第1章 鬼切部の合戦 2


 夜更けに、元親は震えながら寝屋から這い出した。

 もうすっかり吹雪は止み、風もない静かな夜である。

 水を飲もうと手洗い場へ行くも、桶の水は底まで凍り付いていた。

「……」

 そこへ気配を聞きつけた不寝番の兵が姿を見せる。

「おや、軍監様。お休みになられないので?」

「寒くて寝られぬのじゃ」

「では寝処へ火をお持ちしましょうか?」

「おいおい、某の為にそこまでせずともよい。気持ちは有難いが……」

 最前線の陣で国府出向の将が一人だけぬくぬくと寝屋で火に当たっていたとあれば多賀城の沽券に関わるだろう。

 では何か温かいものを淹れてきましょうとその場を立った兵士の後ろ姿を見送りながら苦笑する。

(まったく。この兵卒、国府の武将は皆官位を授かって踏ん反り返っているものとでも思っているのか)

 兵士の淹れてくれた白湯を啜りながらホウ、と白い息を吐く。

「おぬし、重成様の秋田勢ではあるまい。国府付きの兵でもないようだが何処から参った?」

 元親に座を勧められ隣に腰を下ろし一緒に白湯を飲む兵士に尋ねる。歳の頃は元親よりやや若いようだが、肩に背負う三尺二寸の大太刀を見ると相当腕に覚えある者と認められた。

「自分は伊具郡八竜城に所属しております。生まれは下総ですが、主家に従い陸奥の地に赴任しました。任地で俘囚の妻を娶り、娘も二人生まれたので、もう故国に帰ることはないでしょう。十年もこの地に住んでおりますので、今では陸奥は自分の故郷のようなもの」

 伊具郡八竜城といえば、先日まで平永衡が郡司として管轄していた砦である。主の名を口にしなかったのは、宣戦間もなくして永衡が俘囚側に寝返ったことを恥じての事だろうか。永衡は数年前に頼良の娘を妻としていた。板挟みになり悩んだ挙句の行動だった。

(裏切り者の郎党を、見せしめに最前線に送り矢の盾にでも使い捨てるつもりだったか。いかにも登任様がやりそうなことだ)

「失礼ながら、軍監様はどちらの御出身で?」

 兵卒にしては馴れ馴れしい口の利き方だが、気にした風でもなく元親が答えた。

「某は山城の生まれじゃ。姓は橘だが、あの名門とは縁もゆかりもないぞ。貧乏貴族の末っ子よ。境遇も、まあ、おぬしと似たようなものじゃ」

 実際、大きな顔して威張れるほどの生い立ちでもない。物心ついた頃に親兄弟の殆どは疱瘡に倒れ、身寄りもなく貴族の家々を渡り歩いているうちに武の腕前を見込まれ国司のお供として陸奥国多賀城に赴任したのが十余年前。そこで土地の女と一緒になり子も成したが、程なくして二人とも流行り病で揃って死んだ。元親が家を離れている間のことであり、死に顔も看取らぬまま、未だ二人の墓の場所さえも知らないままである。時折思い出して無性に泣けてくることもあったが、久々に身の上を人に語ったためか、少しだけ温かい心持となった。

「……さて、そろそろ寝屋に戻るとしよう。白湯を馳走になったな。美味かったぞ」

「恐れ入ります。しかし今夜は冷えますね」

 わしわしと両腕をさすりながら兵士が空を見上げる。

「もうすっかり雲も晴れたようでございます。鼓星があんなにくっきり見えます」

 兵士が指さして見せる北の山裾の方に、何気なく目を遣った元親が、ふと眉を顰める。

(……まてよ、この時間に、三ツ星が北の空にあると? それもあんなに低く?)

「あれは鼓星ではないぞ。あれは……松明の明りじゃ!」

 元親の声に、兵士もハッとして周囲の山々を見渡す。

 三ツ星どころではない。よく目を凝らせば、いつの間にか辺りの山裾至る所に橙色の一等星が揺らめいている。

「おい、他の見張りの雑兵共、居眠りでもしておったかっ⁉」

「敵襲じゃ、敵襲じゃっ!」

 二人が叫んでいる間に、四方から無数の流れ星が降り注いでくる。逆さに空へと昇っていく流れ星とな? などと首を傾げる者はもはやいない。

「火矢じゃ!」

 押っ取り刀で番兵達が駆け付けるのと、夥しい数の火の雨が地に突き刺さるのは殆ど同時であった。

 たちまちのうちに陣地の方々から炎が燃え上がった。焼け出された兵士達が夜着のまま悲鳴を上げて飛び出してくる。

「まさか、あの吹雪の栗駒山を、須川の渓谷を大軍率いて越えてきたというのか!」

 信じられぬ思いで元親が叫んだ。果たして蝦夷とやらは鬼か化け物の類ではないのか⁉

 少し先から獣の吠えるような雄叫びが聞こえた。重なるように断末魔の悲鳴が聞こえ、どう、と斬り倒される味方の兵士の姿が見えた。

 ひゅっ、と元親の耳元を矢が掠めていった。山からではない。地上から元親を狙って放たれたものである。

(もう陣に下りてきたか!)

 或いは、予め陣のすぐ傍に潜んでいたか。

 いつしか周りにはちらほらと友軍兵士とは明らかに異なる、真っ白な毛皮のようなものを纏った者達の姿が見え始めた。

 突如、四方の山々を轟かすような鬨の声が響き渡る。山を取り囲む敵勢が一斉に声の限り叫んでいるらしい。これで敵の配置がますます捉え難くなった。只一つはっきりと判るのは、味方が敵に一方的に蹴散らされているという有難くない状況のみである。それがますます味方の混乱に拍車を掛ける。

(良い撹乱じゃ)

敵の手ながら思わず元親が唸る。

自分の寝屋の方を見ると、既に炎に包まれ近寄る事すら叶わない有様。無論、弓矢も刀も甲冑もあの炎の中である。

(某としたことが、迂闊だった。一生の不覚じゃ)

 どうしようもなさに最早笑えてくる。

「軍監様、お下がりください!」

 元親を庇うように兵士が刀を抜いた。

「ぐっ」

 その胸に敵の矢が突き刺さる。

「お前⁉」

 崩れ落ちる兵士を抱き止めるが、心臓を射貫かれ既に絶命していた。

 すぐ目の前を、興奮した馬の一群が秋田勢の兵士を蹴散らしながら駆け去っていく。

(……馬まで盗られたか。勝負は最早決したな)

 方々からは敵の威勢の良い吠え声。片や味方から聞こえてくるのは悲鳴やら泣き声やら。誰の目にも勝敗は明白である。

 秋田勢の精鋭五百は、一刻も経たぬうちに総崩れとなっていた。

「……借りていくぞ、仇を取ってきてやる!」

 倒れた兵士の腕から刀を捥ぎ取ると、元親は戦名乗りを叫びながら燃え上がる陣の中心へと走った。


本陣では、守りの態勢を固めた重成とその側近らが盾を集め敵の矢を防ぎながら果敢に応戦している。

 その反対側の向こうでは、鎧に毛皮を纏った俘囚一味と思われる一群が間断なく矢を射かけていた。

(流石雪山を越えて来ただけのことはある。冬の装備が我らと根本的に違う)

 その一群の中で、一際異彩を放っている男がいた。

 途轍もない巨漢である。身の丈六尺は優に超えるだろう。真っ白な毛皮と屋根瓦を縫い合わせたような厳つい鎧をはち切らさんばかりに突き出した腹を揺らしながら落雷のような大声で配下達を叱咤している。

 何より目を引くのは、男の顔に描かれた隈取だった。ずっと後の世の歌舞伎役者が面に引く代赭隈に似たような鮮やかな文様が、男の異様を更に強烈なものとする。もし俄兵士が男の前に立たされようものなら、一睨みを受けただけで忽ち卒倒することだろう。

(あれが俘囚の首魁か。恐らく安倍一族に連なる者か?)

「重成様!」

 元親が声を上げる。それに気づいた重成がこちらを向き、力強く頷きながら手を振って見せる。

 我らは大丈夫。其許は早くこの場を逃れよ、ということらしい。

(そうはいくものかよ!)

 気合の声を叫びながら踏み出そうとする目の前に俘囚の一人が奇声を上げながら斬りかかった。

「……っつぁ⁉」

 咄嗟に太刀で受けた元親は危うく後ろにつんのめり倒れるところを辛うじて踏み止まった。

「ヒャハハハ!」

 奇声を上げながら俘囚が間合いを取る。

(なんという斬撃じゃ、両手で受けていなければ剣を弾き飛ばされていた!)

「貴様、良い太刀を持っているな。やまとの兵共、どいつもこいつもなまくら刀で儂の剣を受けようとするが皆刀ごと頭を叩き割ってやったところじゃ」

 意外と年若い声で俘囚の武者が不敵に嗤う。どうもこの男の様子は、他の俘囚の兵達や、首魁の大男と比べても何処か尋常ではないように見えた。

 その手に持つは元親や他の俘囚達が持つものとは明らかに形状の異なる、鉈のように刃幅の広い剣である。

「我が名は漆部利うるべり。我らエミシの首領阿弖流為あてるいが副将母體もれの末裔。この日の為に母體の血統を繋ぎ、貞任様の庇護の下、貴様等倭の首に突き立てる憎しみの刃をひたすら研いでいた者じゃ。倭の武将よ、儂はこの時を待っておったぞ。我らエミシの積年の恨みを晴らす日を、実に二百有余年もな。只々、この時を待ち焦がれていたこの喜び、貴様等にはわかるか。儂は今、嬉しくて嬉しくて堪らぬぞ。そうさな、身悶えするほどに儂は嬉しいのじゃ、ヒャハハ!」

「……は、はは」

 思わず元親も乾いた笑いを漏らす。

(ああ、重成様の懸念というのは、まさしくこの男の謂いのことか。……成程、もう既に二百有余年も戦の尾を引いている)

 生半可な覚悟の決め方で敵う相手ではない。

 太刀を握り直し、元親はエミシを名乗る男へ大きく振りかぶった。


「そのくらいにしておけ!」

 大男の一斉で、俘囚達が一斉に弓を下ろした。元親に対峙する男もすんなりと刀を収めて引き下がる。

「よく聞け、国府の兵士共よ。もし無法な言い掛かりで再び我らを挑発しようものなら、今度こそ容赦はせぬ。我が名は奥六郡司安倍頼良が二男、貞任なり。もし貴様等国府の者共がその気というなら、いつでもまみえようぞ!」

 掠奪した馬に跨りながら、大男が最後の一吠えを放った。

 まるで朝霧が解けていくように引き上げていく敵兵達を、生き残った秋田勢はただ呆然と立ち尽くし見送っていた。改めて見れば、敵勢はせいぜい五十に満たない。とはいえ、その背に向けて一矢報いようなどという戦意は、もう誰にも残されていなかった。

 完全に敵の奇襲に呑まれた態で、秋田勢は全滅したのだった。


 いつの間にか、東の空が白々と明けつつあった。

 朝日に照らされる幕営地の焼け跡は、未だ燻り続ける残骸に混じり、幾百もの味方の亡骸が横たわるばかり。

 

(……済まなかったな。この太刀、そなたの形見に頂戴するぞ)

 ほんの一時であったが親しく言葉を交わし合った兵士の遺骸に手を合わせた。その元親の背後から、重成が声を掛ける。

「元親殿、あれを見よ」

 強張った顔で、麓の方を指し示す。

 晴れ渡った冬の高い空の下に、辛うじて栗原の平野が見える。

「まさか……!」

 そう呟き、元親は言葉を失った。


 濛々と黒い煙が立ち上っているのは、登任が指揮する国府軍主力の陣地。


 鬼切部で秋田勢が奇襲を受けた同時刻、麓に布陣していた本隊もまた頼良三男宗任の攻撃を受け、大きな損害を被っていた。


 ――太守の軍敗績し、死する者甚だ多し。


 後日、この大敗北の責任を朝廷より厳しく追及された登任は、陸奥守任期満了を目前に更迭され、出家を余儀なくされたという。



 後に十二年合戦、または前九年合戦と呼ばれる陸奥安倍氏と国府軍との長い戦乱の時代は、安倍軍の圧勝によって幕を開けることとなった。

 

 

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