。

 逢いたい。



「そんな――」

 行き止まりだった。

 すぐ足元の断崖絶壁を、険しい岩だらけの渓流が激しく渦巻いている。

 もう、進めない。

 ずるずると滑り落ちるように馬から降り、木陰にしゃがみ込んだ。

 間もなく夜になる。夜の闇に紛れれば、何とか逃げ延びられないか。

 でも、何処へ。

 それに、足を負傷している。

 血が、止まらない。

「う、……うあああああ」

 一加の口から、嗚咽が漏れる。

「ああああう、うううう……」


 ――めそめそ泣くでない!

 ――そなたはもう人の親ぞ、そんな情けないざまで腹の子を産んで守れるか!

 

 義姉の言葉が、再び過る。

「う、……うふふ、私の子供、……源太様との」

 ぽろぽろと、一加の両目から、涙が零れた。

「……産みたかった」

 しゃくり上げながら、言葉を紡ぐ。

「……産んであげたかった」


 ――いずれ子を為し、その縁を子孫に伝えよ。


 がさがさ、と藪の鳴る音がする。

 はっとして、顔を上げる。


――そなたもまた、縁を託されたのじゃ。


 すぐ近くから、馬の蹄の近づいてくる気配がする。

 びくり、と身を震わせる。


 ――やがてその縁を次に託さねばならぬ。


 自分を呼ぶ声が聞こえてくる。


 逃げなきゃ。



 逃げなきゃ。



 でも、もう。



 もう、私は――



 ――そなたを天に帰したくないのだ


 

 ……源太様。





「一加っ!」

 声を限りに、その名を呼んだ。

「一加、一加! 何処におるのじゃ!」

 幾度も幾度も、その名を呼んだ。

 既に日は落ち、薄暗闇の中を、菫色の微かな残光だけを頼りに探し続けた。

 川の音が近づいてくる。

 がさがさと藪を掻き分けて探し回る。

 大分馬にも無理をさせてしまっているのか、蹄の音が重い。

「一加、何処じゃ!」

 もう一度、その名を呼ぶ。


「一……」


 そこは行き止まりであった。

 すぐ足元の断崖絶壁を、険しい岩だらけの渓流が激しく渦巻いている。

 そのすぐ傍らに、すっかり弱り切った馬が哀し気に座り込んでいた。


 全ての力が抜け落ちてしまったように、義家はその場に膝から崩れ落ちた。


 引き裂かれるような義家の慟哭が、激しい渓流の水音に溶けて消えていった。

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