alter ego
豊 名尾汽
黄泉に眠る……
薄闇が覆う戸口の奥には真の闇が広がっていた。
果てのない、黒の世界――
視界を奪い、やがて知覚すべてを蝕んでゆく。煩わしい虫の声も、湿気まじりの土の匂いも、足裏の感触すら闇の中に消えていった。
静寂の世界に一つ残ったのは、心臓の音。
やがて警告の早鐘に変わる。
落ちている――そう思った。
落ちていく、闇の中を。
そして闇に溶けていく。恐れはなかった。
――いいえ、違う。
それに勝る恐怖が、ずっと腕の中にあったからだ。
物言わぬ少女。
今の彼を突き動かすすべて。
その冷たい体に、胸の鼓動は速まり、激しくなってゆく。
「理緒!」
答えは返らない。
強く抱きしめると、腕に強烈な痛みが走った。
闇が解放したのはその時だ。一瞬にして光が包み、思わず目を細める。
そこへ声が響いた。
「どうかした?」
目を落とせば、白一色の空間にしみのような影が浮いている。
「……なんでもねえ」
「そう」
肩で汗を拭う彼に、影は関心を示さない。少なくとも口調には出さなかった。
目が慣れてしまうと、そこは冥界でも天上でもない、ただの雑然とした物置だ。照明だけがひどくまぶしい。
かすかな記憶が蘇る。
ここはずっと昔、彼が遊び場にしていた場所だ。父に内緒で走り、飛び跳ね、隠れ、探検した。
しかし記憶の中では無限に広がっていたダンジョンが、今は両手が左右の壁に届きそう。見上げるように高かった棚も、最上段が目の高さにあった。
郷愁に浸るうち、ふとした疑問が芽生える。
(俺はいったい、いつからここに来なくなった?)
「こっち」
中央に、ひときわ古色の木棚が鎮座していた。声はその向こうからだ。
そこには見慣れない大穴が開いていた。
(初めて見る、はずだ……)
ゆっくりと近づく。足がひどく重い。
「入ってはいけない」
影とは別の声が聞こえた。
「戻れなくなる」
現実のものではない。
踏み出すたび、声は大きく、はっきりとしてゆく。それは頭の、記憶の奥底から響いていた。
「口車にのってはいけない」
「信じるな。信じてはダメだ」
「あそこに行けば、元の自分ではいられない」
(やめろ……)
言葉は悪寒に変わり、全身を駆けめぐる。
「あれを、見るな!!」
(……!)
内なる言葉に逆らって少女を肩に抱えると、地下へと向かう階段に向き合う。
慎重に一歩を下ろした。
残された時間はもうない。けれど、ここでもし転落でもすれば、すべてが台無しになる。
伸ばした足がひどく震えた。疲労と、何より恐怖のためだ。
――怖い。
――戻りたい。
――すべてを忘れて逃げ出したい。
次々に湧き出る負の感情。
崩れそうな心を支えたのは、少女との思い出だった。
口からこぼれる悪態と強がり。溌剌としていて、でもどこか寂しげな姿。
理由は、今ならわかる。
その心情を想い、胸が締め付けられた。
(また拒絶されてもいい。憎まれ口を叩かれてもいい。俺はもう一度、こいつと……!)
「覚悟はできた?」
地の底に待ち受ける影の声が、甘く妖しく彼を誘う。
「いくら待ってもできねえ、んなもん」
「……」
「……だから、とっとと開けてくれ」
扉は間髪入れずに開き、光と冷気が漏れ出した。
「待ってろよ。もう少しだ」
背中越しに薄く笑いかけた。
広大な空間は、凍えるような冷気に満たされていた。床には塵一つない。壁際の棚も地上と同じく物に溢れていたが、見るからに清潔そうだ。
だが、そこから何かがはみ出していた。
(小さな……手のひら……!?)
思わず後ずさる。彼は辺りを見回すのをやめ、中央のもっとも明るい場所に並んでいる作業台に向かった。
そこに少女をそっと寝かせ、顔を上に向ける。
(本当に間に合うのか……?)
その半面は弾痕で崩れ、見る影もない。乾いた血が服を真っ赤に染め上げていた。
(くっ……)
正視に耐えられず、影を探す。
それは薄い
「この向こう……」
声は感情を殺している。影も、ただ無慈悲な魔女ではない。
安置されたガラスの棺、その中には――
体が震え、景色が歪み、膝が地面を突いた。嗚咽が止まらない。
だが、もう一刻の猶予も残されていなかった。
(俺は理緒を助ける! そのためにここへ来たんじゃねえか!)
ここで手を止めるわけにはいかない。笑う膝を押し込んで、棺に手をかけた。
世界を、自らを呪いながら――
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