39 大地に混ざる


 敗走する敵師団を追撃している時だった。

 足を怪我して動けないでいるエルフの女を発見したゼトアは、罠かと警戒する部下達に追撃を任せて、自らその女を保護した。

 自らの怪我すら治せぬ程に弱りきったその女は、魔力の尽きかけた自由の利かない身体で、それでもゼトアのことを鋭く睨みつけた。

 初めて見た瞳の色だった。美しく穏やかな碧の中に、その時は激しい怒りや憎悪、慟哭すら聞こえてきそうな程の悲しみが浮かんでいた。

 聖なる存在であるエルフにここまでの憎しみを燈させる人間達に改めて殺意が湧いたが、それよりも、ゼトアの関心を惹いたのは彼女の魔力の波長だった。

――落ち着く。

 それは永き時を生きてきたゼトアにとって初めての感覚だった。まるで母なる海を体現したようなその碧に、ゼトアは釘付けになってしまった。

 魔王アレスの掲げる志に則り彼女を手厚く保護する一方で、ゼトア自身、自らの中に生まれた愛情とも欲望とも取れる感情に従い彼女の身を、心を堕としたのだ。

 清らかに輝く海に、醜く穢れた闇が混ざる。それは魔王との情事では得ることの出来ない、背徳の色合いで。求めてやまない愛しき存在に、その『全て』を視通されて。全てが、最初から歪んでいた。

 その身に血を分けた存在を孕んだ時、彼女は一体何を想っていたのだろうか。

 心からの喜びか。はたまた大いなる存在への勝利に酔いしれたのか。それとも、それでも消えぬ恐怖か、その身に宿すものへの罪悪感か。

 しかし彼女は永き時を経て『母』となった。その身に孕んだ全ての存在が『母』となるわけではない。その覚悟、決意によって、初めてその存在は『母』になるのだ。

 だからこそ、ゼトアは自覚している。自分は『父』にはなりえないのだと。息子への愛情はある。だがそれは、きっと、魔王によって歪まされたものに他ならない。

 ゼトアにとっての『全て』は魔王である。それはこれからも永遠に、死が自分を迎えに来るまで変わらない事実なのだから。

 彼女は、もしかしたら……それすらもわかっていたのかもしれない。その恐怖から、焦燥感から、『全て』から、自ら――と息子を守る一心だったのかもしれない。

 ゼトアの思惑通りに事は進んだ。しかしそれも、もしかしたら大いなる『全て』のおかげだけではなく、彼女の……『母』の、女のささやかなる存在が大きく関わったのかもしれなかった。








 愛していた。本当に。愛していたのだ。歪でも、純粋でも、それは等しく愛だった。

 天使の混ざり込んだ彼女の心に、この気持ちは届いたのだろうか?

 天使はその横顔で泣いていた。愛しき男へのその涙は、一体どちらが流させたものなのだろうか。

「これが涙、か……」

 横顔が小さく呟く。己から流れ落ちるものに息を呑む気配。

「天界の使者は荒んだ地上の争いを嘆き、一粒の涙を零した。その雫は豊穣の力を宿し、争いのない平和をもたらす、そうだ」

「なんやそれ、教会の教えか?」

「天使様とは思えん言葉だな」

「いろいろな歪曲があるからな。まぁ、だいたいのことはこの魔力があれば出来るんやけど」

 流れる涙もそのままに、天使は小さく笑う。泣き顔すらも美しく、それこそが彼女らしい極上の色気を孕んでいる瞬間だ。

「泣いている顔が一番、愛おしいな」

「……ほんまにカワイソウ、やわ」

 いつかの言葉をもう一度言う天使。そこにはなんの反論も出来ないので、ゼトアは静かに歩を進めるのみ。

 暫くの沈黙の時。相変わらず砂嵐は吹き荒び、この地へは何者からの干渉も許しはしない。

 やがて、目的地に辿り着いた。

 なんの目印もない、荒野の外れ。砂漠地帯にほど近い、砂嵐の圏内だ。忘れもしない、争いの跡。それは目に見えるものだけではなく、この地の空気や気配といった全てを脳に刻み付けた。

 だだっ広い大地に背負っていた天使の身体を仰向けに寝かせてやる。天使は何も言わずにされるがままに横になった。意識はしっかりしているが、傷ついた身体はもう自由に動かないのだろう。もうすぐ、堕天した彼も動かなくなる。最後の時への時間だった。

「ここが、そうなんか?」

 砂嵐の向こうの天を仰ぎ見るように、天使が目を細めながら言った。その表情にはただ、最後の時を迎える、そのことへの静かな微笑みのみ。まるで安堵とも取れる表情だった。

「ああ。この地にお前を埋めて、乾いた大地に恵みを与える」

「……なるほどな。堕天した俺にはもったいない御業やな」

 天使の身体をその精神ごとこの地に植え付ける。それは本来天界の王、つまり彼等の言うところの“神”の御業である。だが、神はその愛しき兵隊に自らの御業を操る術を与えていた。

 天使の愛槍でその天使を大地に植え付ける。そうすれば、この地は渇きとは無縁の豊穣を約束される。そしてこの天使の――そして彼女の精神も、永遠にこの地に寄り添い続けるのだ。

 それは奇跡とも言えるものだった。ただただ堕ちるだけのそれを、この地に留め神々しいまでの贄として扱う。理に反した、決して地上の者が踏み込んではいけない領域。

 だからこそ、ゼトアは行うのだ。魔王の目の届かないこの地に、運命ともとれるこの地に、愛しき心を刻み付けるために。愛しき息子に守られた、この背徳の地に彼女を祭るのだ。

――ルツィアを汚すのは俺だけだ。

 清らかなるエルフの女を、魔族の軍人がその身を汚した。魂まで刻まれたその闇に、エルフの女はその身を堕とした。

 やがて産まれた光と闇の混血に、その女の心をさらなる歪みが軋ませる。

 それはたった一人の魔族の男がおこした罪で、そこには天界も魔王も関係ないのだ。

「お前は……視なくて良い」

 天使の目を追い天に向けたその頭で、ゼトアは小さく、本当に小さく呟いた。それは天使の耳に届くことはなく、ただ砂色の空へと掻き消える。ごうっと、砂嵐がざわついたような気がした。

 天使の胸の上に光輝く槍が現れる。それは正しく天使の愛槍“ブレランツェ”で、その鋭利な刃を下に向け、静かに宙に浮いている。

 鋭く、純白に光るその刃の下で、天使はまるで祈るようにその手を結んだ。ゼトアの愛する碧が、静かに閉じられる。天使の口がゆっくりと動く。

「ゼトア、ありがとう」

 その酷く穏やかな声音に、ゼトアは小さく頷いた。宙に浮かんだ槍が、静かにその身体を貫いた。

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