36 彼女の祈り


 長らく続いた地鳴りが止んだ。石造りの遺跡が倒壊するようなことはなかったが、ところどころの装飾――光の魔力を放つ光源達は崩れ落ち、消え去ってしまっていた。

 その揺れはこの地方の大半を巻き込み、まるで闇夜を恐れ慄くかのように明け方まで響き続けた。日の光は――砂嵐によりその本来の明るさの半分程しかここには届いていなかった。

「魔力を通さない砂嵐……まるで牢獄だな」

 ゼトアはそう独り言ち、右手を前に突き出した。舞い散る砂が視界の大半を遮断している。目の前には何も見えない。その空間に向かって、ゼトアは己の魔力を叩き込む。

 魔力を通さない砂嵐が、その許容量を超えた魔力によって打ち消される。ほんの少しの、遺跡のこの空間だけは、砂嵐から隔離される。牢獄からの隔離。

「お前は、望みを叶えられたか?」

 ゼトアは隣に目を向けた。光の暴発前から変わらず、彼女はそこにただ膝をついていた。愛しい彼を欲し、愛しい息子を捧げた聖職者。彼女は、ゆっくりとこちらを向く。その口からは聖なる祈りはもう紡がれず、その瞳は――欲望に満ちた狂気を映す。

「やっと……やっと……手に入れた……」

 彼女の身体が立ち上がる。ゼトアとそう遠くない距離で向き合いながら、彼女の表情が彼女らしくなく歪む。それはまるで悪魔のように。

「やっと女の身体手に入れたわ……ゼトア」

 紛れもなく彼女の声で、天使はそう言った。

「器が損壊しなくとも、降臨は行えるんだな?」

 彼女を器とした天使は、まだ前の器のクセが抜けないらしい。相変わらずのイントネーションが、彼女の形の良い口から違和感なく零れ落ちる。

「天界の岸辺で魔力混ぜたら器が持たんと吹っ飛んでもた。多分その辺に落ちてるんちゃうか? それにしてもお前の息子――いや、俺……ちゃうわ、“私ら”の息子、えげつない魔力やったんやな」

「街ごと吹き飛ばす魔力は秘めていたからな。グリアスに息子も混ぜたんだ。自業自得だな。お前の望みは、叶ったんだろう?」

「魔王アレスに向けて放つつもりが、暴発させてもたけどな」

 天使は砲身と弾丸を用意した。しかしそれは暴発を招いた。だが天使はひとつの勘違いをしている。強すぎる魔力に暴発したのではない。魔王にはそれが視えていた。

「まぁ、ええわ。この女の身体手に入ったし……これでお前を私のもんに出来る」

 酷く耳障りな、言い慣れぬ彼女のその言葉に、ゼトアは目を細める。

 彼女の背中には神々しいまでの光の羽が生えていた。彼女のなかの聖なるエルフの血に反応し、天界の魔力が喜びに震える。その片手に光の魔力が集まり、長年の愛槍が現出する。眩い翼を猛々しく広げ、天を舞うその姿は正しく光の使徒だった。

「お前を俺のもんにしたい!」

 天使は酷く楽しげに、まるでそれだけしか言葉を知らぬ――それだけしか願いはないかのように、その言葉だけを繰り返す。狂おしいまでの執着は、心身からのもので。

「お前は、天使をその身に引き入れたんだな」

 上空から勢いよく襲い掛かる天使ではなく、その瞳の奥を覗き込むように、ゼトアも槍を手に応戦しながら問い掛ける。天と地に分かれた二人の動きはほぼ互角。上空という広き利を利用しての互角ならば、その槍術の差は歴然である。

 何度目かの交差の末、ゼトアの技術が天使を勝った。光輝く愛槍を吹き飛ばし、その肉体の首元に刃を突き当てる。

「あの酷く寒々しい祈りは……天使を引き入れる呪文だったのか」

 彼女は一心に祈っていたのだ。その身に、魔王を上回る力を宿すために。魔王を上回る存在を宿すために。そこに天使は擦り寄ったに過ぎない。

 彼女の表情が、彼女らしく歪む。

「そうよ。魔王は殺せなかったけれど、この魔力があれば私は更に強い息子を生み出せる。私は貴方のモノを生み出せるのよ」

 耳障りなイントネーションはもう消え失せた。ここにいるのは天使と同化し己の欲望を引き摺り出された女だった。エルフの母親はもういない。息子の安否等、その口から出るはずもないのだ。

「俺の息子はグロッザだけで充分だ。歪で不安定な少年達に愛情という蓋を与えた。お前はもう用済みだ」

 魔王の視た未来に向けて、ゼトアはただ行動する。そのことに彼女は無性に腹を立てた。その手に光と共に愛槍が戻る。怒りに血走る目で、魔物の如き形相でその槍を振るう。人の一番強い感情は怒りで、愛情からくる嫉妬程、業の深い力もない。

「貴方は私のものよっ!!」

 雄たけびのようにそう叫び、彼女は一直線にゼトアに突進してくる。ゼトアはその攻撃を真正面から受け止める。ギリギリと、お互いの得物が火花を散らす。

 魔力でねじ伏せた砂嵐が、その身を捩じるように蠢いた。悲痛な叫びでも聞こえてきそうなその渦に、天使の身体が一瞬硬直する。

「視るなっ! 視るんじゃないっ!!」

 天使はまるで何かに怯えるようにその身体を折り曲げた。自身の身体を抱き締めるようにして座り込む。その瞼は強く瞑られ、世界の全てを否定するように拒否の言葉を喚き散らす。

 ゼトアの捻じ伏せた魔力の外で、砂嵐が勢いを増した。憎悪、非難、悪意――そのどれとも違う、微かな気配を感じさせながら。

「お前の人間らしいところを、見せたくないのか?」

 ゼトアの言葉に彼女――彼女のなかの天使が悲痛な声をあげた。

「俺は天使や! たとえ堕天しようが、お前を俺のもんにする! 魔王なんかにお前は渡さん!」

 彼女の口を借り、欲望に塗れたその言葉に、彼女自身が喜び、そして絶望する。そう。その身体では自分だけの彼ではなくなるのだ。

「あぁ……あぁ……」

 絶望のなか、縋るようにゼトアを見るその瞳。いつか見た縋るようなその瞳が、ゼトアは好きだった。その瞳で天使は、欲望に支配された槍を振りかざす。

 その身体を、ゼトアの槍が貫いた。

 あの日の情事をなぞるように、その身体を何度も貫く。愛しき魔王に刻まれたその精神を、新たな傷で塗り替える。自らの手で刻まれたそれに、天使の顔に薄い笑みが浮かんだ。

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