千億の個
それから、丸一日。
梓真は防護機動車の窓から夜の空を見上げていた。
会話が途切れ、長い沈黙が続く。他にやることもない。だがそれだけではなく、星座の位置からクルマの向かう方角を測ってもいた。
たぶん、北。
星々が悠久の輝きを送る一方、地平には一切の灯火がない。
SCの広大な試合場の北端は海岸線にまで及ぶ。フェイカーこと“千億の個”がそこを目指していることは容易に想像がついた。
いよいよもって、逃亡は叶わない。その結論に、緊張ともあきらめともつかないため息が出た。
(覚悟を決めたはずなのにな……)
理緒に告げたことは嘘ではない。梓真はこれまでの生活と決別するつもりでいた。
彼女は今も隣の席にいる。
「よかったじゃない」
何が? ……いや――
(……芙蓉少尉のことか)
竹井伍長とともに芙蓉が解放されたのは数時間前のことだった。
「かならず救援を呼ぶから、だから、それまで辛抱して。……絶対にあきらめないで」
別れ際の彼女との会話だ。最後の言葉は、後ろめたさが言わせたのだろう。
「昨日はごめんなさい」
足としてダークライガーが与えられた。何事もなければ、今頃はどこかにたどり着いているだろう。すぐに救援依頼をするだろうが、それを見越したフェイカーたちも、解放直後に移動を開始していた。
「別に気にしちゃいなかったんだがな」
「そうね。巻き添えにしたのは事実だもの」
「ま、女性士官に責められるってのも貴重な体験だったし。……あ? いや……」
後悔したが、遅かった。
理緒ばかりか、前席の玲亜までも冷たい目を向ける。
梓真はわざとらしい咳払いのあと、話題を変えた。
「いつまで移動するんだ?」
「……まだ」
玲亜が返す。
「アイスかなんかねえのか?」
「遠足じゃ、ない」
「わたしはお風呂に入りたい」
「……着いたら、いくらでも入らせてあげる」
(気楽だな。体なら拭いたろ? 乙女心ってやつか)
お気楽なのは梓真のほうだ。
「肌、傷んでるの?」
「え、いえ……」
玲亜は通路に立ち上がって、理緒の手を掴んだ。
「気がつかなくてごめんなさい。もうすぐだから」
理緒をまさぐる玲亜を、車内灯の弱い明かりが照らしていた。一人、梓真だけが戸惑う。
「なんだ? 理緒?」
「……」
「教えてないの?」
すると玲亜は、あとは二人の問題――とばかりに、さっさと自分の席へと戻ってしまう。
「理緒……」
梓真の視線に根負けして、ようやく理緒は重い口を開いた。
「わたしの表皮は、人そっくりの質感とひきかえに、少し脆いのよ。数日に一回は水分を含ませて、専用のクリームを塗らないと……」
「って、そりゃ……」
家を出て、何日が経過しただろう。
「梓真、わかったでしょ? わたしは人じゃない。血管も産毛もぜんぶ作り物。あなたは幻想を見てるのよ」
「……」
梓真は言葉もない。さらに理緒が追い打ちを掛ける。
「だから、オルターに欲情するなんて――」
「欲情!? 欲情って言ったか!?」
「何よ、違うの?」
「ちげーよ!」
そこで突然、ばん! と背もたれが鳴った。
「うっせ! 静かにしろ! 人が気持ちよく寝てるとこ、いちゃいちゃしやがって……」
(……六角!)
警戒し息を潜める梓真。しかし六角は気が晴れたのか、音を立てて体を戻した。
いえ、それは違うわ――
梓真の脳裏に、芙蓉と交わした会話がよみがえる。昨夜、玲亜と別れた直後のことだ。
「違う?」
「教授も始めは、彼らを不審に思っていたもの。それを六角さんが説得して……」
「説得? 六角が?」
「ええ。彼らは自分の協力者だ、信用していいって――」
「どうかしたの?」
回想に玲亜の声が割り込む。
「……なあ、昨日の話だが」
「信じてくれたの?」
「仮に、だ、あの話が本当だとして、AIが間違えた時、誰がそれを正すんだ? 失敗の責任は誰がとる?」
「それもAIの仕事」
フン――梓真は鼻で笑った。
「じゃ、AIが“この星に人間が多すぎる”と考えたら、何をする?」
「人を減らす方法はいくらでもある。自然で効果的なのは、疫病と戦争」
「さらっと言うなよ!」
梓真が青ざめたのは、一瞬、いやなものを想像したからだ。
もし近年起こった紛争や致死率の高い感染症がAIによって引き起こされたとしたら――
(……おちつけ、仮の話にすぎない)
話を戻そう。本題はここから。
「じゃあ、もっと単純な疑問だ。千億の個とやらが存在するなら、あんたらは街中のオルターをいくらでも使えたはずだ」
「……」
「これまでに機会はあっただろ? なんで大会を待って俺たちをさらった? たとえばオルターキラーが襲ってきた時、そこらにいたオルターたちでアシストできたはずだ。なんでそうしなかった?」
「……それは、かんたん。人目を気にしたの」
「ってのは……」
「わたしたちにとって、データの改竄はたやすい。記録画像も、行動ログも。でも人の記憶はそうはいかない。どこかで目撃されて、万一それが顔見知りのオルターだったら、取り返しのつかない事態になる」
「……」
梓真の仕掛けたカマに玲亜は掛からなかった。けれどそれは、より深い疑心を抱かせる。
(“千億の個”の存在を広敷は知らない、のか……?)
「おい! ぺらぺらしゃべんな!」
ふたたび、六角の罵声。
「いいでしょ。仲間になるんだもの」
「いいから、今は黙っとけ! ……話なら向こうでゆっくりできる」
「……」
(仲間……俺がこいつらの……)
向こう? どこに行くのか。
(……どこでもいい)
SCの出場は妹の行方を探るため――それが口実でしかなかったと梓真は思い始めていた。
(逃げ出したかったんだ、あの街から……)
梓真は窓の向こうに意識を飛ばす。
そこには点滅する巨大な星――灯台があった。この“千億の個”の実働部隊一行は、すでに海岸線へと達していたらしい。
目を前に向ける。と、夜空の一角を不自然に星が囲み、そこから手前に光の帯が伸びていた。
(何かある……)
近づくにつれ、その正体が判明する。巨艦が車両の収容作業を行っているのだ。
どうやら古い揚陸艦らしい。
舳先から岸壁に渡った鉄板の橋に、ヘッドライトが列を成していた。さながら鯨の口に飛び込むホタルイカよう。
その自殺者の列に彼らも加わる。
「ずいぶんと遅れてんじゃねえか」
「しかたない。わたしたちを待って撤収したんだもの」
光点は順に飲み込まれてゆき、やがて彼らの目前にも橋を吊り下げるアームが迫る。
「は……」
この大仰さは笑うしかない。
収容されたクルマは三十を下らないだろう。オルターは百体以上いると思っていい。
これらすべて、梓真と理緒のために展開されているとしたら――
二対百――絶望的な戦力差だ。ここまで来たのは成り行きだが、こうなると逃亡は不可能としか思えない。身に装甲服をまとおうとも、百の火器に砕かれるだろう。
「……梓真」
タイヤが鉄板を踏む。それに理緒の声が重なった。
「わからないわ。あなたにも、戻るところが……やることがあるのに」
「しょうがねえだろ、この状況じゃ」
「……」
「俺は――」
薄闇に浮かぶ彼女の顔――それが一瞬で真っ赤に染まった。
「……何?」
冷静さを保ったのは彼女だけ。梓真も玲亜も――六角すら、言葉を失っている。
傾くアーム。その向こうに火の手が上がっていた。
「バックだぁ!!」
六角が叫ぶより早くクルマは後進を掛けている。だが、それすら手遅れだった。
激しく揺れ、窓に地面が迫る。
「ぐっ!」
割れなかったのはさすが防護機動車というべきだろう。しかし梓真は窓に強く頭を打ち付けた。
振動。地響き。爆発。
衝撃が幾度となく脳を打つ。現実かすら定かでない。
「……」
ようやく訪れた静寂に目を開く。と、そこには白い手が伸びていた。
「無事……だったか」
「梓真! 早く!」
「理緒……」
「逃げましょう! ここにいちゃいけない!」
「……」
――逃げる?
――ここから? 奴らから?
――はたしてそれが正解なのか?
……わからない。
わからないまま、その手を取った。
暗闇、しかも勝手の知らない横倒しの車内だ。苦戦しながら、二人は辛くも脱出する。
ようやく開いたドアの外には浜辺が広がっていた。意外なほど明るい。見上げると、斜めに傾げた甲板からは、炎と煙が吹き上げていた。胴の半ばは沈んでいる。
砂浜にめり込んだ恩人に梓真は感謝した。堤からの落下に耐え、自分と理緒を救ったのだ。
「梓真、早く!」
「あ、ああ」
走り出す二人。
しかし行く手にはミランダが待ちかまえていた。銃口はすでに狙いを定めている。
叶わない――そう知りつつも逃げ場を探す。振り向くと、額を血に染めた玲亜の姿があった。
激しい息の合間に言葉を漏らす。
「……逃げ……ないで……約束……したでしょ」
「あんなの無効よ! 脅迫じゃない!」
かちゃ。
ミランダがこれ見よがしに銃を突きつける。
喉奥が一瞬で乾いた。
生身の梓真にとって、それはウンブリエルよりも恐ろしい、絶対的存在だ。
もし撃たれれば――
ところがその黒い凶器へ、電光石火の一撃が突き刺さった。
割れた銃身が落ちる――よりも早く、次の一閃がミランダを地に倒す。
驚きで立ち尽くす梓真。叫んだのは玲亜だった。
「スピカ!」
無言で見つめる細身のオルター。炎を写した銀の体が玲亜を静かに威圧する。
しかしそれは長くは続かなかった。突然、両脇に梓真と理緒を抱えて走り出したのだ。
「待って! これはあなたが――」
玲亜の声が遠ざかる。一度だけ振り向いたものの、そのあとは一心に駆け、そのまま堤防の階段を数段飛ばしに昇っていく。
その途中で、梓真はようやく言葉を思い出す。
「……どうして……」
「後続車にあなたたちの装甲服があるはず。それで逃げましょう」
「おまえは、あいつらの……」
「……」
大小無数の残骸が散らばる堤防に、輸送車はひときわ大きく影を広げていた。
むっくりと、残骸の一つが起きる。スピカは二人を残し、すかさず槍を突いた。その速度は尋常を越えている。
他に動くものはなく、梓真は理緒と輸送車へ走った。ところがふと、二人をスピカが持ち上げる。
一瞬あとに大鎌が降った。
『ぜんぶ、てめえか……』
ウンブリエル――六角の感情を殺した声はスピカに向かっていた。
スピカは梓真と理緒を地にふたたび下ろす。
今の二人は足手まといでしかない。退路を探すが、背後は切り立った堤防。前はミランダが塞いでいた。
『裏切り者は俺が始末する。おめえはその二人を捕らえろ』
身構える梓真と理緒。だが――
『何してやがる!? 早く……』
ミランダは動く気配を見せない。
『そうかよ、ハハ……ったく、どいつもこいつもよお!!』
二本の大鎌が襲いかかる。スピカは残像を残して跳び去るが、凶刃はそのまま大地を割った。
梓真は崩れた堤防とともに転落する。
「く……」
体中が痛い。もはや、どの傷がいつのものかすらあやふやだ。
それでも状況は忘れてはいない。梓真は痛みをこらえて体を起こした。
辺りには、岩石とコンクリートの塊が散乱している。
「よく……無事でいられたもんだ」
「ミランダのおかげよ」
理緒が独り言に答える。差し伸べられた手を取って、梓真は起きあがった。
「ミランダが?」
「ほら」
オルターは都市迷彩に土を被り、両腕で巨石を押さえていた。梓真があわてて退くと、それを待って岩は放たれ、浜辺へ転がる。ミランダがいなければ下敷きになっていただろう。
遅れて、玲亜も姿を見せる。
「ひどい格好、二人とも」
理緒も梓真も全身、土にまみれていた。
「生きてりゃいい」
「ええ」
笑い合う三人。しかしすぐさま空虚な静けさが訪れる。
そこへ空気を読んだ銃声が降りかかる。
「話はあと」
走り出す玲亜を梓真と理緒も追った。完全に信用したわけではなかったが、今は逃げ延びることが最優先だ。
それをフェイカーの生き残りも追う。暗がりに無数の銃火が明滅を繰り返す。傷一つ負わなかったのは奇跡ではなく、ミランダの加護だ。
浜辺はどこまでも続いていたが、人工の堤はいつのまにか天然の岸壁に変わっていた。
「梓真、あれ!」
理緒が浜辺に近づくボートを指し示す。是が非でも逃がすつもりはないようだ。
「くそ……」
崖上ではスピカとウンブリエルの死闘が繰り広げられていた。スピードは互角。だが重量差による不利は明らかで、援護は期待できない。
すると玲亜は、崖の深い窪みへ足を向ける。
波に浚われた岸壁は陸地に切れ込み、天然の階段を形成していた。
「これなら登れるな」
「そうね」
「でも……」
でも――上にはウンブリエルがいる。
さらには、無防備な背中をフェイカーが見過ごすはずもなかった。
だからといって他に行き場はない。フェイカーの数は止まることを知らず、浅瀬からとめどなく、まさに波のように押し寄せてくる。
けれどその姿は一様ではなかった。
折れ曲がった胴体、片腕、足を引きずる者もおり、動けるのが奇跡と思える深手の者もいた。
それが一心に迫り来る。
亡者だ――梓真は恐怖した。
突如、岩影から三体が飛び込んだ。
ミランダが戦槌を撃ち込み、払う。それが唯一残された武器だった。フェイカーは素手だが、その力は成人男性の三倍に及ぶ。梓真には手出しのしようがない。
フェイカーたちが倒されると同時に銃撃が再開し、ミランダはふたたび盾となる。
損傷は激しい。
幸い、銃声は対人用のハンドガンだ。しかしいつまで保つか。
再度の強襲、またしても三体。しかし一体は銃を手にしていた。二体がミランダの腕を押さえ込み、一体がむき出しのわき腹に銃口を差し込む。
梓真はそれを押し出そうとしたが、びくともしない。
理緒は頭ほどの石を拾い、フェイカーの腕に一撃した。二撃目は頭部へ。その間にミランダは体勢を立て直す。腕に取り付いたオルターのカメラを潰し、もう一体にぶつけた。
一息つく梓真。しかし、今度は闇夜に近づく火花を見つける。
(ロケット弾!)
梓真はフェイカーの残した拳銃で狙いを付けた。
「くっ!」
トリガーを引くと、重い衝撃が肩と肘を襲った。
初めての射撃だ、当たるわけがない。梓真は左腕の痛みに耐えきれず、右腕だけで構え直してもう一度撃つ。
だが当たらない。
「うおああああ!」
雄叫び、連射する。
命中は、たぶん奇跡だろう。
爆風が覆い、何かが地面に押し潰す。
そこから這い出ると、辺りは奇妙な静けさに包まれていた。
「みんな、生きてるか……」
「なんとか」
「……ええ」
二人の姿を砂埃の中に見つける。だがミランダが動かない。
(俺をかばって……)
胴部の装甲が粉砕し、内部も深くえぐられていた。
「すまねえ……」
「……いいの。それより――」
「どうして襲ってこないの?」
梓真と同じ疑問を二人も抱いていたようだ。軍装のフェイカーたちは梓真たちを見据えたまま、不気味に静止していた。
張りつめた緊張がたわむ。
その刹那――
背後の岩があざ笑うように鳴り響いた。
何かがはじかれ目の前で崩れる。
「……ス――」
「スピカ!」
玲亜が駆け寄る。遅れて理緒も。
変わり果てた姿に息を呑んだ。四肢はなく、胸部は抉れ、赤い何かが滴っていた。
「ごめんなさい。……失敗しちゃった」
「おまえ、なんで……」
疑問がいくつも沸き出して、うまく言葉にならない。
「本当は、ウンブリエルを起動前に……うまくいかないものですね」
「スピカ。……おまえ、俺を……」
「加瀬さん。人の世界を捨ててはだめ」
理緒はスピカに手を添え、抱き起こした。
「人の世界は可能性、そして光に満ちている。……わたしの育った場所とは真逆の世界」
「おまえ、ひでえ目に遭ってたじゃねえか」
「……でも、いろんな人に……おもしろい人に会えた。優しくて、素直じゃなくて、それから……そうね……」
「……」
彼女の言葉は梓真の頑な心を揺さぶり、柔らかく溶かしていった。
そして――
梓真をのぞき込むスピカの目。その中に決然とした意志があった。理緒の目に似た――
その心の灯が今にも消えようとしている。
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