第8章 小松柵炎上 4


 未だ前日まで続いた長雨の名残る濁流を渡り迫り来る安倍勢に対し、清原陣は横列陣形で矢を射掛ける。矢の集中を避け左右に分散しながら渡河する安倍の将兵らが次々と矢に撃たれ川中に沈んだ。


 数珠繋ぎに縛められていた犠牲の子供達に藤原千任が近づき、刀を振り上げる。

「……もうお前達に用はない。戦の邪魔だよ!」

 ひいっ! と悲鳴を上げる娘の縄を一刀の下に斬り解くと、顎をしゃくって山裾を指し示す。

「馬に蹴り殺されぬうちに、他の子らを連れてとっとと失せな!」

 しっしっ、と刀を振って追い立てる。

 その千任の傍を敵の矢が掠める。

 対岸からの矢の嵐を搔い潜った安倍勢が続々と上陸を果たし、清原本陣に迫る。

「狙うは敵の本陣じゃ、左右から突き崩せっ!」

 太刀と薙刀を両手に構え、次々と敵を薙ぎ倒していく貞任に進んで斬りかかろうとする者はいない。

「どうした、出羽仙北に聞こえた眠れる獅子とやらは実は只の烏合の衆か? ハッ!」

 何よりもその面相、翻る白衣の外套に刻みつけられた恐怖により、先陣を切るべき源氏の将兵が二の足を踏んでいる。国府の恐れが染ったか、清原の兵達も荒れ狂う狼を相手に打ち掛かるのを躊躇った。

「――どうやら退屈されておるようじゃのう!」

 振り返る貞任の背後で薙刀が唸った。

「先程の弓の腕前、お見事でござる。折角の合戦前の遊戯を余計な茶々を入れてくれた馬鹿のせいで台無しにされた故、ここで仕切り直しを願いたい!」

 得物を構える義家の挑戦に、貞任も太刀を鞘に納め、薙刀一本を握り締め応じる。

「望むところじゃ、来るがよい!」



左翼を斬り進む貞任らと別働し、右翼陣地を攻め進めていた一加が秀武の姿を認めぎりりと歯を軋らせる。

「……あの男だけは許しておけぬっ!」

 脇目も降らず本陣を目指す一加の後を髭一が続く。

「おい、誰か儂の子供らを知らぬか? まだ色々使い道があるのじゃぞ!」

 そう呼びかけながらきょろきょろと辺りを見渡している秀武を目掛け、勢いつけて手綱を振るい、薙刀を振り上げる。

「うらあああああああっ!」

 渾身の一撃を食らわせようと振り下ろした一加の一閃が突如横合いから現れた女武将に受け止められる。

「っ!」

「おっほおおっ!」

 自身への攻撃に気づいた秀武が随喜に燃えた眼差しを一加に向けた。

 がっちりと一加の刃を受け止めた女武将が鍔迫り合いを固めたまま離そうとしない。

「ほほう、これは、……ふむむっ」

 身動きできぬまま相手と睨み合う一加を、秀武が組み合った二人の間に顔を近づけじろじろと嘗め回すように視線を這わせる。

「ひひひ、良いのう。程好い」

「っ、……ええい気の散る爺だよ!」

 本人に聞こえぬように小声で舌打ちを漏らした千任が刃を振るって競り合いを解き、馬上でよろけた一加に馬ごと体当たりを食わせる。

「姫様っ!」

 踏鞴を踏んだ一加の馬が鋭く嘶き、駆け寄った髭一が辛うじて彼女を支えた。

 二人に刃を真直ぐ向けた女武将――千任が酷薄な笑いを浮かべる。

「あんた、頼時の娘だね? あんたは生かして捕らえるようそこの狒々じ――秀武様からのお達しでね。……此処で大人しく降参してくれれば悪いようにはしないけど? ねえ、降参しようよ?」

 この美しい娘が件の頼時息女と聞いた秀武は思わず「ヒーっ!」と感極まったように叫び、何かに至ったかの如く前に屈んでぷるぷると悶絶した。

「悪いようにせぬ、だと!」

 女主人を背後に庇うように構える髭一がチラリとその様子を横目で睨んで鼻を鳴らす。

「……悪いようにしか見えぬがな!」

 両者が火花を散らし対峙していたその時、


 対岸から新たな鬨の声が上がると同時に、一筋の嚆矢が天へと放たれた。



 安倍陣地で戦況を見届けていた経清がふと西側の向こうに茂るこんもりとした雑木林の小山に目を転じる。

(……鴉か)

 合戦の喧騒で本陣の誰も気づいていないが嫌に鳴き声が喧しい。

 とはいえ合戦には鴉がつきものである。味を占めてくると合戦が始まる前から戦の気配を察し、戦死者の骸を啄もうと群れをなし文字通り高みの見物と洒落込んでくる。

 その鴉が、一羽飛び立ち、二羽飛び立ち、やがて大きな群れとなって木々から飛び立っていく。

 それを見ていた経清の両目がみるみる見開かれ、合戦の状況を見回して漸く敵の思惑に思い至った。

「……なんということじゃ、無理にでも貞任殿を引き留れば良かった!」

 愕然とした表情で周囲の兵らに叫んだ。

「対岸の者達を呼び戻せ、敵の攻撃に備えよ!」

 言い終わらぬうちに、すぐ近くから林を揺さぶる無数の鬨の声が響き渡った。



 鏑矢の合図に振り向いた貞任は、あっ! と声を上げ手綱を引いた。

「……してやられたわ。罠じゃ囮じゃと構えていたが、本命はあちらだったか!」

 本陣が攻撃を受けている様子に、思わず義家に向けた切っ先を逸らせる。

(あまりに立派な敵の布陣ゆえ、てっきりこちらの主力を叩いてくるものかと構えていたが。……たしかに手薄となった対岸が落ちれば、我らは川を挟んで袋の鼠。後は一網打尽という計らいか!)

 律義に構えたまま待っていた義家に、大変申し訳なさそうに貞任が手を合わせて願い出る。

「実に心苦しいのじゃが……この続き、他日に持ち越してはくれまいかのう。ちょいと背中に火がついて貴公との勝負どころではなくなってしもうたわい」

「よかろう。貴公の気が漫ろでは俺も詰まらぬ。次回までどうか生きておられるよう祈るぞ!」

 義家もまたあっさりと剣を納めた。

「すまんな。ではまたいずれ!」

 馬上の礼を示すと、貞任は背を向けて川岸を目指し馬を走らせながら、「総員、陣へ戻れェっ!」と号令を叫んだ。



 退却の命令を聞き、千任の追撃を躱しながら逃げ去っていった一加らの背中を物欲しそうな顔で指を咥えて見送っていた秀武がふと尋ねる。

「……ところで儂の玩具達は何処に行ったか知らぬか?」

「ああ、娘達なら合戦が始まる前に逃がしましたよ。だって可哀そうでしょ?」

 それを聞いて、キーッ! と地団駄踏む秀武に背を向け千任はペロリと舌を出した。



 戦闘を切り上げ、続々と川を目指し退却する安倍勢の背後を、容赦なく清原勢が弓矢を以て攻撃し、矢を受けた兵士が次々と倒れていく。

 漸く川岸へ辿り着き、改めて対岸の様子に目を遣った貞任は思わず馬を止めた。

 対岸はほぼ全てが清原勢で埋め尽くされていた。辛うじて本陣周辺の経清ら数百の兵が持ち堪えているのみである。

 いったいどうやってこれほどの兵数を対岸に潜ませたのか。ざっと見渡しただけでも五千を超える。

 つまり、現在貞任らは一万を超える敵に川を間に挟み討ちにされている、という絶望的な状況である。

(やんぬるかな。やはりこの戦、最初から武運に見放されていたという事か)

 川を挟んで布陣したこと。

 こちらから川を渡って攻めたこと。

 主力の殆どを敵本陣にぶつけたこと。

 此岸の伏兵を考慮に入れなかったこと。

 ――そもそも、罠と知った上で先に動いてしまったこと。

 譬え勝ち戦にしても、事後に改めて粗を探せばきりがない。況や負け戦に於てをや。

 安倍勢の形勢は、此処に至って一挙に崩壊していた。


 ざぶざぶと、徒で濁流を渡り近づいてきた経清が、悲壮極まる顔で貞任を見つめた。

「貞任殿……」

 その目からはとめどなく涙が溢れている。


「……只今、――安倍は、終わった。もう起死回生の余地はない」


 今にも崩れ落ちそうな様子の経清を見返して、貞任は呵々大笑した。

「その台詞、俺を看取ってから言ってくれ! 今以ての問題は、どうやってこの矢の雨霰を搔い潜って衣川まで帰るか、ということじゃ。見よ、こちらが及び腰と知って、勝ちに乗じた敵勢が勢いづいて攻め立ててきておる。何とか敵を牽制し全将兵を渡河させねば。衣川はこの川の反対側じゃ!」

「兄上!」

 一加が自軍のしんがりを務め駆け寄って来た。こうしている間にも敵の矢は次々と襲い掛かり、味方の兵は斃されていく。

「おお、生きておったか! 髭一よ、よく妹の背後を守ってくれたのう。さて、皆よ! 家に帰るぞ!」

 皆を励ますように明るい声を放つ貞任に、今が頃合と見て取った両岸の清原勢が一斉に斬りかかってきた。

「貞任殿、ここは我らにお任せあれ!」

 本陣側から援護していた平孝忠ら伊具の将兵らが両岸に向けて弓を構える。

「永衡様の仇を討ち、此処に於て主君に殉ずるが我らの本懐。……経清様、今日まで我らを導いてくださったこと、感謝申し上げますぞ!」

 涙を流しながら太刀を捧げてみせる孝忠に、経清はふらふらと歩み寄ろうとする。

「待て!」

 鋭く叫んで貞任が経清の腕を掴んだ。

「俺も此処に残り、あやつらと共に戦うのじゃ。……せめて清原に一太刀報いてくれる」

「そなたの犬死は許さぬ。あやつらを犬死にすることも許さぬ!」

 号泣し膝を折りそうになる経清を抱え上げ自らの馬に乗せる。

「只今より帰投する。者共、死なずについてこいよ!」

 高らかに応じる安倍の軍勢は、踏み止まり敵の猛攻を食い止める伊具の勇士たちの決死の奮闘を背中に、衣川を目指し撤退した。

「――一加!」

 漸く両岸を制圧した清原勢の一群から抜け出した義家が、川沿いの崖路を進み去っていく安倍勢に向かって叫ぶ。

 一瞬だけ、こちらを振り向いた人影が垣間見えたが、すぐに敗残兵の行列に埋もれ見えなくなった。


 ――貞任等、遂に以て敗北す。官軍、勝に乗じて北るを追ふ。賊衆、磐井河に至り、迷ひて或いは津を失ふ。或いは高岸より堕ち、或いは深淵に溺る。暴虎馮河の類は、襲ひ撃ちて之を殺す。戦場より河辺に至るまで、射殺する所の賊衆は百余人、奪ひ取る所の馬は三百余匹なり。




 同日夜半。高梨宿付近、石坂柵。


 宿営地として目指していた砦が炎を上げている様子を呆然と見つめながら、安倍将兵らは皆その場に立ち尽くした。

「敵の手がここまで伸びていたとは……」

 信じられぬ思いで経清が呟いた。

 そのすぐ横で貞任がうんざりした様子で溜息を吐く。

「やれやれ、やっと休めるかと思っておったが、これは野宿しかないかのう。それとも――」

 不意にぐい、と経清の襟首を掴んで引き寄せる。今まで彼の頭のあった後ろの木に矢が突き刺さった。

「……やっぱり、野宿は止めじゃ。このまま衣川まで馬を走らせる!」

 すぐに三方から幾つもの鬨声が上がる。

「我らと同じ手を使ってきおるわ。だが、ああいう手を使う時は多分に小勢。自軍を大勢と見せかけるための常套手段よ。気にせず進むぞ!」

 だが、その声が四方八方と増えていくにしたがって、貞任の顔から余裕が消えていった。

 遂に後方から剣戟と悲鳴が聞こえるようになると、貞任は行軍の足を速めるように指示する。しかし敗軍の列は長く、進軍は思うように捗らない。

「矢は放つな、前のみ見て進め! 真正面から仕掛ける敵にのみ対処せよ!」

 闇夜での同士討ちを恐れた貞任が全軍に指示する。

 その行軍が、ぴたりと止まった。

前方に無数の松明が、安倍勢の行く手を阻むようにずらりと並んでいた。

 後方では相変わらず刃を打ち合う喧騒が聞こえてくる。前後を敵に挟まれた。

「……衣川は目の前だというのに!」

 忌々しそうに舌打ちを漏らす。既に貞任の表情にはいつもの飄々とした様子は欠片もない。

 正面の敵勢から一人の男が歩み出る。

 清原軍総大将、武則であった。

「なんじゃ、途中から見かけぬようになったかと思えば、先回りしておったか。うっかり書くのを忘れられていたのかと思うておったぞ!」

 貞任が無理に笑ってみせる。それに対し、武則は余裕たっぷりの笑顔である。

「やれ、嬉しや。目障りな安倍の偽当代が儂の目の前で首を差し出してきておる。のう、貞任よ? 我ら清原と縁もゆかりもない俘囚の末であるそなたが、不相応にも安倍家督候補の筆頭に挙げられたと聞き、その上、とうとう陸奥の頭目に就くと知った時、正直儂は心底ぞっとしたものだわい。……だが、その懸念も今宵払拭されよう。これより清原の手によって貴様等余分な者共を奥六郡安倍家の中核から除き、我ら出羽と真に血縁の深い者達で陸奥の統治を構築し直す。これで奥羽も安倍も清原の下に安泰じゃて。安心して此処で死ぬがよい」

 冷たく見つめる武則の言葉に、貞任は今度こそ腹の底からの笑い声を上げながら高々と薙刀を振りかぶって見せた。

「……仙北の親爺殿よ、俺はやはり貴殿が嫌いじゃ。いつもながら、言っておられることの半分も理解できぬ!」

 すぐ横にいた経清が刀を抜き放つ。

「兄上……」

 駆け寄って来た一加もまた、兄の傍らで得物を構える。

「……私も、生き延びて果たさねばならぬことがありまする」

 女主人のすぐそばに控え、髭一も弓に矢を番える。

 安倍勢総員が、それぞれの武器を握り直し、目前の大軍を睨み据える。

 皆の覚悟を背に感じながら、貞任が唇を噛み締めながら頷いた。


「皆よ――生きて再び衣川で逢おうぞ!」



 貞任が全軍へ突撃の号令を掛けようとしたまさにその時、――突如天地を轟かすかの如き大音響の谺が四方の山々を震わせ近づいてきた。

「な何じゃあっ!?」

 肝を潰した清原兵達が声のする方へ一斉に目を向けると、怒涛の勢いで敵兵らを弾き飛ばしながら突進してくる鼻息荒き猛将が闇の中から姿を現した。


「――磐井長者金為行、ここに見参せりっ‼」


 その後ろから、大虎殿に負けじと気迫を込めて吠え猛る磐井騎馬隊が、続々と闇夜を切り裂きながら清原勢に躍り掛かる。

 不意を突かれた敵勢は大混乱となり、泡を食った武則は自軍の態勢を立て直すため軍勢の中に走り去っていった。

「舅殿、助けに来てくださったか……!」

 思わず歓声を上げる貞任の目には涙が光っていた。

「石坂柵が燃えていると聞いて、まさかと懸念してな。この磐井の大虎、娘婿の危機と知れば地獄の果てまで駆け付けるものと心得られよ、息子殿っ!」

 ニカっと歯茎を剥き出しにして笑いかける為行に、窮地にあった安倍将兵の士気は一気に燃え上がった。

「皆は只衣川を目指されよ。我らが最後まで援護いたしまする!」

 磐井勢軍師、金師道が敵勢に矢を放ち牽制しながら進路を指で指し示す。

「師道殿、恩に着るぞ!」

 厚く礼を言いながら、自軍を振り返り貞任は声を上げた。

「目指す衣川関まで僅か三十町じゃ、一気に駆け抜けるぞ!」

 声も高らかに安倍勢が応えた。



 だが、その撤退戦は実に熾烈を極めるものとなり、数十年後に黄金の都として栄えることになる此地――平泉一帯は、清原、安倍、磐井の兵達の亡骸で埋め尽くされる残状を呈した。


 ――三十余町の程、斃亡せる人馬、宛も乱麻の如し。肝胆地に塗れ、膏膩野を潤す。


 この戦いの果てに、金師道、金依方をはじめ磐井軍武将の殆どが討死し、名馬を誇った磐井騎馬隊は全滅した。為行も負傷したところを捕らえられ、遂に磐井勢は国府に帰順することとなったのである。

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