第2章 阿久利川事件 7
翌朝。
もうすっかり疲れ果てた顔で出発の支度をする頼義ら一行を物陰から盗み見ながら、ほっとした顔で頼時と宗任が頷き合う。
(……何とか急場は凌げたわい)
(後は衣川関まで見送るだけ。……永い二日間でございましたな)
頼義よりも余程疲れ切った顔で二人が揃って大きな溜息を吐いた。
涼しそうな顔をしていたが、その実この一週間一睡もせず二人で準備に追われていたのである。
屋敷の玄関で馬の用意をしていた義家と元親の元に、一加が双子達を伴い現れた。
「や、これは昨日は……」
ばつの悪い顔を浮かべる義家に、何事もなかったかのような顔で一加が錦に包まれた上衣を差し出した。中身の上着よりも包装の方が余程高価のようにみえる。
「昨日は我が侍女を助けてくださったこと、有難く存じ上げまする」
よそよそしく低頭する娘と、そのつれない様子に何やら悲し気な御曹司を不思議そうな顔で元親が見比べていると、その裾を双子達が引っ張り話しかけてくる。
「川で遊んでいて、私の着物が流されたのでございまする」
「こちらの若様が上着を貸してくださったのでございまする」
そう教えられ、ようやく元親も合点がいった。
「ははあ、成程。これはまた随分可愛らしい天女ですな。御曹司、何処へ行っていたかと思っていたが、この女童達と水遊びに興じておられたか」
微笑ましそうな顔で自分を見る元親になんと返してよいものか口籠る義家に、一加が歩み寄る。
「お気持ちばかり一緒に包ませて頂いております。どうかお納めくださいませ」
錦の包みを前に思案顔を見せる義家だったが、やがて贈り物を辞退しながら笑いかけた。
「羽衣を受け取ってしまったら、天女に二度と会えなくなるという。どうかそなたに納めて頂きたい」
「え……?」
顔を上げる一加に、義家は寂しそうに笑った。
「――そなたを天に帰したくないのだ」
そこへ出発を告げる父の声が聞こえ、「ではまたいずれ」と頭を下げながら二人は去っていった。
「姐さま、顔が赤うございまする」
「真っ赤にございまする」
「こ、こら、揶揄うでない!」
包みで顔を隠そうとする女主人を囃し立てていた侍女達に、「これ、禿よ。こちらに参れ」と物陰から声を掛けるものがある。
呼ばれてとたとたと駆け寄る蘿蔔に、同じくらい顔を赤くした景季がそわそわと封書を手渡した。
「これをお前の主人に渡しておくれ」
「?」
「では、頼むぞ」
そう言って、名残惜し気に一加を見つめると(といっても菘に揶揄われ包みで顔を隠しているのだが)、涙を浮かべながら「君よ、さらば!」と駆け去っていった。
思わぬ騒動が起こったのは、一行が馬に乗り屋敷を立とうとしたときである。
門の方で何やら揉めているのに気づき、先導を務めようと手綱に手を掛けていた頼時が何事かと馬を降りた。
やがて門番が引き留めるのを振り払い、誰かがこちらに鼻息荒く近寄ってくる。
「頼時殿、朝早くから恐れ入る! おお、貞任殿も、一同皆お揃いではないか! これは気仙討伐の協議を致すに都合良うござるな、実に良い時に来たわい!」
頼時、宗任らは思わず絶句し、貞任は天を仰いだ。
(何でよりによってこんな時に押しかけてきたものか……っ!)
「お出掛けのところ心苦しいが、今日こそは真面目に話を聞いて頂きますぞ!」
物凄い剣幕で鼻息荒く一同に詰め寄るのは貞任の舅であり、磐井郡豪族、金為行であった。
「あの愚兄め、もう勘弁ならぬ。今こそ我ら磐井と貴公ら胆沢六郡が手を組み、念願の気仙討伐を成し遂げましょうぞ! 為時奴、見ておれ、今に散々に吠え面掻かせてくれるわ!」
「何、気仙討伐? 穏やかではないのう」
前が
「為行殿、今は控えられよ、陸奥守様の御前であるぞ!」
「何ぃっ! 陸奥守だと! ……ひいぃっ!?」
何のことかと鼻息荒く振り向いた為行は頼義の姿を認めて蒼白となり、慌ててその場に平伏した。
「……何やら取り込み中のようじゃのう。見送りは此処まででよい。それより頼時よ。貴公の今日までの心尽くしのもてなし、まことに有難かったぞ。いずれ日を改めて礼を致そう。では、失礼する」
そう言って、何やら含みあり気に笑顔を見せると、何とか取り繕いながら恭しく見送る安倍一同に愛想よく手を振りながら帰路に就いた。
衣川関を抜け、栗駒郡で一行が馬を休ませていた時に、頼義が元親を呼びつけて尋ねた。
「気仙郡を治めているのは、確か金為時であったが、先程入れ違いに現れた騒がしい男とはどういう関係か?」
「は、先程の為行殿と為時殿は同じ氏族の兄弟同士ではあるものの、何でも大層仲が悪いと聞いております。何れも安倍に連なる一族ではございまするが、特に磐井の為行殿は娘を貞任に嫁がせて以来、安倍との結びつきを強めておりまする。それが気仙方の顰蹙の的とか」
「ほう、成程」
にやにやと酷薄な笑みを浮かべ、元親を下がらせた後に独り言ちた。
「……どうやらこの三日間、徒労に終わらずに済んだようじゃわい!」
後日。金ヶ崎西根、安倍氏居城。
この日は朝から雨が降っていた。
物憂い表情で柱に凭れ溜息を吐く女主人を心配そうに双子達が囲んだ。
「姐さま。ずっと元気がありませぬ」
「釣りにも連れて行ってもらえませぬ」
「ごめんよ。……少し疲れたのじゃ」
そう答えてちらりと部屋の隅に置いた錦の包みに目を遣る。
義家の置いていった夏衣である。未だ包みを解いてすらいない。
――昨日見たそなたの姿が忘れられなくてな……
「……」
――そなたを天に帰したくないのだ……
溜息を吐きながら視線を雨に濡れる中庭の椛の木に移す。
今やすっかり山の木々も秋の色に染まっている。
陸奥守の任期も、残りあと僅か。皆と共に指折り数え待ち望んでいた平穏な日々がもうすぐそこまで来ているというのに、何故か手放しで喜べぬ。
何物か知れぬ重たい感情が胸の底に重く沈み、ますます気持ちが沈み込む。
「そういえば、この前の宴で、姐さまにって手紙を渡されておりました。男の人からでございまする。すみませぬ、すっかり忘れておりました」
「え?」
身を起こし、手紙を受け取ると、見覚えのない名が記されている。
「誰?」
首を傾げながら文を開いてみる。ますます首を傾げる。
宗任の元を訪ねると、丁度宗任は弟の家任と碁を打っているところであった。庭先の皀の木にぶら下がる赤黒い実が雨に濡れそぼり、何処か物寂しい。
「おお、最近元気がないというから心配しておったぞ」
笑顔を向ける兄二人に手紙を見せる。
「これを殿方から頂いたのでございます。兄上は歌にお詳しいと思ったので」
「はは、そなたもそういう色めいたものを寄こされるようになったか。兄は嬉しいぞ。どれ――」
と、受け取った文に目を通していた宗任は読んでいるうちに大笑いし、横から覗き込んでいた家任は妹同様よく判らなかったらしく難しい顔をして首を捻った。
「そなた、よくこれをこの兄に見せようと思ったのう。この文の相手、余程そなたに惚れ込んでおるぞ」
「比喩が多すぎて意味が分かりませなんだ。送り主もよく判りませぬ。先日の衣川の宴で蘿蔔がこの文を託されたらしいのですが」
「ははあ、となると先日の陸奥守一行の公達の誰かだな。これは後年ふと思い出して悶絶する類の内容じゃぞ。いやあ、痛い痛い。とはいえ、侍女を通して手紙を寄こすとは一応作法は弁えているようだが。この場合、それが猶の事痛いのう」
手紙を裏返して差出元を改めるが、覚えのない名である。
「はて、誰だっけ?」
兄二人も首を傾げる。
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