第17話 カレーの日

 あかん。あかん。なにしよるんよ、私。勝手に想像して、勝手にパンクして。失礼すぎる。アホ。ほんまに、アホやん。


 喫茶店から飛び出してそのまま走ってやがて田んぼの小道にあった木陰にうずくまった。初夏の木漏れ日が優しい。こんな私にも、優しい。


 田んぼの水の中には、足の生えたオタマジャクシが泳いでいた。ああ、この子ら、もうすぐ大人になるんや。


 大人に……。


 社会人になってからは二年が経った。お酒の味だって覚えたし、結婚ちいうもんがどういうもんかやってわかっとるつもり。つもり……やけど。ほんまはわかってなかったんかな。私は……このオタマジャクシみたいなもんなんかな。カエルになりきれん、水の流れに逆らえん。声を出して自分の意見を主張することもできん……。


 情けない。大人になれん自分が。


「なーんや。やっぱ振られたか」


 頭上から降ってきた声に驚いて顔を上げると、そこには木陰で幹にもたれて不敵な笑みを浮かべる元不良の姿があった。


「……ちゃうわ、アホ」


 ああ、こいつの前やと完全に子どもに戻ってしまう。


「じゃあなんでこんなとこでいじけてるん」

「いじけてないし」

「いじけよったじゃろが、泣いて」

「泣いてないっ!」


 立ち上がって睨んだ。すると私の顔を見て指さしながら相手は改めて言う。


「泣いとる」

「うるさいなっ」


 怒鳴った勢いで涙が零れた。それを境にまたポロポロと溢れ出す。ああもう、止まれ、止まれってば──


「えっ……ちょ、……」


 滲む視界でよく見えんかったけど、私はたしかに誠司に、抱きしめられていた。


 えっ、なんで……?


「やめてよ……」「うっさい」


 押し退けようとしたけど、全然かなわんかった。


「黙って抱きしめられときゃええんじゃ。ほんっま可愛げないのぉ」


「な……はあ?」

「黙って泣いとけ」

「……」


 その後はしばらくそのままで、泣いた。誠司の白のカッターシャツに、たくさん涙のシミを付けた。


 いっぱい泣いて、泣き疲れて涙も枯れると、今度は猛烈な眠気に襲われた。誠司の体温が心地よくて、その匂いが、懐かしくて、あかん、そう思いながら瞼が落ちてきてしまう。


 そんな私の様子に気づくと誠司はそっと私の頭を撫でて抱きしめていた手を緩めると、「ん」と屈んで背中を向けてきた。「え……」それは、つまり?


「乗れ。帰るぞ」


「じ、自分で歩けるわ」

よ」


 苛立った声に困って仕方なくその大きな背中に身を預けた。すぐに身体が地面から持ち上げられると心地よいリズムを刻んで揺れ始める。


 もう眠気に勝てんかった……。


「ありがとう、誠ちゃん」


 夢の中で、言った気がする。




 目を覚ますと自分の部屋のベッドにいた。瞼が重い。たぶん腫れよるんや。お化粧そのまま寝てしまった、顔洗いに行かんと。それより、今何時?


 窓の外は青色やった。慌てて時計を見ると六時二十分。夜……やんな? 一瞬混乱しながらも部屋のドアを開いた。すると。


「あ……」


 いい匂い。これは間違いない。あれの匂い。


 よかった、夜の六時で。などと考えながら階段を降りて台所へ行くと、おかあのまあるい背中が見えて安堵した。


「おかあ、ただいま」

「ああ、大丈夫なん? 真知」


 おかあは私の姿を見ると「おかえり」やなくて心配そうにそう返した。


「誠司……まだおる?」


 カレーの日、いうことはその可能性が高いと思った。けどおかあの答えは私の予想とは違うもやった。


「それがすぐ帰ってしもたんよ。『今日カレーよ』言うたやけど、『先生の仕事の宿題たんまりあるよって』ちて」


「え。そう、なんや……」


 意外、というかあいつの口から『宿題』なんて言葉聞いたことないけどな。


「なんか……言うてた?」


 聞くもなにも、この顔見たらわかるやろうけど。


「んん。誠ちゃんやなくてね、お相手の、沖野さんから。さっき電話があったんよ」


「えっ……」


 また予想と違う話に戸惑った。こちらを向くおかあの後ろでは大鍋に絶品の褐色がふつふつといい音を鳴らし芳しい香りを放つ。


「……次会うん、無理せんでもええんで、ちてね」


「え……」


「『真知さんが悪いんやないから、絶対に自分を責めんとってほしい』ちて物凄ぉ謝ってはったよ。『僕が悪いんですぅ』言うて」


 おかあは優しい目でこちらを見ていた。枯れ果てていたはずの涙が、また湧いてきた。


「それで……『僕が言うんはお門違いですけど』ち言うてね」


「……?」なんやろか。


「『真知さんに無理ささんといたげてください』って」


 その言葉に、涙が溢れた。溢れて、溢れて、ああ、もう立ってられんくなってしゃがみ込んだ。


 おかあはそんな私にそっと近づいて、ふんわりと抱き寄せてよしよしと頭や背中を撫でてくれた。


「おかあ、ごめん、私……」


 思わず謝ると、おかあは「『縁』いうんはね」と静かに話し始めた。


「『縁』いうんは、あるんなら放っといてもいずれ結ばれるんよ。遅かれ早かれね。ほでもそれがないんなら、二人は絶対に結ばれん。どう足掻いても、上手くはいかん。それが『縁』ちいうもんなんよ」


 濡れた目でおかあを見ると、にっこりと微笑んでくれた。


「『縁がない』『縁遠い』なん言葉もあるけど、おかあは人にはそれぞれ『縁』があるち、思うんよね。それが『結婚』ばっかりとは限らんのがまた憎いとこやけど」


 ふふ、と笑うと私の背中を軽くぽん、と叩いた。


「さ、カレー食べよ。顔洗ってきんさい」


 今日のカレーも、美味しかった。美味しくて美味しくて、身にも心にもに、じいんと沁みた。


 誠司も食べたらよかったのにな。


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