白狼姫 -前九年合戦記-

香竹薬孝

 康平五(一〇六二)年、長月。陸奥国胆沢いさわ郷西根鳥海柵とみのさく付近。


 昼過ぎ頃からうっすらと平地一帯に翳み出した霧は、夕刻を迎える頃には数間先も見通せぬほどに濃いものとなり、冷たく湿った風が、泥濘に足を取られながら進む将兵達や馬の背から濛々と湯気を立ち昇らせる。霧雨のように水っぽい空気が、鎧兜の上を覆った蓑や笠に雫の玉を滴らせる。

 この数日降り続いた長雨により大河北上川の水嵩は増し、川沿いの本道は既に堰を越えて氾濫した水に浸かり、歩む者には最早道か田畑かの境もつかない。すぐ傍らでは飛沫の音も恐ろしい濁流が節根を露わに浮かぶ巨木すら悠々と押し流していく。霧に惑わされ、うっかり足を踏み外せば命はないだろう。

「……ああ、寒い。もう夏も終いとは言え、これがつい先日まで蝉の鳴いていた時節かよ。同じ字面でも、鳥海ちょうかいの山とこっちの柵とでは大違いじゃ」

 騎馬武者の後ろを薙刀を肩に行進していた徒兵の一人が震えながらぼやいた。

「最上の河原では今頃童共わらべどもが水遊びに興じている頃だわい。これが噂に聞くヤマセの風という奴かいな?」

 大きなくしゃみをしながらもう一人の徒兵も呟く。会話を聞く限りどうやら彼らは出羽出身の兵士達らしい。

「まったく、おぬし等の愚痴を聞いておると、この儂まで堪らぬ心持になるわい。早いところ陣に戻って、陸奥勢からせしめた濁り酒に人心地酔いながら暖を取りたいものじゃ。留守隊の奴ら、まさか儂らの分まで干しておらんと良いが」

 従卒達のぼやきを聞いていた馬上の主人も思わず零す。

 行列を見回してみると、ぼやいているのはこの主従達だけではなく、二三十騎程の将兵達は誰も彼も似たような有様。皆辟易とした様子である。

「やれやれ、敗残兵の逆襲に備えよ、というのは判らぬでもないが、よりによって遠路遥々着いたばかりの儂らがこの薄ら寒い中の巡回を命じられるとは」



「なんと呑気なものよ」

 後ろに続く兵士達の様子を見るに見かねて振り返り一喝した副将が舌打ちを洩らしながら顔を顰める。しかし肩を怒らせ悪態吐く副将の様子は、呆れ果てた、などという一拍余裕のある気配ではない。先頭を固めているのはれっきとした朝廷の使命を帯びた国府多賀城出向の歴戦を経た官軍将兵らなのだが、どの顔も恐ろしく張り詰めた緊張に強張っている。後方の着任間もない騎馬武者達とは雲泥の差である。警戒する相手は、余程今まで彼らの心胆を寒からしめた者らと見える。

「あの兵ら、確か昨日着陣したばかりの清原からの補充兵であったな。たしか……」

 傍らの大きな鍬形飾りの見事な兜を被った大将格が思案顔を作り、兵士達の頭目の名を思い出そうとするが、それが中々出てこない。なにしろ、昨日までの間にあまりに人が死に過ぎた。新参者など一々覚えている暇がない。悲しいことじゃ。と大将が目を伏せる。この殺し合い、一体幾年続く事か。

「勝鬨の宴の真っ最中に座に加わったような兜の温い兵共です。彼奴等の――胆沢狼の恐ろしさを知らぬのでしょう」

 副将が厳しい面持ちで主の表情を伺う。

「彼奴等、現れるものでしょうか?」

「さてな」

 思案顔を崩さぬまま、――元来そういう面相なのかもしれないが――大将格は中空の方へ視線を向けたまま答える。

「現れぬというのなら、それでも良い」

 墨を引いたような切れ長の双眸が、ふっと弧を描く。

「その時はこちらから逢いに行くだけのことじゃ」

 どこか嬉しそうでもある、まるで待ち遠しげでもある主の様子に、副将は頼もしさの他にヒヤリと寒気に似たものを覚える。

(……果たして、この御方には恐怖心というものがないのか?)

 鬼切部の合戦から黄海の惨劇に至るまでの彼奴らとの血みどろの戦いを思い出しただけでも未だに身が竦むというのに……何故この大将は笑っていられるのか。



「ん?」

 隊列の丁度真ん中あたりを進んでいた徒兵の一人がふと川の対岸に異変を感じ声を上げる。

 分厚い霧に翳んで、何かがチラリチラリと川沿いにひらめいている。

 よく目を凝らしてみると馬が数騎、真っ白な外套と思しきものを羽織った乗り手がこちらを追うように並走しているのが見えた。

「なんだべ、あの白いヒラヒラしたモン?」

 素っ頓狂な声を上げる兵の報告に、先頭を行く国府軍兵士達が一斉に血相を変えた。

「敵襲じゃ! 散れ、散れエっ!」

 皆口々に悲鳴のような声を上げながら、ある者は泥濘に身を伏せ、またある者は土手を転げ落ちながら背後を警戒するように弓を構えた。

 その只ならぬ様子に驚いた後方の清原勢も慌てて対岸に向けて矢を番えるが、とてもお互いに届く距離ではない。

「綾目も判ぬこの霧に、彼奴等の印の白い毛皮。出てこぬはずがないと思うておったが」

 嬉しそうに笑みを漏らす大将格を囲むように騎馬武者数騎、更にそれを取り囲むように四方に散開する徒兵十数名。

「北側を警戒せよ、彼奴等は必ず北からくるぞ!」

 副将が直参の兵らに檄を飛ばす。

「まて、十郎よ」

 横から大将が口を開く。

「あの敵騎馬は金ヶ崎の本隊じゃ。対岸に精鋭を差し向けてくるということは……」

 主の言葉に、副将は目を剥いた。

「――囮か!」

 


「おい……冗談だろう?」

 対岸の敵に矢を構えていた清原勢は目を疑った。

 白外套の騎馬達がこちらに向かって矢を番えながら、うねりも物凄い濁流の中に次から次と飛び込んでいく。

「渡る気か、正気ではないぞ⁉」

 思わず息を飲んだが、敵騎馬は馬の腰が濁流に浸かる前に足を止めた。

 だが此岸までの射程には十分である。

 それに気づくうちに、たちまち数騎の味方騎馬が矢に撃たれ馬から転げ落ちた。

「い、射返せ、今なら敵は川に嵌まって身動きできぬ只の的じゃ!」

 体勢を立て直し頭目が叫んだ時には既に敵騎馬は川から引き揚げ霧の中に姿を消していた。



「敵は、去ったか……」

 ほっ、と安堵の息を吐く清原勢に慌てて国府勢の騎馬が駆け寄る。

「馬鹿、気を抜くな! 今のは囮じゃ、背後から」

 言葉の途中で額に矢を突き立てられた武者が天を仰ぎながらのけぞり崩れた。

 驚いた馬が射られた乗り手を鐙に絡め引き摺ったまま清原勢を押し退けるように走り抜けていく。馬の去り行く背中が白く翳み、真っ白な霧の衣端が幾つもふわりと翻った。

「ひっ――!」

 今さっき来た道は既に敵兵に埋め尽くされていた。

 数間と隔てぬ至近距離にて、手に手に弓を構える毛皮を纏った戦士達を前に、悲鳴を上げる暇のあった者は一寸長生きできただけ幸いだったろう。あっという間に放たれた攻撃に皆矢衾となった。

「ああ、……う、うああああ……!」

 倒れた骸の山から、とっさに兵達に庇われ致命の矢を免れた清原勢の頭目が幾本もの矢を身体から生やしながら身を起こす。

「あああ、次郎、三平太、大志郎よ。……皆、わっぱの頃から知っておる。きっと共に生きて出羽に帰ろうと誓った者達じゃ……!」

 足元に倒れる配下の亡骸を見下ろし涙に暮れる頭目が、屹と白衣びゃくいの武者達を恨みの形相で睨みつける。

「鬼め、よくも我が同胞はらからを! こ奴らには故郷に乳飲み子を残してきた者もいるというに……人狼ひとおおかみ奴!」

 泣き叫ぶ頭目の首が血を吹いて転げ落ちた。

「……貴様が今踏んでいるのは、誰の土じゃ? 国司か、陸奥の民のものか?」

 地面に落ちた頭目の首を見下ろしながら、真っ白な狼の毛皮を纏った武者が静かに呟く。

「貴様等に妻子を嬲り殺しにされた我が同胞達の前でもう一度言うてみよ」



「……背後を取られました。清原勢、全滅にござる」

 痛まし気に告げる副将に、大将も悼むように目を伏せる。

「勇敢なる英霊に八幡大菩薩の御慈悲あらんことを。――だがこれで敵の手は読めたぞ!」

 ニッと笑いながら大将は太刀を抜き放った。

「西に備えよ、敵の次は西から来るぞ!」

 振り向きざまに太刀を振るい、目前に迫る三本の矢を叩き落した。

 主の指示に咄嗟に身を伏せた国府勢の際を無数の矢が掠めていく。

 やがて、皆が注視する先に白い騎兵たちが姿を現す。



「……流石は八幡太郎殿、戦場の機微の鮮やかなこと。だが我らが在るは西南二手に限らぬぞ」

 毛皮を纏った将兵を率いた大柄の男が笑う。

 たった今しんがりの清原勢を負かした南側のほかに、当初警戒した北側にも新手が見える。恐らく対岸の囮も、未だその場に控えているだろう。

(つまり、我らはすっかり囲まれている、という事か)

 苦い笑いを浮かべながらもどこか楽しそうに見える大将を尻目に、忌々しそうに副将が舌打ちする。

「御曹司、ここは一か八か、来た道の方へ斬り込みましょう。ここで彼奴等の虜にでもなろうものなら、どんな辱めを受けるか知れたものではない」

「そうだな。……いや待て」

 首肯しかけた大将が言葉を止める。

 霧を纏った敵騎馬の中から、一人の武者が歩み出る。

「侵略軍大将源頼義が嫡男、八幡太郎義家殿はおられるか!」

 歩み出た敵騎馬――声音からして女武将と思しい――が叫んだ。

 はためく純白の毛皮から覗く涼しき相貌と、真っ白な風に靡く漆黒の髪に国府勢が一様に息を飲んだ。

「ああ、ここに居るとも」

 副将が止めるのも聞かず、大将格が馬を進める。

 はっと女武将の気配が揺らいだ。

「……やっと、漸く再びまみえたぞ。俺を殺しに来てくれたか、可愛い姫君よ!」

 心の底から嬉しそうに、国府勢の大将――源義家が笑いかけた。

「……ああ、今度こそ殺してくれる。……殺してくれようとも、愛おしい源太様!」

 女武将もまた、これ以上の喜ばしい邂逅はないとばかりに笑みを浮かべ――涙を浮かべながら、薙刀を振りかぶった。

 二人の騎馬を間に挟み、国府勢は弓を構え、白衣の騎馬達は矢を番えた。


「いざ、参ろう――」

 義家の太刀が霧中に閃き、


「――我らの、最後の戦を!」

 女武将の黒馬が嘶きを上げた。

 


 ぱっと、夕刻を白く染める秋霧を不意に光明が引き裂くように、二人の斬撃がぶつかり合い眩く火花を散らし合った――。




 嘗て陸奥の地にて、十二年に及ぶ戦の折、官軍に畏怖せられたる一群在り。

 曰く、胆沢の人狼、と。


 また、陸奥胆沢に美しき女武将在り。官軍皆悉く之を怖れる。



 ……曰く、――金ヶ崎の人喰い狼、と。

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